冷徹秘書は生贄の恋人を溺愛する

砂原雑音

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1巻

1-2

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 その笑みがまた意地悪なものに変わったと思った直後、私の首筋に顔が寄せられ吐息が肌をくすぐる。

「んんっ……」

 ちゅっ、と可愛らしい音を立てて、肌をついばまれた。けれど、可愛らしいのは音だけだった。彼の乾いた唇は、そのまま羽のような柔らかさで私の肌の上を滑る。その間も、胸の上に置かれた手は軽く力を入れて膨らみの周囲を辿たどっていた。

「あ、あ、あ」

 小さなさざ波のような心地よさが、彼の触れているところから身体中に広がっていく。感じたくない、いや感じてはいけないのだ。それなのに、どうにもならない。
 触れ方はこの上なく優しいのに、その効果は暴力的なほどだ。こちらの意思など関係なく、身体の力が抜けていき、頭の芯がじんとしびれる。

「んーっ」

 甘い声が漏れ続けるのをどうにかしたくて唇を引き結ぶ。ついでに相手を振り払おうと激しく首を振ったら、ふっと息で笑われた。
 たちまち、カチンと頭にきた。文句を言おうと口を開いた次の瞬間、耳の裏側にぬるりと舌が触れる。

「あああっ」

 ぞぞ、と甘いしびれに身をよじる。片肘をベッドについた彼の腕が、私の頭を囲った。顔を横にそむけた状態で、がっしりと頭を固定され、逃げる身体を抑え込まれる。そして耳元に、彼の唇を感じた。

「んあっ」
「……耳、弱いな」

 吐息まじりの声を吹き込まれただけで零れてしまった甘い声。いや、耳、弱くない人なんていないでしょ?
 今の私は、彼に自分の弱点をさらけ出した状態で、身動きひとつできないでいる。
 これまでは、この状況はただのおどしにすぎないと、心のどこかで彼の良心に期待していたのだと思う。けれど、ここにきてようやく、彼にこの行為をやめるつもりが欠片かけらもないのだと理解した。

「や、だめ、やめ、やめて」

 顔を横に向けたまま動けない。手に上手うまく力が入らなくて役に立たない。唯一まともに動いてくれそうな足で、シーツを蹴って逃げようとした。けれど……

「あ、あ、ああああっ、あっ」

 耳朶じだから耳の裏まで、吐息を吹きかけながら舌でめ上げられ、耳の縁を辿たどって耳朶じだに戻る。それを何度も繰り返され、無意識に零れる甘い声が部屋に響いた。否応いやおうなく身体の熱が上がる中、頭を押さえる手の指が髪をくように地肌を撫でる。まるで私をなだめすかして、甘やかしているようだった。
 じっくりと時間をかけ、散々耳と首筋をめられた私は、もう何か考える余裕もない。じっとりと肌が汗ばんでいる。服はすっかり乱されて、隠れていないところのほうが多い。
 耳への愛撫あいぶですっかり私から抵抗力を奪った彼の唇は、今はささやかな胸の谷間で肌の柔らかさを楽しんでいた。胸元で弾む唇に、羞恥心しゅうちしんが湧き上がる。
 スカートのすそから忍び込んだ手が、太腿を撫でながら奥に入ってこようとして、びくりと身体を震わせる。するとその手は、一度膝まで戻った。
 そんな彼の冷静さが怖いと、わずかに残った思考が訴えている。
 そう、この状況においてなお、彼は冷静に私の反応を見極めていた。
 そのことに気がついて、少し頭が冷える。この人は多分、ただ私を抱こうとしているわけではない気がした。
 ……何をしようとしているんだろう?
 考えていると、太腿の裏をさわさわと撫でられて、また頭の芯がしびれてくる。だめだ、このままでは、本当に手を出されて終わりになってしまう。
 力ではかなわないし、泣いて許してくれるタイプにも見えない。
 この窮地きゅうちを脱出するには。
 そうだ、話だ。何か、話をするほうに持っていこう。

