13 / 18
《十三》
しおりを挟む
日常を変えるわけにはいかない。
旦那様は、旦那様であらねばならない。
どこでどう覚えたのか、あの人はそれを完璧にこなしてみせた。戻ってきてから誰ひとり、旦那様を疑う様子もない。夜をともにする妾たちですら、旦那様が言葉少なになったことには気づいても、人そのものがすげ替えられたとは露ほども思っていない。
旦那様は完璧だ。
口調も、仕草も仕事も、そしておそらく夜も──
「胡蝶」
草木も眠る、すずしい夜。
障子の向こうにぼんやりと影があった。こんな夜更けに、この人が寝室に来るのは初めてのことだ。わたしはというと、寝間着で、髪もとかして、そのまま眠るつもりで布団に入っているから少し戸惑う。本だってまだ読みかけだ。千之助が乳離れしてようやく読めるようになったのに。
とはいえここで旦那様を迎え入れないのもおかしい。
「……どうぞ」
ひと声かけると障子が開き、大きな影が音もなく部屋に入り込む。静かに障子が閉められて、ぼんやりと、振り向いた彫りの深い横顔が灯りに照らされた。
……あまりに似ている。
どちらがどちらか、分からなくなりそうなほど。
「……まつさんから、たまには夫婦水入らずで、と言われまして」
布団の前できちんと正座をして、視線が落ちる。
それは旦那様らしからぬ口調と振る舞いで、わたしはホッと息を吐く。いつの間にか息が止まっていた。
「ああ、そう……」
まつとの今朝のやりとりが思い出される。
『あとは旦那様も、お妾だけなんとかしていただければねえ』
のらりくらりとあしらったのがかえって裏目に出てしまったのか。おせっかいなことを────頭ではそううそぶいてみせても、今朝方しつこくねぶられた手が、その記憶が、いやおうなしに肌をちりちり焦がしてゆく。
わたしは軽い夏用のかけ布団を大きく開いた。
「……いいわ、どうぞ」
旦那様が布団へ入ってくる。
わたしは座りなおし、寝間着の帯に手をかける。
いつも自分で難なくほどいているのに、今夜はどうしてか、結び目が固い。
「ほど、け、ないわ」
「僕が」
「いつもは……いつもはこんなことないの、ほんとよ……」
「ええ、分かっています」
固かった結び目が旦那様の手でするすると容易くほどけて、合わせ目がとろりと開く。全部脱いでしまおうと襟をつかみかけて、ようやく、結び目が全然ほどけなかった理由がわかった。
指先が震えている。
こんなの、力が入るはずもない。
「お嬢さん、今日はもう休みましょう」
襟をつかんだわたしの手を旦那様が止める。
顔を上げる。旦那様の表情も、口ぶりも、いつもと変わらず平然としていてわたしはなぜだか泣きたくなる。
「無理を言いました。お嬢さんがここまでどんな思いを抱えてきたかは分かっていたはずなのに……いやなことを、させてしまった」
「ちが、ちがうわ、まって」
「大丈夫、まつさんには上手く言っておきます。僕もほかの部屋で休みますからどうか……お顔がまっしろだ……」
ほかの部屋、とは一体どこだろう。
シヅかアキエか……ヨシコのところか。
そう思うと一瞬たりとも我慢できなかった。なにか言うよりも先に片手が振り上がり、強い音を立ててその人の頬を引っぱたく。手のひらがじんと痛い。
「ヨシコのところへ、いくの?」
「っお嬢さん、なにを」
「あの女、あのおんなっ……知っていて? おまえのことがすきなのよ。今日だって、ずいぶん自慢げにおまえのことをほかの妾に話して……ふふっ……ヨシコはねえ、びっこ片目で不出来なわたしのかわりに、この屋敷の奥方様になってくれるんですって」
「……は?」
じんじんと痛む手でその人の襟を引っつかむ。
思い出すのはやはり七年前の夜の庭の池だった。あの血なまぐさい池のほとりで、わたしはいまだに動けないでいる。
「でも許さないわ、ええ、絶対に許さない。だっておまえはわたしのものだもの。おまえは、わたしの旦那様になったんでしょう……!?」
襟をつかんでいた手に手が重なる。
