S系エリートの御用達になりまして

砂原雑音

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1巻

1-3

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 ああいう料亭に行き慣れてそうな彰くんが言うのなら、きっと本当にラッキーだったんだろう。
 このままずっと余韻よいんに浸っていたかったが、窓の外の景色を見ると、そういうわけにもいかなかった。私のアパートの最寄り駅に近づいていたのだ。

「あ、その先にある駅の前で降ろしてください」

 運転手さんに向かってそう言うと、隣から声がした。

「家まで送る。この近くなんだろう?」
「でも、結構駅から外れたところだし、道幅が狭いの。ここで十分だから」

 狭いだけでなく、アパート周辺は道が入り組んでいる。こんな大きな車じゃ通りにくそうだと思ったのだけど、彰くんは私が嫌がっているととらえたらしい。

「駅から遠いってわかっているのに、ここで降ろすほうがどうかしてる。いちいちさからわないで大人しく座ってろ」

 あきれたような声は、少し怖かった。

「でも……」

 たったこれだけのことで、どうしてそんなに機嫌が悪くなるのか。
 この短い時間で、気づいたことがある。彼は、人の目がある時は人あたりのいい穏やかな表情を浮かべているけれど、私とふたりか、もしくは運転手さんと三人の時には、その仮面ががれるようだ。
 すぐに不機嫌になったり、笑ったかと思ったら意地悪な笑みだったりするし、私の反論など聞き入れない。今もそうだ。
 私の言葉なんか聞かずに、問答無用で運転手さんに告げる。

佐野さの、彼女の家まで行ってくれ」
「かしこまりました」

 運転手さんは、どうやら佐野さんというらしい。五十代くらいの優しそうなおじさんで、私に気を遣ってくれたのだろう。バックミラー越しに、にこりと微笑んでくれた。
 アパートまでの道を聞かれて答えていると、さすが運転をお仕事にしている人だなと思った。難なく細い道を抜け、すぐにアパート前に着く。
 歩けば三十分の道のりだ。送ってもらえたのは、確かにありがたかった。

「ここです、ありがとうございました」

 お礼を言うと、車が緩やかに停車した。佐野さんが運転席を降りて、後部座席のドアを開けてくれる。
 こういう扱いをされることに慣れなくて、恐縮して肩をすくめながら車を降りた。

「……ここに住んでるのか?」
「えっ?」

 声に驚いて振り向くと、どうしてか彰くんも車から降りるところだった。

「そう、ここの二階の角」

 我が家の窓を指さして彼を見れば、眉間にしわを寄せている。
 このあたりは一応住宅街だが、き地やき家が多く、街灯も少ない。暗い夜道を一人で歩くのは怖いけれど、このとぼしい灯りの下で彰くんの不機嫌な顔を見るのも、これはこれで怖い。
 彼は眉をひそめたまま周囲を見回して、ぼそっとつぶやく。

「女が一人暮らしするような環境じゃない」
「……急に引っ越すことになって、あんまりゆっくり選んでる余裕がなかったの」
「だからと言って、もう少し……選びようがあるだろう」

 選びようって……せめてオートロックがあるとか、ってことだろうか?
 前に住んでいたところは一応オートロックだったけど、管理人さんが常駐していなくてあんまり意味がなかった。住人のあとに続いて、しれっと入って来られるのだ。
 中途半端なセキュリティはあまり意味がないと悟り、それならなくてもいいかと家賃重視で選んだのがこのアパートだったのだけれど、そこまで愕然がくぜんとされるほどひどいだろうか?
 それに、十数年ぶりに再会しただけの幼馴染おさななじみに、住居のことまでとやかく言われるのはあまり気分のいいことではない。

「駅から遠い分家賃が安いし、助かってるの! それに女の人も住んでるよ。見かけたから」

 ムッとして少し語気を強めて言うと、私は彼と運転手の佐野さんに向き直り、ぺこっとお辞儀じぎをした。

「送っていただいて助かりました。それと彰くん、雇ってくれて本当にありがとう。精一杯、バリスタとして努めさせていただきます」

 丁寧な言葉遣いで改めてそう言ったが、多分あまりいい態度ではなかっただろう。彼の無言が少し怖い。眉間のしわが、今ので余計にくっきりと刻まれた。
 ……しまった。怒らせた。

