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1巻
1-1
溺愛フレンズ
緊張と迷いのせいだろうか。落ち着かなくて、私――川崎ちひろは両親との待ち合わせ前にもう一度お手洗いに入った。
鏡に映る私は、二日酔いのせいもあってかあまり顔色が良くない。もう二十七歳。一晩の無茶が翌朝肌に表れる年齢になってしまった。
それに何より今日は、とても微妙な表情を浮かべている。
「どうしよう……本当にいいの? 紹介しちゃったらもう後には引けないよ」
鏡の中の自分に問いかける。
ここは都内にあるホテル。頭の固い両親のために、それなりに格式高いところを選んだつもりだ。
私も今日のこの場に合わせて、いつもは着ないような紺色のワンピースを身につけ、ストレートの黒髪をハーフアップにしている。できるだけフォーマルを意識したコーディネートだ。今朝、大急ぎで調達したので、ワンピースは新品。しかも、私じゃ絶対手を出せない高級ブランドのものだった。
私は今日、人生の一大イベントに踏み出そうとしている。
だけど、相手がとにかく予想外で、頭がついていけずにいた。
「まさか本気で、『友達結婚』なんて」
昨夜は酔っていたこともあって、その造語がやたらもっともらしく聞こえた。だけどそんな言葉、これまで聞いたこともない。
――それを私に提案した男は、大学時代からの友人だ。
悪い奴じゃない。頭の回転が速く機転が利くので、昔から何かと助けられることが多かった。頼り甲斐のある男だと思う。
話していて飽きないし、会話のテンポも合う。一緒にいれば楽しい。ただしそれは、飲み友達として彼を語るなら、だ。
そんな彼と、酔った勢いで結婚することになってしまった。正直わけがわからない。本当にいいんだろうか?
答えが出ないまま、その男を待たせているカフェラウンジへ戻る。
テーブル席のソファに座る彼――高梨諒は、たくさんの人がいるラウンジの中で一際目立っていた。
品の良いスーツに身を包み、スマホの画面に目を落としている。ただそれだけなのに、佇まいに優雅さを感じさせる。
立てば百八十センチを超える長身、そのうえモデル張りの綺麗な面差しとくれば人の注目を集めて当然だろう。
切れ長の目の中央にあるブラウンの虹彩は、見るものに優しい印象を抱かせる。髪色も同じブラウンで、触れると柔らかそうだ。
……見た目がいいのは前からわかってたけど、ここまで飛び抜けてたっけ?
社会人になってからは薄暗いバーで飲むばかりで、日の高いうちに会うのは久しぶりだから、そう思うのかもしれない。彼とは長い付き合いだというのに、今更ながらにその外見スペックの高さに気づかされた。
だからなのか、今日はなんとなく近寄りがたい。
それとも夕べの一件で、私が妙に意識してしまっているから?
ふう、と深呼吸をして気持ちを落ち着ける。テーブルに近づき、彼の斜め向かい――お手洗いに立つ前と同じ場所に腰かけた。気づいた彼がスマホから顔を上げ、ゆったりと笑みを作る。たったそれだけでその場が華やいだようだった。
「ご両親、遅いな」
「電車が遅れてたみたい。でももう着くって、連絡が来てた」
本来なら緊張するのは彼のほうだろうに、一切そんな気配は感じさせない。そんなところを頼もしいと思っていいのだろうか。
コーヒーカップを手に取り、口に運んだ。少し冷めて温くなったそれが、ほろ苦く感じる。
「ねえ、諒。本当にいいの?」
今朝から何度目かの質問を口にした。頭の中では、何度目どころかずっとエンドレスで続いているのだけれど。
「逆に何が問題なんだ?」
問い返されて、うぐぐ、と言葉に詰まった。
「ちひろは今日、両親に結婚相手を紹介しなければいけない。俺は俺で、結婚することでクリアできる問題がある。これ以上の案なんてもうないだろう」
「それはそうなんだけど……」
「何も騙そうってわけじゃない。本当に結婚するんだからご両親も安心するだろうし、ちひろも望まない相手と結婚せずに済む。気に病むことはないよ」
いや、本当に結婚しちゃうっていうのが問題であって!
そう言おうとした瞬間、頭の中に蘇ったのは両親から持ち込まれた結婚相手のことだった。
いやだ。絶対、あの人とは結婚したくない……!