そっと手を離され、かと思えば両手ともを包まれつよく握られる。わたしは彼を見た。彼も、私を見た。
夜の池は彼の瞳のなかにあった。
「……『いたましい事だ』」
わたしの喉がヒュッと鳴る。
潰れた目に触れられて腕が、ぐ、と縮こまろうとする。実際には両手ともを握られているからわずかに震えただけだったが、それで、男は確信を得たように鼻で笑った。
「確かそう言ったんでしたね、あれは」
わたしを掴んでいた大きな手が、蛇のようにスルスルと腕をつたい、両の乳房をすっぽり包んだ。大きさも形さえも寸分変わらないというのに、触れられたところが敏感になって、焼け付くようにひりひり熱い。
「それから『心臓がうさぎみたいに跳ねている』と……本当だ。本当にうさぎみたいに跳ねるんですね、あなたの心臓は」
「あ……っおぼえて……」
「覚えていますよなにもかも。忘れるもんか。この天井で、あなたが抱かれるのをずっと見ていた……あなただって分かっていたはずだ。だから、あのメモとも言えぬ書きつけを飲み込んだ」
「あっ!」
胸にあった手がうしろへ回り、きつく抱きしめられたまま押し倒される。天井。もう見飽きた。そうだ、いつだってわたしは『ウエ』を、届かない天井を見て過ごしてきた。でも今は違う。
「お嬢さん、あなたは僕におっしゃいましたね。許さないと。僕はお嬢さんのものになったんだろうと……僕の答えを言わせてください」
手を伸ばせば、すぐ届く。
声が聞こえる。
こらえきれなくなってくちづけをする。とろけるように熱い。こらえきれなかったのがどちらなのか考えずとも、どちらともなのだと思える。それがなによりの答えだったが、男は長いくちづけのあと、わたしの耳朶に唇をぴったりとそえて、荒んだ吐息ごと答えを吹き込んだ。
「ええ、そうです……あなたの夫になるために、僕はここまで戻ってきたんだ」
旦那様は、旦那様であらねばならない。
どこでどう覚えたのか、あの人はそれを完璧にこなしてみせた。戻ってきてから誰ひとり、旦那様を疑う様子もない。夜をともにする妾たちですら、旦那様が言葉少なになったことには気づいても、人そのものがすげ替えられたとは露ほども思っていない。
旦那様は完璧だ。
口調も、仕草も仕事も、そしておそらく夜も──
「胡蝶」
草木も眠る、すずしい夜。
障子の向こうにぼんやりと影があった。こんな夜更けに、この人が寝室に来るのは初めてのことだ。わたしはというと、寝間着で、髪もとかして、そのまま眠るつもりで布団に入っているから少し戸惑う。本だってまだ読みかけだ。千之助が乳離れしてようやく読めるようになったのに。
とはいえここで旦那様を迎え入れないのもおかしい。
「……どうぞ」
ひと声かけると障子が開き、大きな影が音もなく部屋に入り込む。静かに障子が閉められて、ぼんやりと、振り向いた彫りの深い横顔が灯りに照らされた。
……あまりに似ている。
どちらがどちらか、分からなくなりそうなほど。
「……まつさんから、たまには夫婦水入らずで、と言われまして」
布団の前できちんと正座をして、視線が落ちる。
それは旦那様らしからぬ口調と振る舞いで、わたしはホッと息を吐く。いつの間にか息が止まっていた。
「ああ、そう……」
まつとの今朝のやりとりが思い出される。
『あとは旦那様も、お妾だけなんとかしていただければねえ』
のらりくらりとあしらったのがかえって裏目に出てしまったのか。おせっかいなことを────頭ではそううそぶいてみせても、今朝方しつこくねぶられた手が、その記憶が、いやおうなしに肌をちりちり焦がしてゆく。
わたしは軽い夏用のかけ布団を大きく開いた。
「……いいわ、どうぞ」
旦那様が布団へ入ってくる。
わたしは座りなおし、寝間着の帯に手をかける。
いつも自分で難なくほどいているのに、今夜はどうしてか、結び目が固い。
「ほど、け、ないわ」
「僕が」
「いつもは……いつもはこんなことないの、ほんとよ……」
「ええ、分かっています」