「じゃあ」

 逃げるようにきびすを返してアパートの階段へ向かおうとした。けれど手首をうしろからつかまれて引き留められる。

「茉奈」

 手を引かれ、名前を呼ばれて反射的に振り向く。
 すると目の前に彰くんの胸元があって、思っていたより間近に彼が立っていたことに驚いた。
 手首をつかまれたまま、徐々に視線を上げる。どうしてだか、彰くんはひどく真剣な目で私を見下ろしていて、彼の視線に容易たやすとらわれてしまう。

「あ、の……」
「今日は会えてよかった」

 さらりとそんな言葉を吐きながら、彼の指が私の頬に触れた。どくん、と心臓が跳ねる。
 ……お、怒ってるんじゃなかったの?
 混乱した。こんな触れ方を、違和感なく受け入れるような仲ではない。
 けれど彼はおかまいなしに親指で頬をでてきて、私は固まってしまって動けなかった。
 彼が当然のように顔を近づけてくる。キスするつもりだと気づいた時には、さすがに手が動いた。

「やっ、なんでっ……!」

 いていた左手が、とっさに彼の頬めがけて飛んでいく。けれどその手も呆気なく捕まって、そうなったらもう、びくともしなかった。
 それでも抵抗しようと首をすくめる。だけど両腕をぐっと引かれて、抵抗などなんの意味も成さなかった。
 どうして、なんで、と頭の中で繰り返しながら、ぎゅっと目をつぶる。
 ふっと唇に吐息が触れて、それだけですぐそこまで彼の唇が迫っているのがわかった。
 唇を強く結んで、泣き出しそうになるのをこらえる。
 そうやって口をかたくなに閉ざして、そのまま数秒が経過した。いつまで経っても、触れてくる気配がない……と思ったら、額をこつんとぶつけられた。
 驚いて目を開くと、彼の黒い瞳がすぐ目の前で揺れている。

「いくら気が強くなったといっても、男の力にかかったらこんなものだ。人の忠告は素直に聞き入れろ」
「……え?」
「無防備だからこんな目にう」

 その瞬間、柔らかく、少し湿ったものが触れたかと思ったら、そのまま唇をふさがれていた。

「んっ……う?」

 舌で唇をなぞられ、ぞく、と身体の芯がうずくような感覚が全身を駆け抜けた。その感覚に怖気おじけづき、思わず一歩あとずさる。
 だが、彰くんも一歩踏み出し、私の身体をさらに引き寄せる。それと同時に、彼の舌が私の唇を割って固く噛み締めた歯をでた。
 逃がしてはもらえない。けれど激しいものでもない。
 柔らかい舌に歯列をくすぐられ、私の身体からはとろけるように力が抜けていく。固く拒絶する私を少しずつ緩ませていくような、なだめるようなキスだった。

「んんっ……」

 腰が甘くうずいて、身体が震える。
 力の入らなくなった私に気づいたのか、彰くんは私の手首を離すと、その手で腰を抱き寄せた。身体が密着し、首がのけぞる。
 息苦しかった。呼吸が辛く、我慢できずにキスの合間に息を吸い込んでしまう。

「ふあっ、……う、んんっ……」

 その隙をついて、ぬるりと舌が口の中に入ってくる。私の舌は逃げるように奥へ引っ込もうとするけれど、彼の舌先が深く追いかけてきて絡め取られた。
 ――どうして?
 ただただ混乱して、キスにあらがう余裕がなかった。どうして彼が私にキスをするのか、わからない。わからないまま、翻弄ほんろうされる。
 舌先が絡まり、混じり合った唾液で口の中がたっぷりと濡れていく。
 舌でそっと上顎うわあごでられ、ひざの力が抜けた。がくがくとひざが震えてくずれそうになる私を、彰くんの手がしっかりと支えてくれる。
 頭の芯まで溶けそうになる寸前、舌先を吸い上げられて甘噛みされた。かと思うと、急に舌が引き抜かれ、最後にちゅっと唇をついばまれる。離れていく唇を唾液の細い糸が繋いで、音もなく切れた。

「無防備だとこうなる、という忠告のつもりだったんだが」

 くっ、と喉を鳴らすような笑い声がして、我に返った。

「は、離してっ! ばか!」

 どん、と彰くんの胸を押すと、さっきはびくともしなかった身体がたやすく離れる。といっても、押した反動であとずさったのは私のほうで、彼は少し肩を揺らした程度だったけれど。
 ――私、夢中になりかけてた。
 そう気がつくと、かあっと顔も身体も熱くなり、汗がにじんだ。それを誤魔化ごまかすように彼を非難するが、声はどうしても震えてしまう。

