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1巻
1-3
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注意力皆無な井筒先輩は、備品の注文をお願いすれば桁を間違えてえらいことになったりする。下手に関わると、巻き込まれて大変な目に遭うのは自分なのだ。
「十階まで行ったら、移動に時間かかっちゃうじゃないですか」
井筒先輩の正面に座った私は、そう答えながらサラダプレートについてきていたロールパンをちぎって口に運ぶ。食べながら、テーブルに置いたスマートフォンにちらちらと視線を向け、時間を確認していた。
連絡しろとは言われたけれど、先にご飯くらい食べてもいいよね。
という考えのもとに、引き延ばし作戦に出ている。ランチを食べるのに時間がかかって連絡できませんでした、でもいいんじゃないだろうか。
そもそも、私には彼に連絡する必要などまったくないのだ。できることなら、関わることなく逃げてしまいたい……
と考えて、逃げきれなかった時のことを考えてぞっとした。何をされるとか具体的には浮かばないが、なんかぞっとした。
名刺は、念のためスマホケースのポケットに入れてある。ランチが終わったら井筒先輩から離れて、どこかで連絡しようと、思ってはいた。
考えただけで胃がしくしくと痛んできて、食欲がなくなる。それでもなんとかサラダプレートを食べ終えた。
カフェテリアを出ると、井筒先輩の足はいつものように化粧室へ向かう。後ろをついて歩きながら、私は中々決心がつかずにいた。
怖い。怖いけど、やっぱり放置はまずい気がするから連絡しよう。
スマートフォンを握りしめ、覚悟を決めて井筒先輩に声をかけようとした時だ。
「天沢さん!」
後ろから呼ばれて振り向いた。
少し離れた席でランチを食べていた安藤さんと田中さんが、私に手招きをしている。見ると、別の総務の社員も一緒にいた。私たちより遅れてお昼に出てきたのだろう。
「天沢さん、主任が呼んでるって!」
「えっ? なんでしょう」
「なんか、天沢さんご指名で総務に来てる人がいるって。お昼食べ終わったら早めに戻って来てほしいみたいよ」
えっ、なんだろう。誰?
咄嗟に黒木さんかと思ってぎくりとしたが、それならはっきりと『黒木さんが呼んでる』と言うはずだ。
手の中のスマートフォンを見て、一瞬だけ迷う。
だが、優先順位は仕事のほうが上だ。急いで仕事を片付けて、それから連絡を入れればいい。
「わかりました、すぐ行きます! 井筒先輩、先に戻りますね」
後ろにいるだろうと思っていた井筒先輩は、既にいなかった。先に化粧室に入っているようだ。私が来なくても多分気にしないだろうということにして、私は総務課に急いだ。
社員が個人的に総務に用がある場合、昼休みや休憩時間を利用して来ることが多い。
だから昼休憩の時間とはいえ、必ず誰かが対応できるように時間差で休憩に入るのだが……
総務に残っていた主任は、福利厚生に関することに明るくなかった。主任なのに。
そしてなぜ私が呼ばれたかというと、福利厚生について聞きに来た社員の相談に、以前私が乗ったというただそれだけだった。
「わあ、それはダブルでおめでとうございます」
前回は家を建てる際に受けられる制度について質問に来られて、必要な書類と申請時期などを説明した。今回は奥様のおめでたが発覚したらしい。
「ありがとうございます。いや、別にそこまで急がないことはわかってるんだけど、気が急いちゃって」
「あ、最初のお子様でしたか?」
「そうなんです」
「それは、気が急いて当然です。楽しみですねえ。奥様は別の会社にお勤めでしたよね」
お祝いの言葉を贈りながら、質問を挟んで必要なことを尋ね、引き出しから数種類の書類を取り出した。それを、彼の前に並べてシャープペンシルで記入場所に丸をつけていく。
「出産、育児に関わる制度で申請できるのが、これとこれになります。ですが、お仕事の兼ね合いもありますし、周囲とよく相談してみてください。お越しの際には、書類のこの丸の部分に記入して一緒にお持ちくださいね。奥様、つわりは大丈夫です?」
「いや、それがもう既に辛そうで……」
「働きながらだと大変ですよね。労わって差し上げてくださいね」
三十代半ば、家を建てて、赤ちゃんもできて、順風満帆だなあ。
ほくほくと緩んだ顔で、私に丁寧な会釈をして仕事に戻っていく社員の背中を見送って、なんだかほっこりした気持ちになる。
「いいなぁ。三十代で家のローンかー……都心部だと無理だなー」
まあ、結婚もせずに家を買うことはないか……ひとりで住宅ローンを抱えるのはきついしね。でも、家建てるのは夢だなあ。
余った書類をもとの場所に戻して、自分のデスクにつく。ちょうどそこで、昼休憩の時間が終わった。
午後からの仕事にすぐに頭が切り替わる。
そう、私はあんなに怯えていたくせに、すぽーんと忘れてしまっていたのだ。黒木さんに連絡を入れることを。
終業時刻直前、「よし」とひとりごとを呟いてパソコンの電源を落とす。
「あ、天沢さんっ!」
上ずった声で私を呼んだのは、昼間と同じ安藤さんだった。もう終業時間なのに、またややこしい申請を持ってきた社員でもいるのだろうか。
先輩なのだし、対応した人が請け負ってほしいのだけど。
「はい、なんで……」
決して見てはいけないものを、見てしまった。
総務の入り口、社員の対応をするためのカウンターに、黒木さんが立っていた。安藤さんが驚いた顔で私を手招きししつつ、黒木さんを手で示す。
彼が私を呼んでいる、というジェスチャーだろう。
私はといえば、黒木さんの姿を見た途端スマホケースのポケットに差し込んだ名刺の存在を思い出して、急速に血の気が引いた。
しまった……なんで忘れてたの私……!
昼にやって来た幸せそうな社員にほっこりしてしまったのがいけなかった。しかも、午後の仕事は急ぎや即日対応のものが多くて、手一杯だったのだ。
呆然としながら彼の顔に焦点を合わせてしまう。やばいと思った時には、ばちっと視線が絡んでしまった。
瞬間、椅子を倒す勢いで、その場に直立した。
「も、申し訳ありません……!」
周囲の目が「天沢さん、何をやったの」と言っている。そんな中、井筒先輩だけが、期待に満ちた目をしていた。
――申し訳ありません、連絡を失念しておりました。
――昼は急遽仕事の対応に追われまして。
言い訳の言葉がずらずら頭に並ぶけれど、それを口にしたら今この場にいる人たちに、なぜ黒木さんに連絡を取る必要があったのかという疑問を生んでしまう。
何か仕事の話のフリをしてこの場を離れるしかない。
がしっとオフィス用のバッグを掴み、もう一度勢いよく頭を下げようとした。しかしそれより先に、黒木さんが口を開く。
「仕事は終わったか?」
「ひっ、はい、今終わったところで」
いちいち悲鳴のような声が出てしまうのはもう条件反射と思ってほしい。
「そうか、じゃあ食事に行こう」
「は……」
はい、と言う前に絶句した。
え、いや、なぜ?
そしてなぜそれを今ここで言う。
黒木さんが視線を伏せ、左手に嵌めた腕時計に目をやった。この場にいる彼以外の全員が固まる中、再びその目が私を捉える。
「予約してある。行くぞ」
「え、あ、でも、聞いてな」
「昼に言おうとした。連絡してこなかったのは君だ」
総務内にざわめきが広がる。
だから、どうしてそういうことをここで言うの⁉
このまま彼と話していると、明らかに周囲に誤解を生みそうな会話になりそうだ。何より、昨日のことを持ち出されでもしたらたまったものではない。
これ以上、ここで彼に喋らせてはいけない。
私は慌てて総務全体に向け、勢いよく頭を下げる。
「すみません、お先に失礼しますっ!」
そうして、私は逃げるように総務課を後にした。
「な、何を考えてらっしゃるんですか!」
通路を歩きながらエレベーターのほうへ向かう。黒木さんが少し先を歩き、私は斜め後ろを早足で追いかける。途中ちらちら社員の視線を感じるが、さっきのように総務の入り口でみんなの視線を集めて話すよりはずっとましだ。
「昼に君が連絡をくれないからだろう」
「くれ……」
あれ、なんか、今ちょっと。
「寄越さない」とかじゃなくて「くれない」という言葉のチョイスが、一瞬、可愛らしく思えたのはなんだろう。
……たったそれだけのことが? ギャップ萌えかしら。
なんとも言えない心のざわつきを、頭をふるんと振って追い払う。
「と、とにかく、食事なんて、急に言われても困ります」
というか、ふたりきりでなんの話をするのかって、間違いなく昨夜のことでしょうよ。
絶対、嫌だ。むしろ、全部忘れるので許してほしい。
私の断りの言葉に、彼は無反応だ。相変わらずスタスタと先を歩いていく。
なぜかエレベーターの前を通り過ぎ、おかしいと気づいた時には、ホールの奥まった場所にある通路の入り口にいた。ここは、非常口にしか繋がっていないから、滅多に人が来ない。
エレベーターホールの人のざわめきが遠くに聞こえる。
不意に、とん、と肩を押された。
何をするのだと黒木さんを見上げたら、いつの間にかすぐ目の前に彼が立っている。そして黒木さんの左手が、静かに私の後ろの壁に置かれた。
「……あれ?」
気がついたら壁ドン。距離が近すぎて、真上からため息が落ちてくる。
「聞かれたくない話だろうから、誘ってやったのに。別に俺は、そこらの通路で立ち話で済ませてもかまわないが」
「え」
「たとえば昨夜の」
――昨夜の。
そのワードだけでよみがえる、バーで顔を合わせてからホテルの部屋に入るまでのアレコレ。しかも、部屋に入ってから先はやけに鮮明に。
「なっ、あっ、」
話とは、昨日のことだとわかっていたはずだ。だって私と黒木さんに他の接点はない。わかっていたのに、改めて突きつけられると平静ではいられなかった。
ボンッと音がしそうなほどに顔の温度が上がる。耳まで熱い。
一気に赤くなった顔がよほどおかしかったか驚いたのか、黒木さんの切れ長の目が、軽く見開かれる。それから、至極ゆっくりゆっくり、口角を上げた。
笑った。それも、明らかな冷笑だ。
更にその唇は、とんでもないことを言う。
「随分、初心だな。既成事実を作ろうとしたくせに」
「ち、違います、あれは!」
「可愛らしい反応だった。色気がないわりに」
かっ……、いっ……!
可愛いって。色気がないって。
上げて落とすテンポが速すぎる。
何かを言わなければと唇を数度動かしたけれど、言葉が出ない。壁と悪魔に挟まれて、緊張による酸欠で眩暈がした。
くら、と頭が揺れる。至近距離で交わる視線が、またしても急速に昨晩の私たちを思い出させた。
「昨日のことは……忘れてください……」
好きでもない人と、あんなことをするなんて。情けないし後悔しかない。しかもなんだか、取り返しのつかない状況に追い込まれてしまいそうだ。
「……忘れろ、と言われてもな」
彼がそう言って、少しだけ身体を離した。ようやく酸素が吸えた気がする。
黒木さんの顔が私から逸れて瞳が横へ動いた。何かと思えば、彼はスーツの内側に手を入れる。その仕草が随分意味ありげだった。
スーツから出てきたものがスマートフォンだと気づいた時、私は彼の言いたいことを理解する。
ばっとそのスマートフォンに手を伸ばした。
「け、消してください!」
一体、いつの間に撮られたの?
昨日は、わけがわからなくなって気を失うように眠ってしまった。目が覚めるまでの間に何があったか、私にはまったくわからない。
スマートフォンを頭上に掲げられてしまっては、手も足も出ない。当たり前だ、多分ふたりの身長差は二十センチ以上ある。腕の長さを加えたらもっとあるだろう。
卑怯だ。いくらなんでも卑怯すぎる。
キッと強く睨みつければ、彼は面白そうに笑った。しかしすぐに、その笑みを消す。
「黙って話を聞くか?」
この言葉に、頷く以外の何ができるというのか。呆然としながら、私はスマートフォンを取ろうとしていた両手を下ろす。
生まれてこの方、宗教なんてものに興味はなく、神様を意識したこともなかった。けれど、今初めて、真剣に神様に訴えたいことがある。
神様、助けて。ここに悪魔がいます……!
◇ ◆ ◇
更衣室に行き、秒で私服に着替えた。総務課の社員は制服が貸与されているが、通勤にラフすぎる服装は許されていない。今日はパンプスとネイビーのパンツに、綺麗めのブラウスを合わせた。予約した店がどんなところか気になるのだが、一応今日の服装なら問題はないと思う。
黒木さんは一階ロビーで待っていた。一瞬だけ逃げることを考えたが、お先真っ暗というワードしか浮かばなかったので、おとなしく従うことにする。
食事と言われて……それをそのまま信じた私がアホなのか。
タクシーで昨夜のホテルに連れてこられた時には驚いたけど、まさか嘘をついてまで私をどうにかするほど、黒木さんが女性に困っているはずがないと思ったのだ。
だがしかし、私は今、客室にいる。入ってすぐのところで立ち尽くし、それ以上は進めずにいた。
客室といっても、昨日と同じではなく多分ランクが高いのだろう。さっと見渡せるところにベッドはない。多分、奥に別に部屋がある。
「いつまでそこに突っ立っている気だ。変に意識されても困る」
「い、意識なんてしてません。だけど、食事とおっしゃったじゃないですか」
「すぐにルームサービスで運ばれてくる。このホテルは高輪グループと懇意で、重要な取引や会合の際に使っている場所だ。ここなら、人に聞かれてまずい話もできる」
なるほど、だから昨夜も、すぐに客室に向かえたのか。
聞いてないのに説明してくれたのは、私があんまり怯えているからだろう。
……ちょっと親切? いや違うな、ない。脅されてここにいる時点で親切であるわけがないから。しっかりしろ自分。
私は口を引き結んで、彼の動向をじっと見た。
ビジネスバッグをソファに放った彼は、スーツの上着を脱ぐ気配はないしネクタイを緩めることもない。
「まあ、そんなに警戒するなら、向こうには近づくな」
「向こう?」
黒木さんの手が、部屋の奥まったほうを顎でしゃくった。
「寝室だ」
絶対近寄らないことにする。
そろりと一歩、ドアから離れて部屋全体を見渡した。最高級ホテルの上層階、このフロアに他に部屋があるのかどうかはわからないが、見たところドアはひとつしかなかった。
広々としたリビングと、夜景が綺麗に見えるだろう大きな窓。今はカーテンが引かれていて、少し残念に思う。
窓の近くに、ふたり掛けのテーブルセットが置かれていた。
「観察は済んだか?」
声をかけられて黒木さんに視線を戻せば、唇の端を片方だけ上げて笑っている。どうしてそんな嫌な笑い方をするんだろう。しかし、それがよく似合っていた。
その時、部屋のインターフォンが鳴り、彼がずかずかとドア、つまり私のほうに近づいてきたので、慌てて横に避け道を空ける。
黒木さんがドアを開け、男性のホテルスタッフがワゴンに乗せて料理を運んできた。
……う、わ。
スープにサラダ、肉料理と魚料理がそれぞれふたり分、ふたり掛けのテーブルに所狭しと並び、中央にはかごに入ったパンが置かれた。
ルームサービスとはいえ、レストランの料理と変わらない豪華さだ。見た目も色鮮やかで、食欲をそそるいいにおいが漂ってくる。
すごく、美味しそう……。思わず目が釘付けになった。
そりゃ、私だってコース料理くらい食べたことはあるけれど、これは絶対、今まで食べたものとランクが違う気がする。
料理にすっかり目を奪われていた私は、「失礼します」という男性スタッフの声で我に返った。テーブルのセットを終え客室を出ていくスタッフに、私は慌ててお礼を言い会釈をした。
スタッフが退室してすぐ、今度は「くっくっ」と喉を鳴らすような笑い声が聞こえてきて振り向く。
「な、なんですか」
「いや。とりあえず食おう。腹が減った」
そう言って、彼はテーブルの椅子に座った。
この人、いつもこんな豪華な料理を食べているんだろうか。
そんなことを考えつつ、私はおずおずと向かいの椅子に腰を下ろす。水のグラスが置かれているだけで、アルコールはなかった。
この分不相応な食事の代償に、私は一体どんな話を聞かされるのかと思うと、気が重くなった。
3 天使とは都合よく捏造された生贄のことを言うらしい
母方の従弟である高輪征一郎は、この高輪家でよくぞここまで純粋培養できたな、と呆れるほどの好青年である。
優秀だし、決して頭は悪くない。だがいかんせん、人がよすぎる。そして、生まれた時から将来を約束された立場だったせいか、楽観的なところがある。つまり、教育に関しては厳しく育てられたが、大事に守られすぎて人を疑うことがない。
交友関係も広いしコミュニケーション能力が高い。しかし、女好きの上人を疑わないため、簡単にハニートラップに引っかかる。
そんな高輪グループの後継者に余計な傷が付かないよう、俺にお目付け役という面倒な役職が回ってきた。
まったく腹が立つほど光栄だ。こうなったら、一日も早く傷ひとつない完璧な高輪家当主として自立させ、俺の実績にするしかない。
そう決意したのが、今から五年前だった。
……五年も子守りをさせられているのか。
「貴兄、俺の秘書でいるのが嫌なら、副社長とかさ……それも嫌なら重役ポストを用意するからさ。親父も絶対、そうするつもりだと思うけど」
執務室の椅子で征一郎が言う。大きく伸びをしながらさりげなさを装ったつもりのようだが、俺の反応を窺っているのは丸わかりだ。
仕事用の十インチタブレットを指で操作しながら、ちらりと征一郎に視線を向ける。スケジュールの調整を終えてタブレットを机に置くと、眼鏡を外して眉間の少し下を指で揉んだ。
「冗談じゃない。何年世話を焼かせる気だ。一生か? お断りだ」
こうして面倒を見てやっているのも、祖父と叔父から散々頼み込まれて仕方なくだ。その後は自由にさせてやると言質は取ってある。
「大体、お前、恥ずかしくないのか」
「何が? 俺、昔から貴兄尊敬してるし」
「それなら、尊敬している従兄をそろそろ解放してくれ」
「えー」
「もうすぐ三十になる男が甘えた声を出すな」
「もうすぐじゃないよ、まだ二十八だし。まだまだひよっこだよー」
やかましい。俺がお前の面倒を見させられることになったのはそれより若い。年は四つしか変わらないのに、どうにも征一郎は子供っぽさが抜けない。普通の社会人ならある程度は許されるのだろうが……
彼は高輪グループのトップになる人間なのだから、それを許してくれない連中が多いのだ。
高輪グループは、今から十年ほど前に一度業績不振に陥り、上層部が分裂しかけた。その時の名残か未だに上層部には不穏な空気が漂い、隙あらば征一郎の足を掬おうとする者がいる。その勢力は、常務である征一郎の弟を後継者に担ぎ上げようとした。数年前、不祥事が出た際にこれ幸いとそいつらを一掃したものの、まだ完全ではなく気が抜けない。
当の兄弟は、それほど仲は悪くない。それが救いではあるのだが、再び弟が利用されるとも限らない。気がついたら旗印にされていたなんてことになっては遅いのだ。
最近は、征一郎も多少はしっかりしてきたように思う。俺の前では未だに軽率さを感じる言動を見せるが、わざとやっているところも多分にある気がした。
「ひよっこなのは十分わかっているが、外に出たらちゃんと気を引き締めろ。今夜の会食はお前ひとりだからな」
「心配なら一緒に来る?」
「行かない。いつものバーで待ってる」
会食の首尾は確認しておかねばならないからな。
別行動をした後の待ち合わせは、大抵ホテル東都グランデにあるバーだ。高輪グループが懇意にしているホテルで、急遽客室が必要になっても即座に対応してくれる。
今夜征一郎が会う相手は、少々厄介だ。敵対しているわけではないが、味方というわけでもない、グループ会社のひとつで理事を務めている古狸だ。しかしそろそろ、この程度の相手は征一郎ひとりでこなしてもらわなければならない。
会社を出て俺は俺で別の仕事を済ませた後、軽く食事をしてホテル東都グランデに向かう。いつものように、バーのカウンターに落ち着いた時だった。
近づいてくる女に気づいて、視線を隣に向ける。女の顔を見てすぐに記憶の中から相手の情報を引き出す。総務の、少々厄介な人物だった。
まあ、飲むわけないな。
カウンターに残してあった自分のグラスを見る。隣に座っていた井筒美晴は既に消えていた。
「何かございましたか」
中身が入ったままのグラスを見て、バーテンダーが眉を下げた。
「いや。気にしないでくれ。少し目を離していたから念のためだ」
実際は、敢えて席を外しカウンター席が見える場所で電話をしていたのだが、案の定、怪しい手の動きが見えた。
「もしかしてさっきの女性ですか? 他にも席は空いているのにすぐ隣に座られたので、お知り合いだと思ったのですが……」
詳しく言わずとも察してくれる人間は、会話に面倒がなくていい。
「ああ、誰かはわかっている」
総務の井筒美晴は、問題児だ。といっても本人は頭のネジが足りないワガママ娘で、総務で煙たがられているだけの存在だ。しかし、その父親は少々問題だった。
格下のグループ会社の社長なのだが、ウチの人事部長と懇意にしているらしい。そして、その人事部長と征一郎は折り合いが悪かった。
井筒美晴は、父親に言われてここに来たのか、それとも自発的な行動なのか。偶然居合わせたという考えは選択肢にない。
父親の考えはともかく、恐らく井筒美晴は征一郎が目当てだろう。すぐにバーを出たところを見ると、ここで俺を足止めしている間に征一郎と接触するつもりかもしれない。その可能性を踏まえて、さっきの電話で征一郎には予定変更を伝えておいた。
「十階まで行ったら、移動に時間かかっちゃうじゃないですか」
井筒先輩の正面に座った私は、そう答えながらサラダプレートについてきていたロールパンをちぎって口に運ぶ。食べながら、テーブルに置いたスマートフォンにちらちらと視線を向け、時間を確認していた。
連絡しろとは言われたけれど、先にご飯くらい食べてもいいよね。
という考えのもとに、引き延ばし作戦に出ている。ランチを食べるのに時間がかかって連絡できませんでした、でもいいんじゃないだろうか。
そもそも、私には彼に連絡する必要などまったくないのだ。できることなら、関わることなく逃げてしまいたい……
と考えて、逃げきれなかった時のことを考えてぞっとした。何をされるとか具体的には浮かばないが、なんかぞっとした。
名刺は、念のためスマホケースのポケットに入れてある。ランチが終わったら井筒先輩から離れて、どこかで連絡しようと、思ってはいた。
考えただけで胃がしくしくと痛んできて、食欲がなくなる。それでもなんとかサラダプレートを食べ終えた。
カフェテリアを出ると、井筒先輩の足はいつものように化粧室へ向かう。後ろをついて歩きながら、私は中々決心がつかずにいた。
怖い。怖いけど、やっぱり放置はまずい気がするから連絡しよう。
スマートフォンを握りしめ、覚悟を決めて井筒先輩に声をかけようとした時だ。
「天沢さん!」
後ろから呼ばれて振り向いた。
少し離れた席でランチを食べていた安藤さんと田中さんが、私に手招きをしている。見ると、別の総務の社員も一緒にいた。私たちより遅れてお昼に出てきたのだろう。
「天沢さん、主任が呼んでるって!」
「えっ? なんでしょう」
「なんか、天沢さんご指名で総務に来てる人がいるって。お昼食べ終わったら早めに戻って来てほしいみたいよ」
えっ、なんだろう。誰?
咄嗟に黒木さんかと思ってぎくりとしたが、それならはっきりと『黒木さんが呼んでる』と言うはずだ。
手の中のスマートフォンを見て、一瞬だけ迷う。
だが、優先順位は仕事のほうが上だ。急いで仕事を片付けて、それから連絡を入れればいい。
「わかりました、すぐ行きます! 井筒先輩、先に戻りますね」
後ろにいるだろうと思っていた井筒先輩は、既にいなかった。先に化粧室に入っているようだ。私が来なくても多分気にしないだろうということにして、私は総務課に急いだ。
社員が個人的に総務に用がある場合、昼休みや休憩時間を利用して来ることが多い。
だから昼休憩の時間とはいえ、必ず誰かが対応できるように時間差で休憩に入るのだが……
総務に残っていた主任は、福利厚生に関することに明るくなかった。主任なのに。
そしてなぜ私が呼ばれたかというと、福利厚生について聞きに来た社員の相談に、以前私が乗ったというただそれだけだった。
「わあ、それはダブルでおめでとうございます」
前回は家を建てる際に受けられる制度について質問に来られて、必要な書類と申請時期などを説明した。今回は奥様のおめでたが発覚したらしい。
「ありがとうございます。いや、別にそこまで急がないことはわかってるんだけど、気が急いちゃって」
「あ、最初のお子様でしたか?」
「そうなんです」
「それは、気が急いて当然です。楽しみですねえ。奥様は別の会社にお勤めでしたよね」
お祝いの言葉を贈りながら、質問を挟んで必要なことを尋ね、引き出しから数種類の書類を取り出した。それを、彼の前に並べてシャープペンシルで記入場所に丸をつけていく。
「出産、育児に関わる制度で申請できるのが、これとこれになります。ですが、お仕事の兼ね合いもありますし、周囲とよく相談してみてください。お越しの際には、書類のこの丸の部分に記入して一緒にお持ちくださいね。奥様、つわりは大丈夫です?」
「いや、それがもう既に辛そうで……」
「働きながらだと大変ですよね。労わって差し上げてくださいね」
三十代半ば、家を建てて、赤ちゃんもできて、順風満帆だなあ。
ほくほくと緩んだ顔で、私に丁寧な会釈をして仕事に戻っていく社員の背中を見送って、なんだかほっこりした気持ちになる。
「いいなぁ。三十代で家のローンかー……都心部だと無理だなー」
まあ、結婚もせずに家を買うことはないか……ひとりで住宅ローンを抱えるのはきついしね。でも、家建てるのは夢だなあ。
余った書類をもとの場所に戻して、自分のデスクにつく。ちょうどそこで、昼休憩の時間が終わった。
午後からの仕事にすぐに頭が切り替わる。
そう、私はあんなに怯えていたくせに、すぽーんと忘れてしまっていたのだ。黒木さんに連絡を入れることを。
終業時刻直前、「よし」とひとりごとを呟いてパソコンの電源を落とす。
「あ、天沢さんっ!」
上ずった声で私を呼んだのは、昼間と同じ安藤さんだった。もう終業時間なのに、またややこしい申請を持ってきた社員でもいるのだろうか。
先輩なのだし、対応した人が請け負ってほしいのだけど。
「はい、なんで……」
決して見てはいけないものを、見てしまった。
総務の入り口、社員の対応をするためのカウンターに、黒木さんが立っていた。安藤さんが驚いた顔で私を手招きししつつ、黒木さんを手で示す。
彼が私を呼んでいる、というジェスチャーだろう。
私はといえば、黒木さんの姿を見た途端スマホケースのポケットに差し込んだ名刺の存在を思い出して、急速に血の気が引いた。
しまった……なんで忘れてたの私……!
昼にやって来た幸せそうな社員にほっこりしてしまったのがいけなかった。しかも、午後の仕事は急ぎや即日対応のものが多くて、手一杯だったのだ。
呆然としながら彼の顔に焦点を合わせてしまう。やばいと思った時には、ばちっと視線が絡んでしまった。
瞬間、椅子を倒す勢いで、その場に直立した。
「も、申し訳ありません……!」
周囲の目が「天沢さん、何をやったの」と言っている。そんな中、井筒先輩だけが、期待に満ちた目をしていた。
――申し訳ありません、連絡を失念しておりました。
――昼は急遽仕事の対応に追われまして。
言い訳の言葉がずらずら頭に並ぶけれど、それを口にしたら今この場にいる人たちに、なぜ黒木さんに連絡を取る必要があったのかという疑問を生んでしまう。
何か仕事の話のフリをしてこの場を離れるしかない。
がしっとオフィス用のバッグを掴み、もう一度勢いよく頭を下げようとした。しかしそれより先に、黒木さんが口を開く。
「仕事は終わったか?」
「ひっ、はい、今終わったところで」
いちいち悲鳴のような声が出てしまうのはもう条件反射と思ってほしい。
「そうか、じゃあ食事に行こう」
「は……」
はい、と言う前に絶句した。
え、いや、なぜ?
そしてなぜそれを今ここで言う。
黒木さんが視線を伏せ、左手に嵌めた腕時計に目をやった。この場にいる彼以外の全員が固まる中、再びその目が私を捉える。
「予約してある。行くぞ」
「え、あ、でも、聞いてな」
「昼に言おうとした。連絡してこなかったのは君だ」
総務内にざわめきが広がる。
だから、どうしてそういうことをここで言うの⁉
このまま彼と話していると、明らかに周囲に誤解を生みそうな会話になりそうだ。何より、昨日のことを持ち出されでもしたらたまったものではない。
これ以上、ここで彼に喋らせてはいけない。
私は慌てて総務全体に向け、勢いよく頭を下げる。
「すみません、お先に失礼しますっ!」
そうして、私は逃げるように総務課を後にした。
「な、何を考えてらっしゃるんですか!」
通路を歩きながらエレベーターのほうへ向かう。黒木さんが少し先を歩き、私は斜め後ろを早足で追いかける。途中ちらちら社員の視線を感じるが、さっきのように総務の入り口でみんなの視線を集めて話すよりはずっとましだ。
「昼に君が連絡をくれないからだろう」
「くれ……」
あれ、なんか、今ちょっと。
「寄越さない」とかじゃなくて「くれない」という言葉のチョイスが、一瞬、可愛らしく思えたのはなんだろう。
……たったそれだけのことが? ギャップ萌えかしら。
なんとも言えない心のざわつきを、頭をふるんと振って追い払う。
「と、とにかく、食事なんて、急に言われても困ります」
というか、ふたりきりでなんの話をするのかって、間違いなく昨夜のことでしょうよ。
絶対、嫌だ。むしろ、全部忘れるので許してほしい。
私の断りの言葉に、彼は無反応だ。相変わらずスタスタと先を歩いていく。
なぜかエレベーターの前を通り過ぎ、おかしいと気づいた時には、ホールの奥まった場所にある通路の入り口にいた。ここは、非常口にしか繋がっていないから、滅多に人が来ない。
エレベーターホールの人のざわめきが遠くに聞こえる。
不意に、とん、と肩を押された。
何をするのだと黒木さんを見上げたら、いつの間にかすぐ目の前に彼が立っている。そして黒木さんの左手が、静かに私の後ろの壁に置かれた。
「……あれ?」
気がついたら壁ドン。距離が近すぎて、真上からため息が落ちてくる。
「聞かれたくない話だろうから、誘ってやったのに。別に俺は、そこらの通路で立ち話で済ませてもかまわないが」
「え」
「たとえば昨夜の」
――昨夜の。
そのワードだけでよみがえる、バーで顔を合わせてからホテルの部屋に入るまでのアレコレ。しかも、部屋に入ってから先はやけに鮮明に。
「なっ、あっ、」
話とは、昨日のことだとわかっていたはずだ。だって私と黒木さんに他の接点はない。わかっていたのに、改めて突きつけられると平静ではいられなかった。
ボンッと音がしそうなほどに顔の温度が上がる。耳まで熱い。
一気に赤くなった顔がよほどおかしかったか驚いたのか、黒木さんの切れ長の目が、軽く見開かれる。それから、至極ゆっくりゆっくり、口角を上げた。
笑った。それも、明らかな冷笑だ。
更にその唇は、とんでもないことを言う。
「随分、初心だな。既成事実を作ろうとしたくせに」
「ち、違います、あれは!」
「可愛らしい反応だった。色気がないわりに」
かっ……、いっ……!