「あ、あっ、あのっ……そういえば、なんですけどっ……」

 浅い息遣いでどうにか声を出したからか、あえぎながらのみっともないしゃべり方になった。だけど今は、そんなことを気にしていられない。

「なんで、私のこと、知って……」

 純粋に疑問だったことをとりあえず口にする。

「本社の社員の顔と名前と部署くらい全員頭に入ってる」
「う、うそぉ……何人いると思って……」

 社員全員……全員、って言った?
 それを知って、頭の中で何かが引っかかる。しかし、引っかかった何かを考えるだけの時間を、彼は与えてくれなかった。

「あんっ……」

 まるでお仕置きでもするみたいに、突然、胸の先に刺激が走る。
 胸にあった手の指でつぼみをきゅっとひねられたのだ。

「あっ、あ、あ」

 親指と人差し指で、きゅっきゅっとリズムをつけて摘ままれる。甘い刺激に、また頭の中が熱くなってきて、強く目をつむった。
 目を閉じて胸からの刺激に耐えている間に、すっと内腿を辿たどった手が素早く足の間にもぐり込む。あっと思った時には、ショーツの上からその場所に爪を立てられ、筋に沿ってなぞられた。

「ひ、ああああん」

 中心から、上部に向けて指を動かされ、くるりと爪で円を描かれる。私の口から、あられもない声が出た。快感がびりびりと脳に響いて、無意識に腰を跳ねさせる。
 おおい被さっていた彼が上半身を起こしたことで圧迫感がやわらぐが、解放されたわけではない。胸をいじっていた彼の手が肌を撫でながら下りてきて、私の腰骨を掴む。そして、秘所を撫でていた指がショーツの中にもぐり込んできた。

「や、ああ」

 ぐちゅりと音が鳴って、泣きたくなるくらいに恥ずかしくなる。こんな状況なのに、そこはしっかりとうるおっていた。
 私の中で、一線を越えてしまったような諦め感が満ちてくる。
 とうとう触れられてしまった場所は、自分の中で最後のとりでのような感覚だったのかもしれない。

「やあ、だめ、だめ、だめっ……」

 めくれ上がったスカートの中で、ぐちゅぐちゅと音がしている。私の腰を掴んでいた手が、指にショーツの端を引っかけ下ろす。太腿の中ほどまで下ろされたところで、咄嗟とっさに膝を曲げて足を閉じようとした。しかし、黒木さんの身体が邪魔をして叶わない。
 仕方なくスカートのすそを掴んで、せめてもと自分の足に押し付けた。足の間に、彼の手を挟んだまま。

「だ、だめ、もうっ……やめて」

 そう言って下唇を噛みしめる。そんな私を見下ろす彼は、悔しいほどに乱れていなかった。私はこんなにみだらに乱されているのに、彼はワイシャツのボタンをわずかにふたつ外しているだけで、汗ひとつかいていない。
 ここが会社なら「さてもう一仕事するか」なんて言い出しそうな雰囲気だ。私ひとりだけが、全身の肌を真っ赤に染めて服をぐちゃぐちゃにしている。
 悔しくて、乱れた息を無理やり呑み込み、黒木さんをにらんだ。私を見返す彼の目は涼しいままだけど、手が止まった。

「やめてほしい?」

 秘所に触れていた指が、くっと関節を曲げてその場所を刺激する。

「んっ……」

 声は噛み殺したつもりだったけれど、少しだけ漏れた。それでも相手をにらみ続けていると、なぜだかとても、面白いものを見るような目をされた。

「……やめてほしそうには見えないけどな」

 指を曲げられる度に、くちゅくちゅと音が鳴る。彼の指を冷たく感じるのは、私のその場所が熱くなっているからだろうか。

「やめ、くださいっ。ほんとに、そんなつもりで、ついてきたわけじゃなくて、具合が悪そうだったからでっ……」

 ゆっくりと私の呼吸を乱す、もどかしい愉悦ゆえつに耐えながら、どうにかこうにか、言葉を発した。彼の指先で繰り返し与えられる刺激に、曲げた膝がぴくぴくと反応している。