「ちゅ……忠告のためにキスするなんて、最低っ!」

 ひどい。最低だし、悪趣味だ。
 こっちが必死で威嚇いかくしているというのに、彰くんは素知らぬ顔で腰をかがめ、なにかを拾い上げる。

「少しは警戒心持てよ。嫌いな男に触れられたくなかったら」

 また一歩彼に近づかれ、身体がおびえたように硬くなる。が、なにかを差し出されて渋々片手を出すと、小さなビジューのついたヘアピンが手のひらにのせられた。
 前髪を留めていたものだが、さっき彰くんを押した拍子に落ちてしまったらしい。

「どうした? 早く行かないとまた同じ目にうぞ」

 そうおどされて、びくっと肩が跳ねた。

「か、帰る!」

 ヘアピンを握りしめ、慌ててきびすを返して逃げるように階段へ向かう。いつもなら静かに上がるのに、気遣う余裕がなくてカンカンカンと大きな音を立ててしまった。
 二階までのぼり切った時、「茉奈」と名前を呼ばれ、顔だけそろりと振り向かせる。
 彼はさっきと同じ場所で、こちらを見上げていた。

「おやすみ。戸締まりしろよ」

 言われなくても、普段からちゃんとしてるし。それにあんなことをされれば、いつもより厳重にするほかない。
 私はなにも答えず、ぷいっ、とそっぽを向いて小走りで玄関扉の前まで行くと、バッグから鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
 ――手、震えてる。
 悔しくて、唇を噛み締めながら急いで中に入り、しっかり鍵とチェーンの両方をかけた。
 そのまましばらく耳をそばだてていると、外から微かに車のドアが閉まる音が聞こえてくる。それでようやく気が抜けて、私はへなへなとその場にへたり込んだ。

「……やっと帰った」

 どっと疲れを感じた。
 ひどい。いくらなんでもキスはやりすぎだ。
 私が嫌々送られたことも、アパートをけなされて可愛げのない態度を取ってしまったことも、それら全部が気に入らなかったのだろうけれど、こんなおどし方はない。
 私だって本当は、もうちょっと小綺麗こぎれいで、治安のよさそうなところにあるマンションを借りたかった。
 けれど引っ越しを急いでいたし、経済的な面でも仕方のなかったことなのに、あんな風に言われたら情けなくなってしまう。

「……結局、彰くんはなんの話がしたかったのかな」

 溜息とともにつぶやいて首をかしげた。
 今日の会話を思い出してみたけれど、これといった話を振られた覚えはなく、ただ雑談して美味おいしいものを食べただけ。そして最後に……怒らせて、あんなキスをされてしまっただけだ。
 思い出すと、にわかに頬が熱くなった。
 その熱を振り払うようにぶるんと頭を振って、床に手をつき立ち上がろうとした。その時、指先にリノリウムの床材ではない、紙の感触が触れた。

「……あれ?」

 たまに新聞受けから広告が差し入れられて、床に落ちていることがある。
 だが、ただの広告にしてはしっかりとした、少し厚めの紙のようだった。暗くてよく見えなかったので、それを拾いながら立ち上がり、片手で壁にある電気のスイッチを入れる。
 それは、黒い封筒だった。
 くつを脱いで部屋に上がりながら裏返してみるが、差し出し人が書かれていない。宛先もだ。
 そもそも、郵便で届いたのなら、ここではなく一階にある集合ポストに届くはずだ。
 ――なんだろう。黒い封筒って、なんか不気味。
 ぞく、と背筋が寒くなる感覚に襲われながら、ラグの上に座り封筒を開けた。

「……なに、これ」

 中には、なにも書かれていない白の便箋びんせんが一枚、四角に折られて入っていただけだった。


   * * *


 転職してから、約一ヶ月。梅雨つゆ独特の蒸し暑さがじわじわと体力をぐ季節だ。
 十代の頃にはさほど気にならなかったが、二十代もなかばになると気候から来る身体へのストレスに、疲れを感じる時がある。