可愛いって。色気がないって。
上げて落とすテンポが速すぎる。
何かを言わなければと唇を数度動かしたけれど、言葉が出ない。壁と悪魔に挟まれて、緊張による酸欠で眩暈がした。
くら、と頭が揺れる。至近距離で交わる視線が、またしても急速に昨晩の私たちを思い出させた。
「昨日のことは……忘れてください……」
好きでもない人と、あんなことをするなんて。情けないし後悔しかない。しかもなんだか、取り返しのつかない状況に追い込まれてしまいそうだ。
「……忘れろ、と言われてもな」
彼がそう言って、少しだけ身体を離した。ようやく酸素が吸えた気がする。
黒木さんの顔が私から逸れて瞳が横へ動いた。何かと思えば、彼はスーツの内側に手を入れる。その仕草が随分意味ありげだった。
スーツから出てきたものがスマートフォンだと気づいた時、私は彼の言いたいことを理解する。
ばっとそのスマートフォンに手を伸ばした。
「け、消してください!」
一体、いつの間に撮られたの?
昨日は、わけがわからなくなって気を失うように眠ってしまった。目が覚めるまでの間に何があったか、私にはまったくわからない。
スマートフォンを頭上に掲げられてしまっては、手も足も出ない。当たり前だ、多分ふたりの身長差は二十センチ以上ある。腕の長さを加えたらもっとあるだろう。
卑怯だ。いくらなんでも卑怯すぎる。
キッと強く睨みつければ、彼は面白そうに笑った。しかしすぐに、その笑みを消す。
「黙って話を聞くか?」
この言葉に、頷く以外の何ができるというのか。呆然としながら、私はスマートフォンを取ろうとしていた両手を下ろす。
生まれてこの方、宗教なんてものに興味はなく、神様を意識したこともなかった。けれど、今初めて、真剣に神様に訴えたいことがある。
神様、助けて。ここに悪魔がいます……!
◇ ◆ ◇
更衣室に行き、秒で私服に着替えた。総務課の社員は制服が貸与されているが、通勤にラフすぎる服装は許されていない。今日はパンプスとネイビーのパンツに、綺麗めのブラウスを合わせた。予約した店がどんなところか気になるのだが、一応今日の服装なら問題はないと思う。
黒木さんは一階ロビーで待っていた。一瞬だけ逃げることを考えたが、お先真っ暗というワードしか浮かばなかったので、おとなしく従うことにする。
食事と言われて……それをそのまま信じた私がアホなのか。
タクシーで昨夜のホテルに連れてこられた時には驚いたけど、まさか嘘をついてまで私をどうにかするほど、黒木さんが女性に困っているはずがないと思ったのだ。
だがしかし、私は今、客室にいる。入ってすぐのところで立ち尽くし、それ以上は進めずにいた。
客室といっても、昨日と同じではなく多分ランクが高いのだろう。さっと見渡せるところにベッドはない。多分、奥に別に部屋がある。
「いつまでそこに突っ立っている気だ。変に意識されても困る」
「い、意識なんてしてません。だけど、食事とおっしゃったじゃないですか」
「すぐにルームサービスで運ばれてくる。このホテルは高輪グループと懇意で、重要な取引や会合の際に使っている場所だ。ここなら、人に聞かれてまずい話もできる」
なるほど、だから昨夜も、すぐに客室に向かえたのか。
聞いてないのに説明してくれたのは、私があんまり怯えているからだろう。
……ちょっと親切? いや違うな、ない。脅されてここにいる時点で親切であるわけがないから。しっかりしろ自分。
私は口を引き結んで、彼の動向をじっと見た。
ビジネスバッグをソファに放った彼は、スーツの上着を脱ぐ気配はないしネクタイを緩めることもない。
「まあ、そんなに警戒するなら、向こうには近づくな」
「向こう?」
黒木さんの手が、部屋の奥まったほうを顎でしゃくった。
「寝室だ」
絶対近寄らないことにする。
そろりと一歩、ドアから離れて部屋全体を見渡した。最高級ホテルの上層階、このフロアに他に部屋があるのかどうかはわからないが、見たところドアはひとつしかなかった。
広々としたリビングと、夜景が綺麗に見えるだろう大きな窓。今はカーテンが引かれていて、少し残念に思う。
窓の近くに、ふたり掛けのテーブルセットが置かれていた。
「観察は済んだか?」
声をかけられて黒木さんに視線を戻せば、唇の端を片方だけ上げて笑っている。どうしてそんな嫌な笑い方をするんだろう。しかし、それがよく似合っていた。
その時、部屋のインターフォンが鳴り、彼がずかずかとドア、つまり私のほうに近づいてきたので、慌てて横に避け道を空ける。
黒木さんがドアを開け、男性のホテルスタッフがワゴンに乗せて料理を運んできた。
……う、わ。
スープにサラダ、肉料理と魚料理がそれぞれふたり分、ふたり掛けのテーブルに所狭しと並び、中央にはかごに入ったパンが置かれた。
ルームサービスとはいえ、レストランの料理と変わらない豪華さだ。見た目も色鮮やかで、食欲をそそるいいにおいが漂ってくる。
すごく、美味しそう……。思わず目が釘付けになった。
そりゃ、私だってコース料理くらい食べたことはあるけれど、これは絶対、今まで食べたものとランクが違う気がする。
料理にすっかり目を奪われていた私は、「失礼します」という男性スタッフの声で我に返った。テーブルのセットを終え客室を出ていくスタッフに、私は慌ててお礼を言い会釈をした。
スタッフが退室してすぐ、今度は「くっくっ」と喉を鳴らすような笑い声が聞こえてきて振り向く。
「な、なんですか」
「いや。とりあえず食おう。腹が減った」
そう言って、彼はテーブルの椅子に座った。
この人、いつもこんな豪華な料理を食べているんだろうか。
そんなことを考えつつ、私はおずおずと向かいの椅子に腰を下ろす。水のグラスが置かれているだけで、アルコールはなかった。
この分不相応な食事の代償に、私は一体どんな話を聞かされるのかと思うと、気が重くなった。
3 天使とは都合よく捏造された生贄のことを言うらしい
母方の従弟である高輪征一郎は、この高輪家でよくぞここまで純粋培養できたな、と呆れるほどの好青年である。
優秀だし、決して頭は悪くない。だがいかんせん、人がよすぎる。そして、生まれた時から将来を約束された立場だったせいか、楽観的なところがある。つまり、教育に関しては厳しく育てられたが、大事に守られすぎて人を疑うことがない。
交友関係も広いしコミュニケーション能力が高い。しかし、女好きの上人を疑わないため、簡単にハニートラップに引っかかる。
そんな高輪グループの後継者に余計な傷が付かないよう、俺にお目付け役という面倒な役職が回ってきた。
まったく腹が立つほど光栄だ。こうなったら、一日も早く傷ひとつない完璧な高輪家当主として自立させ、俺の実績にするしかない。
そう決意したのが、今から五年前だった。
……五年も子守りをさせられているのか。
「貴兄、俺の秘書でいるのが嫌なら、副社長とかさ……それも嫌なら重役ポストを用意するからさ。親父も絶対、そうするつもりだと思うけど」
執務室の椅子で征一郎が言う。大きく伸びをしながらさりげなさを装ったつもりのようだが、俺の反応を窺っているのは丸わかりだ。
仕事用の十インチタブレットを指で操作しながら、ちらりと征一郎に視線を向ける。スケジュールの調整を終えてタブレットを机に置くと、眼鏡を外して眉間の少し下を指で揉んだ。
「冗談じゃない。何年世話を焼かせる気だ。一生か? お断りだ」
こうして面倒を見てやっているのも、祖父と叔父から散々頼み込まれて仕方なくだ。その後は自由にさせてやると言質は取ってある。
「大体、お前、恥ずかしくないのか」
「何が? 俺、昔から貴兄尊敬してるし」
「それなら、尊敬している従兄をそろそろ解放してくれ」
「えー」
「もうすぐ三十になる男が甘えた声を出すな」
「もうすぐじゃないよ、まだ二十八だし。まだまだひよっこだよー」
やかましい。俺がお前の面倒を見させられることになったのはそれより若い。年は四つしか変わらないのに、どうにも征一郎は子供っぽさが抜けない。普通の社会人ならある程度は許されるのだろうが……
彼は高輪グループのトップになる人間なのだから、それを許してくれない連中が多いのだ。
高輪グループは、今から十年ほど前に一度業績不振に陥り、上層部が分裂しかけた。その時の名残か未だに上層部には不穏な空気が漂い、隙あらば征一郎の足を掬おうとする者がいる。その勢力は、常務である征一郎の弟を後継者に担ぎ上げようとした。数年前、不祥事が出た際にこれ幸いとそいつらを一掃したものの、まだ完全ではなく気が抜けない。
当の兄弟は、それほど仲は悪くない。それが救いではあるのだが、再び弟が利用されるとも限らない。気がついたら旗印にされていたなんてことになっては遅いのだ。
最近は、征一郎も多少はしっかりしてきたように思う。俺の前では未だに軽率さを感じる言動を見せるが、わざとやっているところも多分にある気がした。
「ひよっこなのは十分わかっているが、外に出たらちゃんと気を引き締めろ。今夜の会食はお前ひとりだからな」
「心配なら一緒に来る?」
「行かない。いつものバーで待ってる」
会食の首尾は確認しておかねばならないからな。
別行動をした後の待ち合わせは、大抵ホテル東都グランデにあるバーだ。高輪グループが懇意にしているホテルで、急遽客室が必要になっても即座に対応してくれる。
今夜征一郎が会う相手は、少々厄介だ。敵対しているわけではないが、味方というわけでもない、グループ会社のひとつで理事を務めている古狸だ。しかしそろそろ、この程度の相手は征一郎ひとりでこなしてもらわなければならない。
会社を出て俺は俺で別の仕事を済ませた後、軽く食事をしてホテル東都グランデに向かう。いつものように、バーのカウンターに落ち着いた時だった。
近づいてくる女に気づいて、視線を隣に向ける。女の顔を見てすぐに記憶の中から相手の情報を引き出す。総務の、少々厄介な人物だった。
まあ、飲むわけないな。
カウンターに残してあった自分のグラスを見る。隣に座っていた井筒美晴は既に消えていた。
「何かございましたか」
中身が入ったままのグラスを見て、バーテンダーが眉を下げた。
「いや。気にしないでくれ。少し目を離していたから念のためだ」
実際は、敢えて席を外しカウンター席が見える場所で電話をしていたのだが、案の定、怪しい手の動きが見えた。
「もしかしてさっきの女性ですか? 他にも席は空いているのにすぐ隣に座られたので、お知り合いだと思ったのですが……」
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