逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

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ささやかな願いを偲ばせて

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 ***

「ねぇ、どうしたの? 具合でも悪い?」

 雨で濡れて冷え切った身体が重たい。ぼーっとする意識の中、耳に届いた声が自分に向けられたものだと理解するまで、数秒の時間を要した。

「手、怪我してるね。あ、そうだ。ちょっと待ってて、確か絆創膏を持ってたはずだから」
「……いらない」

 絆創膏を差し出そうとしているのだろう、こちらに向けられた白くて小さな手を払いのける。そうすれば、いつの間にか目の前に屈み込んでいた女の顔が、きょとんとしたものに変わった。大きな焦げ茶色の瞳に、気だるげな顔をした俺が映っている。

「っていうか、アンタ誰。俺に構わないでくれる? ……迷惑だから」

 ダークブラウンの長い髪を緩く巻いている女は、綺麗な顔立ちをしていた。無害そうな顔をしているが、どうせこの女も同じだろう。

 俺みたいなのに声を掛けてくるのは、俺の容姿を気に入った頭の軽い女や、“他者に優しくできる自分”という悦に入りたいだけの奴や、承認欲求を満たしたい奴。大体が耳障りの良い言葉を並べ立てて近づいてくる。そしてそこには必ず、偽善や打算や見返りといったものが付属している。

 それを、俺はよく知っている。

 ――ああ、面倒くさい。もう何も考えたくない。

 愛想笑いを浮かべて対応する気力も残っていなかった俺は、女を突っぱねた。冷たくすれば、どうせすぐにいなくなる。でも今晩泊めてもらう家をまだ決めていなかったし、この女を上手く丸め込んで、家に上がり込むのも良かったかもしれない。そんなことを頭の片隅で考えながら、またぼーっと虚ろな時間を過ごす。

「……ごめん。迷惑って分かってるけど、やっぱり放っておけない」

 とっくに立ち去っただろうと思っていた女は、まだ目の前にいたようだ。その声は、微かに震えている。――怖いなら、見ず知らずの俺のことなんて放っておけばいいのに。馬鹿な女だ。

 ゆるりと顔を持ち上げれば、女は絆創膏を持った手を所在なさげに宙で止めている。
 黙って右手を差し出せば、またきょとんとした顔になった女は、合点がいったと言いたげに顔色を明るくして、絆創膏を俺の指に巻き付けてくれた。

「はい、これで良し! さすがにタオルは持ってないから……濡れたままじゃ風邪引いちゃうし、早く帰るんだよ」
「……余計なお世話だよ」
「あはは、そうだよね」

 俺の素っ気ない言葉にも、女は邪気のない顔で笑うだけだった。
 ――俺の中で、何かがコトリと音を立てる。

「あ!」

 そのまま立ち去ると思ったのに、女が突然大きな声を上げるものだから、俺は下げかけていた目線を再び持ち上げる。

「ねぇ見て! 星が出てる! さっきまで雨が降ってたのに……すっごくよく見えるよ」

 見上げた先にいた女は、星を写し取ったようなきらきらした目をして、子どもみたいに無邪気な笑みを広げながらはしゃいでいる。

「……お姉さんって、子どもみたいだね」
「なっ……これでも、れっきとした社会人ですから」

 思ったままを口に出せば、笑っていたお姉さんは、むすっと膨れ面になった。ころころ変わる表情が何だか可笑しくて、自然と口許が緩む。

「ふっ……やっぱ、子どもみたい」
「っ! だから、子どもじゃないってば!」

 俺の顔を見て、一瞬目を瞠ったお姉さんだったけど、我に返ったかのよう、またむすっとした顔を作った。そしてそのまま、背を向けてしまう。

「それじゃあ、私はそろそろ行くね!」
「あ、待ってよお姉さん」

 呼びとめれば、律儀に足を止めたお姉さんが振り向いてくれる。

「ありがとう、お姉さん。――またね」
「? うん、またどこかで会うことがあれば……」

 不思議そうにしながらも頷き返してくれたお姉さんに、俺は今度こそ、ひらりと手を振った。

 ――もし、この言葉が実現した、その時には。もう一度くらい、誰かを信じてみてもいいのかもしれない。あの人なら、きっと……。

 そんな俺の小さな願いは、現実になった。

 正直初めは、興味本位で声を掛けただけだった。百合子さんのことを全て知っているわけでもなかったし、たった数分話しただけの間柄だ。
 だけど、それでも。あの夜のことを、俺はずっと忘れられずにいた。また会えたらと、あの笑顔を自分だけに向けてほしいと、心のどこかで願っていた。

 あの時からずっと、俺には百合子さんしか見えていない。百合子さんだけがいればいいし、正直、他の奴なんてどうでもいい。百合子さんが隣で笑っていてくれるなら、誰がどんな不幸な目に遭っていたとしても構わない。
 そんなこと言ったら百合子さんを困らせるだけだって分かっているから、本人に直接伝えたことはないけど。

 ――これから先もずっと、百合子さんの隣に在るのは、俺であればいい。この人の隣は、誰にも譲らない。

「あ、黒瀬くん見て! ボートだよ」
「ほんとだね」
「どこから来たんだろう。ボートのレンタルとかもしてるのかな?」

 青い手漕ぎボートに乗って川を流れてきた旅行客に、楽しそうに手を振り返している百合子さんの横顔を見つめながら、繋いだ手にそっと力を込めた。

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