梅雨つゆの時季って、なんか身体重くない?」

 レジに立ちながら、少しだけ背中をそらして軽く肩を回した。今日は客足が少なくて、そのせいか時間の経過がひどくゆっくりと感じられ、余計にだるい。

「そんなオバサンみたいなこと言わないでくださいよ……立河さん、もうすぐ王子が来られる頃じゃないですか」

 香山さんが、店内のかけ時計を見て言った。

「そーだね……」
「王子、絶対立河さんに会うために来てますよね」

 どうしてか、香山さんは嬉しそうだ。というより面白がっているのかもしれない。
 あれから、彰くんは毎日店を訪れるようになった。
 まず、ランチにはテイクアウトでコーヒーと、シリアルバーやサンドイッチなどを買いにくる。
 夕方は、毎日ではないけれど店内でカフェラテを飲む。座るテーブルは決まって、窓際の一番端だ。仕事上がりの時もあれば、残業前に休憩がてら訪れる時もある。
 そして仕事上がりの場合、食事の誘いをされることが多い。
 はっきり言って、なにがしたいのか全然わからない。
 店としてはいいお客さんに違いないのだが、再会直後にあんなキスをされた私は、最初はかたくなに彼を拒絶していた。
 けれど、あれきりなにかされることもなく、私が食事の誘いを断れば、ただまっすぐ家に送り届けるだけの日が何度か続き……
 さすがに心苦しく思いはじめた私は、ついに心折れて先日二度目の食事に応じたばかりだった。

「あ、いらっしゃいませ、柏木専務」

 香山さんの声と同時に入口に目をやれば、ガラスの自動ドアから彰くんが入ってくるところだった。

「いらっしゃいませ」
「茉奈、カフェラテひとつ」

 彼が名指しで、しかも下の名前で私を呼ぶ。
 そのたびに、店内からちらちらと痛い視線が飛んでくることに、彼が気づいていないはずはない。間違いなくわざとだと思っている。

「かしこまりました」

 オーダーはいつもカフェラテだ。こうして私に声をかけてから、彼はいつもの窓際のテーブル席に向かう。

「立河さんお願いしまーす」
「……なんでいっつも私なの」
「だってご指名ですし。ラテアートできるの、立河さんだけですし」

 にやにやと香山さんが笑う。
 私は、はあっと溜息をついて、保温器の中からカップをひとつ手に取った。
 用意したカフェラテをトレーにのせ、彼のいる窓際のテーブル席に近づく。今日は昼からずっと雨で、無数の水滴が窓ガラスを上から下へとつたって落ちている。
 長い足を組み、窓の外を見ていた彰くんが、私を見て優しく笑う。
 絶対、作り笑いだ。人前だと彼は、わざとらしいくらいに甘い表情で私を見る。

「お待たせいたしました」

 銀のトレーからカフェラテのカップを持ち上げ、彼の前に置いた。
 この瞬間がちょっとドキドキする。彰くんは、いつもラテアートを楽しみにしているようで、私もなかなか気が抜けないのだ。

「へえ、なつかしいな」

 定番のアートはネタが尽きてきたので、今日はキャラクターものに挑戦した。私たちが子供の頃から人気の、絵本のクマのキャラクターだ。彰くんにはどう考えても似合わない。

「男の人にはどうかと思ったけど、ネタも尽きてしまったので。次は希望を言ってくださればその通りに作りますよ」

 彼はなにも答えず、スチームミルクで描かれたクマのアートをしばらく眺めてから、カップに口をつけた。

「なんでもできるのか?」
「なんでも、とはいかないかもしれないけど……修業になるかなと思って。将来自分のカフェを持つのが夢だから」

 はっきり言って不器用な部類に入る私は、一番基本的な形が描けるようになるまでとても時間がかかった。だからこそ、初めて綺麗きれいなリーフ柄ができた時は本当に嬉しかった。いつかカフェを開く時には、このラテアートを武器にしたいと思っている。

「……雨、上がったな」

 彰くんの言葉に、外を見た。
 窓ガラスを叩いていた雨の音が消えて、しずくが陽の光にきらきらと輝いている。通り過ぎる人たちも、立ち止まって傘を畳みはじめていた。
 あと少しで、今日の仕事は終わりだ。帰り道に傘を差さずにすむのは、楽でいい。

梅雨つゆも終わりかな」

 この雨が上がったら梅雨つゆ明け宣言が出るだろうと、今朝の天気予報で言っていた。これから暑い夏がやってくるのかと思うと、少々うんざりする。

「今日のシフトは? 何時まで?」
「六時だけど……」

 時計を見れば、ちょうど六時を指していた。

「送る。食事に行こう」

 こう言われたら、もう逃げられない。最近は断る口実を探すことにも疲れてきていた。

「……わかりました。タイムカード押して、荷物取って来ます」

 そう言って、彰くんのそばを離れる。その時近くのテーブルの女性客が、ヒソヒソと私のほうを見て噂話をしていた。気づかなかったフリをして通りすぎ、店長と香山さんに声をかける。