「そうか、でも、まあ……遊んでいけ」

 彼の声は、相変わらず熱がなく、そして行動には容赦の欠片かけらもなかった。
 立てた私の膝に、秘所をあやす手とは反対の手を添えると、彼はそこに自分の頭を寄せた。まるでまくらにでもするみたいに。

「あ、あそ、あそ……?」

 ……遊んでいけ⁉
 やめてと言っているのに、その返しはないだろう。
 なんだろう、何をどう言えばいいのか、まったくわからない。ただ、馬鹿にされているのだけは、よーくわかった。
 かっと頭に血が上る。力ではかなわなくても、そう簡単に好きにされてたまるかと遅まきながらに反発心が生まれた。それが、彼に反撃する気力に変わったらしい。
 相手は悪魔と恐れられている人だと、無意識に萎縮してしまっていた。けれど――
 ぶんっと彼が抱いているほうの足を振り上げる。そのまま、彼の顔面を標的にした。力では劣るけれど、さすがに顔面に足が当たれば隙ができるはずだ。そうしたら、逃げ出せる。

「おっと」

 振り上げた足を、ひょい、とかわされて、膝の裏を掴まれた。不意打ちを狙ってもっと慎重にやればよかった。後悔してももう遅い。
 彼は私の膝裏を掴んだまま、上から身体を押さえ付けるようにし掛かってくる。

「ひゃあんっ」

 その拍子ひょうしに、秘所を擦る指がぐちゅりと音を立てた。彼の手のひらが私の陰核に触れ、そのまま押し潰してくる。

「こ、こんなことして、いいんですか、社長の秘書が……っ」
「……まあ、よくはないが……それを言ったらお互い様だな? それに部屋の前まで自分で歩いてきただろう」

 暗にこれは同意だと言われ、くすりと耳元で笑われた。がっちりと押さえ込まれた身体は身動きすらできず、反撃の無意味さを教えられる。
 濡れた襞を撫でる指は、蜜を絡めるように入り口をくすぐる。同時に、親指が陰核を撫で始めた。
 腰が甘くしびれて、逃げ場のない熱が溜まっていく。
 優しく、緩く、官能を誘う指の動き。否応いやおうなく私を愉悦ゆえつが襲い、目の前がちかちかした。彼の香水だろうか、ふわりとレモンのようなさわやかな香りがただよう。

「……もし、本当にやめてほしかったら、何が目的で俺に近づいたのかちゃんと言え?」

 命令口調なのに、優しく問いかけられているようで、くらくらと眩暈めまいがした。
 ああ、だめ、だめだ。
 言っちゃいけないこと。でも言わないとやめてもらえない。でも、本当に、黒木さんに近づきたかったわけじゃなくて、変なものを飲まされた彼が心配だったからで。
 でも、薬はまったく効いてなさそうだし具合も悪そうじゃないから、信じてもらえないかもしれない。

「あああああん」

 蜜口をくすぐっていた指が、うるんだ中へともぐり込む。くるりと親指の指先で陰核の皮をき、熟した花芽を露出させる。
 もう、悲鳴みたいな声しか出ない。こんな、全力で感じさせておいて、本当に答えさせる気があるのか不思議に思った。
 親指が蜜を絡めて花芽を左右に震わせる。その度に背筋がしなり、足に力が入り勝手に腰が浮き上がった。

「や、あ、あああああっ!」

 こんな風に、激しく痙攣けいれんしたのは初めてだった。がくがくと腰が震える。それでも秘所をいじり続ける指から逃げたくて、必死に彼の手首を掴んだ。
 ひくんひくんと細かな痙攣けいれんが後を引き、身体の震えが止まらない。

「……天沢、佳純」

 まるで確かめるように、フルネームを呼ばれた。汗と一緒に、涙が目尻から一粒落ちる。それを感じながら、私の意識はぷつりと途切れたのだった。



   2 神様、ここに悪魔がいます……!


 駅から歩いて、会社のビルの入り口が見えた途端に胃が重くなるのを感じた。
 毎日、厄介な井筒先輩に振り回されていても、出社拒否したくなるようなことはなかった。
 私は何事も割と楽観主義だ。井筒先輩は面倒だが、彼女は婚活のために会社に来ているような人だし、そのうち相手を見つけるかお見合いでもして結婚退職するだろう。それまでの我慢だと思えば、そんなに辛くはなかった。
 だけど、今日ばかりはだめだ。本気で出社したくない。仮病を使おうかと真剣に考えたのも、今日が初めてだ。

「……さいあくだ」

 昨夜のことを思い出せば、そりゃ足取りも重くなるというもので。
 夜中、ふっと目が覚めたら見知らぬ部屋の天井が見えて、しばらく頭が働かなかった。部屋には私ひとりで、黒木さんの姿はどこにもなく、服も多少乱れているくらいだった。もしやあれは夢だったのかと思いたかったけれど、そんなわけはない。
 部屋はチェックアウトが必要なのだろうかとかちらりと考えたけれど、それよりも、もしあの人が戻ってきたらと思うと怖くて、急いで身支度を整え逃げ出した。
 タクシーに乗って、家に戻ったのは日付をまたいだ頃。結局それから、一睡もできなかった。
 ……大丈夫、会社では早々会うことなんてないはず。今までだって数えるくらいしか社内で見かけていないんだから。
 一線は、越えていない。それくらいはわかる。だから、このまま何もなかったことにすればいい。社内で出くわさないようにすれば、きっと大丈夫。

「大丈夫、大丈夫。いつもみたいに先輩の尻拭いに奔走してれば、あっという間に一日が終わって、何事もなく帰れる。向こうだって、昨日のことなんてすぐに忘れるに決まってる」

 何かを疑われていた気がするけれど、きっとその疑いは晴れたのだ。起きた時にいなかったのは、そういうことだろう。
 必死に自分に言い聞かせて、恐る恐る出勤した。高輪コーポレーションのどどんと大きな本社ビル。セキュリティゲートを通過して、オフィスに行く前に一階のコンビニに向かう。眠気覚ましのドリンクを買うためだ。あと、胃薬も買っておきたいけれど、あっただろうか?
 キリキリ痛む胃の辺りを押さえながら、あと少しでコンビニの入り口に着くという時だった。
 とんとんと軽く肩を叩かれて、びくっと身体が震える。

「ひっ」

 小さな悲鳴を上げて固まった。だが、普通に考えて、黒木さんがこんな会社の目立つところで私に声なんてかけてくるはずがない。
 同じオフィスの仲間か、きっと井筒先輩だ。井筒先輩なら、今日こそは絶対に説教してやると考えていたからちょうどいい。
 そう思って振り向いた。
 井筒先輩は、私より少し背が低い。もし彼女なら、振り返ってすぐに目が合うはずのに、そこにあったのはダークスーツにちょっと地味めなネクタイ。
 じりじりと視線を上げる。すっとした細いあごに、薄い唇と高い鼻梁びりょうが目に入って絶望し、目が合った瞬間ぴきっと固まった。

「おい」
「はいっ!」

 反射的に返事をしてから息が止まる。
 そこには、何事もなかったかのような無表情の黒木さんが立っていた。
 いや、違う。何事もなかったら、彼がこうして私に声をかけてくることなどない。
 逃げたい、絶対会いたくないと思っていた相手が目の前にいて私を冷ややかな目で見下ろしているなんて、息どころか心臓も止まってしまいそうだ。

「え、あ……」
「登録したか?」
「え?」

 登録? 何を?
 驚愕きょうがくと緊張と恐怖の三拍子びょうしで頭がまったく働かない私は、質問の意味がわからない。黒木さんの眉がぴくっと動いて、私はびくっと震えた。
 ふう、とため息が聞こえる。彼の指がとんと私のトートバッグの縁を叩くと、すれ違いざまに私の耳元にささやいた。