ぞぞ、と寒気を感じて背筋を伸ばしたとき、目の端にエントランスの回転ドアを抜けてくる両親の姿が映った。
「……来た」
母はともかく、相変わらず父はお堅い顔をしている。ごくりと唾を呑み込む私の横で、彼がすっと立ち上がった。
「行くぞ」
諒に続いて立ち上がろうとすると、まるでエスコートでもするように私の目の前に大きな手が差し出された。
「え」
迷いが生じる。……この手を取ったらもう、後戻りはできないから。
忙しない心臓の鼓動を深呼吸で鎮め、おずおずと指先をのせる。直後、しっかりとした強さで指を握られ、それに励まされるように立ち上がった。
両親を前に、私はよほど心許ない目をしていたのだろう。諒が少し腰を屈めて、耳元で囁く。
「大丈夫だ、俺がついてる」
迷いだらけだったはずなのに。
その一言で、ふっと心が楽になった気がした。
***
元々、結婚願望は強いほうだったと思う。子供の頃はウェディングドレスに憧れたし、うちの実家は厳格で重苦しい雰囲気の漂う家だったから、優しい夫と子供がいる、明るい家庭に憧れた。
日本家屋じゃなくて、洋風の一軒家。小さい庭には盆栽じゃなくて蔓薔薇のアイアンポーチ。玄関先に並ぶ可愛い自転車と三輪車。
共働きでもかまわない。でも家事はちゃんとしたいし、料理上手で綺麗なお母さんでいたい。趣味で好きな絵を描くのも続けたい。
それと、結婚相手は優しくて穏やかな人がいい。間違ってもお父さんみたいな、顔も性格も四角い人はいやだ。
もちろん、今挙げたのは子供の頃の夢そのままだ。大人になるにつれ夢見がちな部分は淘汰されていって、比較的実現可能な夢になっていったんじゃないかと思う。
しかしながら、これまでふたり付き合った男性がいたけれど、結婚の話には至らずに別れてしまった。ちなみにいつも私は振られるほうだ。
急かしているつもりはなかったけれど、結婚を意識しているのが伝わったのかもしれない。
だけど、それのどこが悪いの? 好きだから結婚を考えるんじゃないの? 重いと言われても、男の人と結婚を考えずに付き合うのは、私には無理だった。
しかも二人とも、別れ方が酷い。一方的にメッセージを送ってきてそれっきりだ。顔も見ず、別れの理由も告げないなんて、あんまりだと思う。
そんなとき、いつも私の愚痴聞き役になってくれたのが、諒だった。
――男のほうに結婚を考える余裕がなかっただけだ。
――大体、お前は男を見る目がない。
その言葉に少し救われ、愚痴るだけ愚痴ったら次に向けて頑張ろうなんて考えていた。
まあ、ある日、それどころじゃなくなるんだけど。
それは、今から約三か月前――昨年十一月におこなわれた祖父の法事での出来事が発端だった。
うちは別段裕福というわけではないけれど、歴史だけは古い家だった。遥か昔からの家系図なんてものがきちんと管理されていて、代々それを本家で受け継いでいく。分家がいくつもあり、どう繋がりがあるのかわからないような遠い親戚と、今でも家同士の付き合いがあった。
その本家を継いだのが私の両親だ。古い家を守ってきただけあって、特に父親の頭は固い。
跡継ぎは長男である兄が覚悟を決めているようなので心配いらないけれど、私に対しては早く結婚して身を固めろとずっと言ってきていた。
まだ二十代だ。今時、この年齢で結婚を急かされるなんて勘弁してほしい。そう伝えても両親は受け入れてくれず、二十五歳になった頃からは見合いをしろと強く勧められ続けた。
冗談じゃない! 結婚相手くらい自分で探すし、ちゃんと恋愛をしてお互いの気持ちを育み、愛し合って結婚したい。
だからのらりくらりと躱していたのだが、ついに先日、法事の後の酒の席で、遠い親戚の男を結婚相手にどうかと紹介されてしまった。
分家の長男。旧い家のしきたりに染まったその人は、私より十歳上の、嫁は子供を産む機械くらいにしか思っていない人だった。
なぜ知ってるかって、親戚の集まる酒の席でいつも、嫁は若いのに限るだとか嫁は夫に従ってりゃいいんだとか大声で語っているからだ。そんな考えだからその年まで独身なんじゃないの!?
聞いているだけで腹が立ってくるので、いつもなるべく近寄らないようにしてたのに。
……その人と! 結婚しろと! 言うのか!
『今、結婚前提に付き合ってる人がいるから!』
気がつけば大嘘を吐いていた。そして、その日のうちに一人暮らしをしているマンションに慌てて逃げ帰った。
ぐずぐずしていると、外堀から埋められかねないと思ったからだ。田舎、超こわい。
いや、怯えている場合ではない。早く、相手を探さないと……!
結婚前提かどうかはさておき、実際に彼氏くらいは作らなければ、絶対に結婚させられる!
逃げ帰った程度で引き下がる父親ではない。本当に相手がいるのか確かめようとするのはわかりきっていた。そして嘘がばれれば間違いなく、待っているのはあの男との正式な縁談だ。
ぜったい、いや……!
焦った私が頼ったのが、婚活アプリである。結婚願望のある者同士が出会うのだから、話は早い。とはいえ、色々と怖い噂も聞くので、ちゃんと身分証明等が必要な、安全そうなところを選んだつもりだ。
運良く、そこで知り合った人と意気投合。五回会って、お互い将来を見据え、まずは付き合おうと決めた。これでようやく両親に紹介する段取りがついた、そう思ってたのに。
明日、いよいよ両親が田舎から出てくるというときになって、いきなり別れを告げられたのである。しかも顔を合わせるでもなく、電話でもなく、携帯に届いた一言のメッセージで。
どうして、どいつもこいつも別れの言葉をメッセージアプリに頼るのだ!
しかも今回もふられた理由がわからない。やっぱり両親に会ってほしいというのはまだ早かった?
とにかく考え直してほしいと説得するべく電話をかけたが、当然すでに通じなくなっていたのだった……
「まったく。婚活アプリなんてものに頼るからだ」
行きつけのバーのカウンター。
憔悴し、がっくりと項垂れる私の隣で、諒は呆れた声を上げた。
大学で同じ講義を受けることが多かったのとバイト先が一緒だったことで、友人の中でもよくふたりで飲みに行く仲だった。卒業してからもその関係は続いていて、しかも勘がいいのかなんなのか、私が失恋するたびにいいタイミングで連絡を寄越してくる。
今夜もまた、呆然としているところに諒から飲みの誘いがあり、馴染みのこのバーで待ち合わせた。
「……だって。婚活アプリなら相手も結婚したがってるんだし……うまくいくって思ったんだもん」
そもそも今回、婚活アプリに頼ったことは諒に話していないのに、なぜ知っているのか。
おそらく情報を流したのは、共通の友人である藤原菜月だろう。先日彼女と飲んだときに、婚活アプリでいい人と知り合って、どうにか親戚との結婚は回避できそうだ、と報告した。それが、このザマだ。
……菜月め! 余計なこと話してー! もう、泣きたい。
心の中で呟くと涙が本当に滲み出そうになって、慌てて目頭に力を入れた。
向こうだって結婚したいからアプリに登録してたんだろうに、そんな相手にすら逃げられたなんて、情けないし恥ずかしいし、自信もなくなる。そりゃ、自分がそれほどいい女だとは思っていないけど、そんなに悪くもない……つもりだったのに。
「……浅はか」
「うるさいなあ」
へこんでいるところに追い打ちをかけないでほしい。
「なんで俺に相談しない」
「相談したってどうしようもないでしょ。それにそんな余裕もなかったし……マスター、おかわり!」
カウンターの向こうには、五十代くらいの、ひょろっと背が高い、人の好さげなオジサマが立っている。彼がこのバーのマスターだ。空のグラスを差し出すと、マスターは困ったように眉尻を下げた。
「ちひろちゃん、もう限界じゃない? そろそろやめたほうが」
「俺が見てるからいい。作ってやって」
マスターが心配して忠告してくれたけれど、諒のひとことで新たなグラスが用意された。まるで涙の色のような、淡いブルーのカクテルだ。
「ううっ! マスター、こんな哀しい色のカクテル飲ませないでよぅ!」
「えっ! ごめん、哀しいときにはしゃいだ色のカクテルもどうかと思って」
「飲むよ、飲むけどね!」
「マスターにまで絡むな、お前は」