「香山さん、店長。すみません。六時になりましたので上がりますね」

 そのまま店の奥の休憩室に荷物を取りに行こうとしたのだが、香山さんに引き留められた。

「立河さん、どうしましょう」
「なに? どうかした?」
「さっき、多分K&Vホールディングスの社員さんだと思うんですけど、聞かれたんです。立河さんと柏木さんのこと」
「えっ」

 さっき、テーブル席にいた女性たちだろうか。
 彰くんがたびたび誘いに来ることで、他人の興味を引いていることには気づいていたけど、わざわざ確認しにくる人までいるとは。

「どういう関係なのかって。そういう時、なんて答えたらいいですか? 下手なこと言うと、やっかみとかうらみとか買っちゃいそうですよね」
「下手もなにも、彼とはなんでもないから! ただの幼馴染おさななじみですって言ってね!」
「えー、でもなんか、恋人ですって言っちゃいたいくらい、柏木さん足繁く通ってるじゃないですか。絶対、特別な目で見てるっていうかぁ」
「ないから! ほんとに!」

 冗談じゃない! 悪目立ちしているとは思っていたけれど、このままでは本当に変な噂が立ってしまいそうだ。
 これは、彰くんにはっきりと言わなければ。
 香山さんには、もう一度「なんでもないから」と念押しをして、休憩室へ荷物を取りに行く。戻ると、彰くんはすでに席を立っていて、出入口の前で待っていた。

「茉奈」

 私の姿を見て、彼が呼んだ。おいで、とでも言うように私に向かって手を差し伸べる。
 私は、うっと言葉に詰まった。これでは本当に、恋人同士のように見えてしまうのではないだろうか。

「……店長、お疲れ様です」
「はい、お疲れ様」

 店長までもが、にやにやと口元に笑みを浮かべている。
 顔から火をく思いで、私は彰くんの横を通り過ぎ、出入口に向かおうとした。

「茉奈、ちょっと待て」
「えっ?」

 振り向くと、すぐうしろに彰くんがいた。言われるままについ足が止まる。

「髪がほどけてる」

 言いながら、彰くんの指が私に向かって伸びてくる。
 髪の上を、指がすべる感触が伝わる。指はそのまま耳の上をたどり、うしろへと流された。
 うしろで編み込んでひとつにまとめていた髪がひと房、こぼれかけていたらしい。それを耳にかけてくれたのだと気づいたけれど、固まって身動きひとつできなかった。

「……これでいいな」

 そう言った彼の微笑みは、とても優しげで慈愛すら感じる。
 噂話をしていたテーブル席の女性たちが、またコソコソと話しながらこちらを見ていた。かあっと顔に熱が集まっていくのが、自分でもわかる。あまりの恥ずかしさに、泣きたくなった。

「あ、彰くん! 早く行こう!」

 これでは見世物みせものだ。いつまでもここにいては余計に人目にさらされてしまう。
 私は慌てて彼のスーツのそでを握って、無理やりに店から引っ張り出した。


 高級料亭やフレンチ、イタリアン……彼が候補に挙げる飲食店は堅苦しいところばかりで、私みたいな庶民では気後きおくれしてしまう。
 正直にそう言って、今日は普通の居酒屋にしてもらった。小さな個室の中は掘りごたつのようになっていて、足をテーブルの下で楽に投げ出せる。

「彰くん……お願いだから、ほんっとにやめて、ああいうの」

 テーブルには彰くんの生ジョッキと私のカシスチューハイ、豆腐サラダに明太オムレツ、とりのから揚げと揚げ出し豆腐が並んでいる。
 ああ、やっぱりこういうのがほっとする。彰くんは嫌がるかと思っていたけれど、そうでもなさそうで、普通に料理にはしを伸ばしていた。

「聞いてる? 彰くん!」

 私の主張などどこ吹く風。黙々と食事を続ける彰くんに、私はちょっと語気を強くした。ところが彼はわざとらしくとぼけた顔だ。

「なんのことだ?」
「だから……あんな風に、しょっちゅうお店に来て声をかけられたら困る。変な噂になりかけてるんだよ? 彰くんだって困るでしょ?」
「別に俺は困らない。言わせておけばいいだろう」

 しれっとそう言い捨て、彼は生ビールをあおる。

「私は困る。だからお店に来るのはちょっと控えて。来てもいいけど、私を名指ししたり、とにかく目立つことしたりしないで。できないなら来ないで」

 きっぱり言うと、彼は微かに眉をひそめた。溜息をつきながらはしを置いて腕を組み、横目で私を見る。

「茉奈」
「な、なによ?」
「俺は忙しい」
「は?」


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