「名刺を入れておいただろう。登録して今日の昼に連絡を」

 そのまま、すっと去って行った。
 固まったまま数秒立ち尽くす。黒木さんの冷気が消えた(錯覚)ところで、ぷはっと息を吹き返した。
 途端にどくどくどくと心臓がせわしなく働きだす。本当に止まりかけていたのかもしれない。

「び……びっくりした……」

 一体、彼は何を?
 そういえば、名刺を入れたと言っていた。
 肩に引っかけているのは、昨夜と同じトートバッグだ。肩紐をひとつ外し、中を覗き込む。昨夜は混乱していたし朝もまだ動揺していて、バッグの中なんてほとんど見ていなかった。
 ひらりと白いカードのようなものが見えて、嫌な予感がする。手に取ると、彼の名前が書かれた名刺だった。社名と肩書、連絡先が載っている。
 そしてくるりと裏を返せば、手書きで携帯番号が書かれていた。つまり、これを登録して、昼に連絡を寄越せということだろうか。

「え、なんで?」

 なぜ私がこれを登録して、彼に連絡しないといけないの。
 名刺をバッグに戻して、ぎゅっと持ち手を握りしめる。悔しくて腹が立ってきた。昨夜、あんなことをした私をひとり部屋に放置したくせに、平然としたあの態度。
 トートバッグを叩いた長い指先を思い出す。
 そう、態度は酷くて問答無用でも、あの指先だけは信じられないほど優しかった。
 一方的に高められた熱を思い出し、じわじわと顔が熱くなった時、またしてもとんと肩を叩かれた。

「ちょっと」
「ひゃあっ!」

 びくんと背筋が伸びる。悲鳴を上げた私を見ていぶかし気に眉根を寄せたのは、すべての元凶である井筒先輩だった。

「こんなところに突っ立ってどうしたのよ、大丈夫?」

 全然大丈夫じゃありません、あなたのせいで!
 ここじゃ話しにくいから、と井筒先輩の手に引かれて人の少ないところに連れていかれる。私としても、ちょうどいい。さすがに今回のことは、いくら井筒先輩の頭がお花畑だとしても許されることではない。
 けれど非常階段の扉の近くまで来ると、がっしと両腕を掴まれ彼女の顔が近づいてきた。

「ちょっと、あの後どうなったのよ?」
「どうもこうもないです、大変だったんですから……!」

 周囲にさっと目を走らせてから、ふたりそろって声をひそめる。人の気配はないとはいえ、大きな声で話せることではない。

「大変って、じゃあ上手うまくいったの?」

 なんで『大変だった』が上手うまくいったことになるのよ! と爆発しそうになるのをどうにか抑えて言い返す。

「そんなわけないでしょ。いくらなんでもあんな計画無茶すぎます! お目当ての人を捕まえたいなら、もっと真っ当な方法にしてください! っていうか、なんなんですか、あれ、全然効かないし!」

 途中で怒りのポイントが微妙にズレたが、どうしても言いたかった!
 大体、媚薬びやくを飲ませたと言われたから心配してついていったのに、効果が表れるどころかけろっとしていて、むしろ私のほうが散々乱されて、それがどうにも悔しい。こっちがあえぐ中で、あの少しも熱を感じない目は、なんだ。

「そうなの? でもあれ、口コミで広がった商品だからかなり効果があるはずなんだけど」

 確かに、サイトには口コミがたくさんあった。だが、所詮しょせんネットの口コミだ。信憑性しんぴょうせいに欠けるのではないだろうか?
 ああいう商品サイトがどんな売り方をしているのか私にはわからないけれど、もし本当に効果のあるものなら、それはそれで怖い。
 だってあの人には、そんな強力な媚薬びやくが効かなかったということだから。
 ……さもありなん。
 あの人なら、あり得そうだと思ってしまうのがまた怖い。

「っていうか、よく入れられましたね……そんな簡単に近づける雰囲気じゃなかったですよ?」
「目が合った時はまずいと思ったけど、でも社員だと気づかなかったみたい。すぐ目を逸らされたから隣に座ったのよ」
「え、目が合ったんですか」

 違和感を覚えて、眉間に力が入った。
 ……気づかなかった? 黒木さんが、井筒先輩に?
 あり得ないでしょう、だって本社の社員の顔は全員覚えているって言ってたんだから。それとも、あれはハッタリでたまたま私のことを覚えていただけ?
 いや、きっと、違う。あの言葉に嘘はない気がする。
 だとしたら、井筒先輩に気がついていた?
 それなら井筒先輩と私が同じ総務だということもわかっていたはずだ。ああ、だから、何を隠しているのかと私を問い詰めたんだ。
 ……結局、全部、この人のせいか。
 脱力して、げんなりしていると、先輩の呑気のんきな声が続いた。

「あら、薬が効かなかったなら、全然大丈夫だったってことじゃない。バーに入った後あっさり帰ったってこと?」
「う……いや、それは」

 言えない。絶対知られたくない。あんなことされたなんて、しかも、一方的に気持ちよくさせられただけだなんて、絶対言えない。
 思い出すと顔が熱くなってきて、慌てて頭を振った。

「そ、それより、高輪社長はどうなったんですか。社長と出会うきっかけを作りたくてあんなことしたんですよね?」

 井筒先輩の調べによると、あのバーで黒木さんと社長がよく待ち合わせをして飲んでいるらしい。しかし黒木さんが隣にいる限り、そう簡単に社長には近寄らせてもらえない。
 だからこそ、黒木さんを足止めしようとしたのだろう。

「それがねえ、来なかったのよ、高輪さん……」
「え……」
「何か予定が変わったみたいで……せっかくのチャンスだったのに」

 残念だわ、と唇を尖らせる彼女に、私は膝から崩れ落ちそうになった。
 これ、私、骨折り損ってやつでは。
 くらくらと眩暈めまいを感じながら、井筒先輩を放って歩きだした。しかし、彼女はまだ話し足りないのか後をついてくる。彼女も同じ総務なのだから、もとより行き先は同じなのだが。
 今朝はもう、先輩の話を聞く気力がなかった。

「ロビーで待ってて、姿が見えたら上手うまく近づくつもりだったのよ。それなのに、いつまでたっても来ないから、見逃しちゃったのかと思って、バーに見に行ったらあんたたちもいないし。そっちはてっきり上手うまくやったのかと思ってたわー」

 追いついて隣に並んだ彼女は、何か疑うような視線を向けてくる。

「いやだから、上手うまくってなんですか」
「だから、媚薬びやくいた黒木さんを店から連れ出して……」
「悪魔に媚薬びやくは効きませんでした。だからしばらく様子だけ見て帰ったんです」

 間違いなく薬を盛ったようなのに、なんで効かなかったんだろう……
 考えていて、ふと、思いついた。隣に座ったのが井筒先輩だと気づいていたなら、先輩が薬を盛ったことももしかして?
 トートバッグに入った彼の名刺のことを思い出し、連絡してこいとは一体なんの用なのだろうと、ぞっとした。


 午前中は時間が過ぎるのがあっという間だった。いつもなら、お腹がいてきてランチの時間が待ち遠しくなるはずなのに、今日は時間が止まればいいのにと思う。
 もちろん、止まりはしないのだけど。

「ここより、十階のほうが美味おいしいよねー」

 井筒先輩が、オムライスをスプーンですくいながら残念そうに言った。
 この本社ビルには、一階ロビーと五階、十階にカフェテリアがある。一階は社員が一緒なら外部の人間も使用することができる。
 社員数が多いので、カフェテリアが三つあっても昼時はどこもにぎわう。私は今、井筒先輩と総務に近い五階のカフェテリアに来ていた。少し離れた席には同じ総務の女子社員、安藤あんどうさんと田中たなかさんもいる。
 あのふたりは井筒先輩と同期で、時々親しく話している。けれど、仕事に関してはノータッチだ。まあ、気持ちはわかる。


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