ぺん、と頭のてっぺんを軽く叩かれた。その拍子に、じわ、と目の奥が熱くなってくる。せっかくさっきは我慢したのに、このままでは零れてしまう。
「だって、酷い。……明日、両親に会わせる約束してるのに」
カクテルを一口呷って、涙を誤魔化すように、つい大きな声でぼやいた。
私の言葉に、「ちょっと待て」と諒が棘のある声を出す。
「……出会って間もない男とそんなとこまで話を進めたのか」
「あ、うん……ちょっと事情があって」
「事情? 聞いてない」
そりゃ、言ってないからね。菜月もそこまでは諒に話さなかったようだ。
「お前、馬鹿か。なんだってそんなよく知らない相手と」
「えっ……だって、婚活ってそういうものでしょ?」
いや、いくら婚活でも早すぎる展開だったかもしれないけど。
私だって、緊急事態でなければこんなに急いだりはしなかった。だけど、どうしても、あの親戚の男との結婚だけは嫌なのだ。
「それにまだ結婚が決まったわけじゃなかったし。とりあえず早めに両親に会ってくれたら助かるってお願いしたら、いいよって言ったから」
「で、直前になって逃げたってことか」
「そう! なんで!?」
「……あまりの重さに、怖気づいたってとこでしょうかね?」
マスターがぽろりと零した一言に、私は愕然とする。婚活アプリで知り合った人にすら私は重量級の扱いをされるのか。
「マスター酷い!」
「いや、私が重いと思ったわけじゃないですって」
「あああ、どうしよう。明日、親が来るのに」
「そんな中途半端な男、紹介しなくて正解だ。向こうから別れてくれて良かったじゃないか」
慰めているつもりなのだろうけれど、彼のことを見たこともないのに『別れて良かった』は酷い。言い返そうと伏せていた顔を上げたとき、マスターがぽそりと呟いた。
「……別れて良かったのは、どっちやら」
見れば、マスターはちょっと疲れたような顔で頬を引きつらせていた。私から目を逸らして、そっぽを向いている。何かちょっと意味ありげに聞こえたけれど、それを問い返す前に諒の手が私のカクテルグラスの脚をこん、と叩いた。
「良かったんだよ。そんな別れ方するやつがいい男とは思えない」
飲んで愚痴って忘れてしまえ、という意味だろう。
そのとおりなのかもしれない。
言われるままに、グラスに残っていたカクテルを一息に飲み干した。くらりと少しの眩暈を感じる。これで何杯目だろうか。でもまあ、毎度のことなので、諒がちゃんと家まで送ってくれるだろう。
「大体、ちひろは本当にそいつと結婚したかったのか?」
「……そんなの今聞かれてもわかんない」
都合の悪い質問をされて、私は逃げた。
諒の言葉は私の頭の片隅にありながらも、答えが出せずにいたことだった。
結婚はしたい。だけど誰でもいいというわけじゃない。
逃げた相手の顔を思い浮かべると、それほど嫌な相手ではなかったと思う。初めて会ったときの、緊張気味の笑顔がちょっと可愛らしかった。好きになれそう、と思ったから何度か会ったのだ。
だけど、気持ちを育てるよりも先にこんなことになってしまった。
「俺は案外、ちひろの間口が広いことに驚いてる」
いつのまにか置かれた新しいカクテルは、オレンジ色の明るいイメージだ。一口飲むと、柑橘系の爽やかな甘みが口の中に広がった。
「間口って?」
「そういうやり方で相手を探せるのなら、もっと視野を広げて身近にいる男を選べばいいのにってことだよ」
「身近にいないからこうなってるんでしょ」
何を今更なことを言っているのか、と眉をひそめると、諒が笑顔のまま固まった。それを見て、なぜかマスターがくくっと笑いを噛み殺す。
「え、何? 私なにか変なこと言った?」
意味がわからず首を傾げる私に、諒の手がまた、私のグラスに触れて促した。
「何でもない。ほら、もっと飲め」
そう言った諒の目は、笑っているのになんだか妙に圧力を感じさせる。既に結構飲んでいる自覚があったが、その目力に負けてグラスを手に取った。
「う、うん?」
基本笑顔でいることの多い諒だが、今日はその笑顔が、少し怖い。
……私、何か怒らせるようなこと言った?
けれど、カクテルの甘みと酔いに紛れて、それ以上考えられなくなってしまった。
ただ、酔いながらもいつもと違う空気は感じていた。
私が飲みすぎそうになるとセーブしてくれるのが彼の常だったのに、今日はやけにカクテルを勧めてきて、そして絡んでくる。いったいどういう風の吹き回しだろう。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。明日、両親が来る。しかし紹介する相手がいない。どうにかしなければいけないのに。
インフルエンザにでもかかったことにして、日を改めようか。いや、もうそんなその場しのぎでは誤魔化せないだろう。
……駄目だ、考えるのもしんどい。
結果、私は酒に逃げた。パカパカとグラスを空け、あっという間に酔っぱらいの出来上がりだ。
「大体ねえ! いつも諒は偉そうに私にお説教するけど!」
「はいはい」
「諒はどうなの? 最近全然自分の話、しないじゃない」
「俺は相変わらずだ」
「相変わらずとっかえひっかえ?」
「それは大学の頃の話だろ。いつまでも子供みたいな遊び方はしてねえよ」
絡み始めた私の隣で、彼は涼しい顔で水割りのグラスを傾ける。
そんな彼を羨ましい、と思ってしまった。
「諒はいいね」
「何が」
グラスに残っていたカクテルを、一息に飲み干す。ぽ、と頬や頭に熱が灯って天井が揺れた。飲みすぎているのは、わかっているのだけれど。
「自由に結婚できるじゃない」
羨ましい。男だったら、行き遅れだなんだと言われることもない。うちがせめて普通の家だったら、こんな早いうちから追い詰められずに済んだのに。
そんな思いからつい零してしまった言葉は、諒に疑問を持たせたようだ。
「ちひろは自由じゃないのか」
じっと、射るような目で見つめられ、咄嗟に目を逸らす。こんな泣き言、言ったところでどうしようもないのに。
ただ、もう自分ではどうにもできない状況に、私も限界だったのかもしれなかった。
アルコールのせいではない熱が、じわりと目の奥に広がる。緩み始める涙腺。堪えるのは今日、何度目だろう。慌てて眉根を寄せたが、遅かった。
「ちひろ?」
諒の低い声が響く。肩を掴まれた拍子に身体が揺れて、ぽろりと涙が零れる。それで、箍が外れてしまった。
「結婚、させられる……」
「何?」
「遠縁の、分家の長男と。明日、自分で選んだ人を紹介しなかったら、結婚させられちゃう」
ぼろぼろぼろ、と言葉と一緒に溢れ出した涙は、もう自分の意思では止まらなかった。
結婚は子供の頃から夢見てた。綺麗な花嫁さんに憧れた。
いつか、誰かを好きになって、恋人になって、ちゃんと愛情を育てて結婚する……。それはとても当たり前でありふれた夢だと思っていたのに、今は手の届かないお月様のようだ。
「あんな人と結婚するのは絶対嫌。だから自分で相手を探そうとしてるのにうまくいかない」
涙声が嗚咽に変わってしまった。泣き顔をそれ以上見せたくなくて、カクテルグラスを横によけるとテーブルに突っ伏した。
諒からの言葉はない。ただ、肩を掴んでいた手が、伏した私の頭に置かれ、驚くほど優しい手つきで髪を撫で続けてくれた。
そのおかげか、あるいは泣いて気が済んだのか、頭が徐々にすっきりしてくる。
「……落ち着いたか?」
「んー……」
諒の前で泣くのはこれが初めてではない。いつだって、失恋のたびに絡んで泣いて。なんだかんだで彼は朝まで付き合ってくれる。
だけど、今さらと言われようと泣き顔を見られるのは、やはり気恥ずかしい。
「ティッシュちょうだい」
カウンターの中にティッシュの箱があるのは知っている。顔を伏せたままでマスターに頼み、手を差し出すと、しばらくしてティッシュを数枚握らされた。こそこそと涙と鼻水を拭う。
「はあ。ごめん、大丈夫。これまでどおり、なんとか両親の猛攻を躱してくわ」
それしかない。今までそうやって乗り切ってきたのだし、なんとかなるだろう。親の言いなりになって結婚するのだけは嫌だ。
そうやって自分を奮い立たせているというのに、諒の声は冷ややかだった。
「いつまで?」
「……そりゃ、自力で相手を見つけるまで」
「それで? また婚活アプリに頼るのか」
ぐ、と言葉に詰まる。
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