固かった結び目が旦那様の手でするすると容易くほどけて、合わせ目がとろりと開く。全部脱いでしまおうと襟をつかみかけて、ようやく、結び目が全然ほどけなかった理由がわかった。
指先が震えている。
こんなの、力が入るはずもない。
「お嬢さん、今日はもう休みましょう」
襟をつかんだわたしの手を旦那様が止める。
顔を上げる。旦那様の表情も、口ぶりも、いつもと変わらず平然としていてわたしはなぜだか泣きたくなる。
「無理を言いました。お嬢さんがここまでどんな思いを抱えてきたかは分かっていたはずなのに……いやなことを、させてしまった」
「ちが、ちがうわ、まって」
「大丈夫、まつさんには上手く言っておきます。僕もほかの部屋で休みますからどうか……お顔がまっしろだ……」
ほかの部屋、とは一体どこだろう。
シヅかアキエか……ヨシコのところか。
そう思うと一瞬たりとも我慢できなかった。なにか言うよりも先に片手が振り上がり、強い音を立ててその人の頬を引っぱたく。手のひらがじんと痛い。
「ヨシコのところへ、いくの?」
「っお嬢さん、なにを」
「あの女、あのおんなっ……知っていて? おまえのことがすきなのよ。今日だって、ずいぶん自慢げにおまえのことをほかの妾に話して……ふふっ……ヨシコはねえ、びっこ片目で不出来なわたしのかわりに、この屋敷の奥方様になってくれるんですって」
「……は?」
じんじんと痛む手でその人の襟を引っつかむ。
思い出すのはやはり七年前の夜の庭の池だった。あの血なまぐさい池のほとりで、わたしはいまだに動けないでいる。
「でも許さないわ、ええ、絶対に許さない。だっておまえはわたしのものだもの。おまえは、わたしの旦那様になったんでしょう……!?」
襟をつかんでいた手に手が重なる。
そっと手を離され、かと思えば両手ともを包まれつよく握られる。わたしは彼を見た。彼も、私を見た。
夜の池は彼の瞳のなかにあった。
「……『いたましい事だ』」
わたしの喉がヒュッと鳴る。
潰れた目に触れられて腕が、ぐ、と縮こまろうとする。実際には両手ともを握られているからわずかに震えただけだったが、それで、男は確信を得たように鼻で笑った。
「確かそう言ったんでしたね、あれは」
わたしを掴んでいた大きな手が、蛇のようにスルスルと腕をつたい、両の乳房をすっぽり包んだ。大きさも形さえも寸分変わらないというのに、触れられたところが敏感になって、焼け付くようにひりひり熱い。
「それから『心臓がうさぎみたいに跳ねている』と……本当だ。本当にうさぎみたいに跳ねるんですね、あなたの心臓は」
「あ……っおぼえて……」
「覚えていますよなにもかも。忘れるもんか。この天井で、あなたが抱かれるのをずっと見ていた……あなただって分かっていたはずだ。だから、あのメモとも言えぬ書きつけを飲み込んだ」
「あっ!」
胸にあった手がうしろへ回り、きつく抱きしめられたまま押し倒される。天井。もう見飽きた。そうだ、いつだってわたしは『ウエ』を、届かない天井を見て過ごしてきた。でも今は違う。
「お嬢さん、あなたは僕におっしゃいましたね。許さないと。僕はお嬢さんのものになったんだろうと……僕の答えを言わせてください」
手を伸ばせば、すぐ届く。
声が聞こえる。
こらえきれなくなってくちづけをする。とろけるように熱い。こらえきれなかったのがどちらなのか考えずとも、どちらともなのだと思える。それがなによりの答えだったが、男は長いくちづけのあと、わたしの耳朶に唇をぴったりとそえて、荒んだ吐息ごと答えを吹き込んだ。
「ええ、そうです……あなたの夫になるために、僕はここまで戻ってきたんだ」
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
彼女が望むなら
mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。
リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる