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19.トライアングル・スクランブル(1)
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翌朝早くに、母親が家の様子を見に帰ってきた。
「悠一? 起きとらんの?」
階下で呼ぶ声は聞こえていた。目は覚めていた。
だが――
起き上がれない、どうしても。
トントントンと軽い足音が、階段を上ってくる。
「悠一? あんたどうしただね」
戸を開けて、母親が入ってきた。
昨夜、止められない射精と自慰の後。
ベッドに潜り込んで泥のように眠りに落ちる前に、洗濯だけはかろうじて済ませていた。
そんな自分のギリギリの自制心に、いま、悠一は本心から感謝を捧げる。
ベッドに近づいて、母がかがみ込んだ。
「あんた、ご飯も食べとらんだた? 具合でもわりぃね」
甘やかすように、ひどく優しい声だった。
久しぶりに聞くそんな母の口調に、悠一は思わず涙ぐみそうになる。
熱はある?
お粥さんでも煮たげようかね?
そう言って、そっと上掛けを撫でられた。
嗚咽になりそうな息をグッと飲み下し、悠一は、
「平気、大丈夫」と、硬い声で応じる。
頭までひっかぶった毛布のせいで見えなかったが、母親の戸惑うようなまばたきの様子を、悠一はありありと感じ取っていた。
「学校、どうするね」
言いながら、母親が立ち上がる気配。
――学校?
行きたくない。
行きたいワケがない。
一体俺は、どんな顔して小鳥遊を見れば?
*
けれども悠一は、登校した。
ズルズルと、遅刻間際までグズついた末に。
母に心配をかけたくなかった。
何より、自分のことを詮索されたくなかった。
奏とはクラスが違っていた。
だから少しだけ、気が紛れるような救われるような、そんな思いに縋りつくようにして登校したのだ。
だが、悠一はその日、一向に奏の姿を見ることはなかった。
チラリとも、後ろ姿すら。
そう大きな学校でもない。おまけに同学年だ。
その存在を意識していながら、「姿を見逃す」なんて有り得ない。
激しい快楽を得た後の、気だるい身体。
眠気と必死に戦う授業中すら、奏の不在が気にかかった。
あまりにも気になって、どうしようもなくて。
悠一はついに、一組の陸上部の部員に、廊下で声を掛けた。
「円満退部」の悠一だ。
別に、元の部活の部員に話し掛けること自体は、何のためらいもなくできる。
その、一組のハードルを跳ぶ生徒は、悠一に声を掛けられると同時に、
「お? 春日、どした?」と、ごく明るく振り向いてくれた。
悠一は、すこし言葉に迷ったものの、奏が今日、登校しているのかどうか、端的に訊ねる。
「あ? えっと、小鳥遊?」
少し考えこんで、一組のハードル選手は、「たしか……今日、休み」と口にした。
「休み?」
悠一が、オウム返しにする。
するとハードル走者は、確かめるようにして、隣の詰襟の肩をトントンと叩く。
「なあ、小鳥遊って。今日『休み』だよな」
「そう、なんか『熱出た』とかなんとか」
だってさ? と言い添えて、ハードルの男子が悠一を見た。そして、
「最近ちょっと寒いし。風邪、流行りそうだよな」と言いながら、教室移動のため去っていく。
「サンキュ」
そう口にし、悠一は、その場にボンヤリと佇んだ。すると、
「おい、邪魔」と低い声が、少し上の方から降ってくる。
振り返れば、そこにいたのは藤堂尊だった。
「あ、悪い」
すぐに身体を斜めにして「道を譲ろう」とする悠一へと、尊が腕を伸ばす。
まるで引き留めるかのように。
はからずも、悠一は、藤堂に斜めから肩を抱かれるような形になった。
「え、なに……藤堂?」
戸惑う悠一を一顧だにせず、尊は軽く眉根を寄せ、スンと悠一の匂いを嗅ぐ。
「ちょ、オイ! なんなんだよ、オマエ」
悠一が、少し声を荒らげた。
「『甘い』…な」
目を眇め、尊がボソリと言う。
悠一の鼓動が、ドクンと大きく脈打った。
知らず、頬が熱くなる。
「『移り香』? にしても、かすか過ぎるけど」
思案気に呟いてから、ふと何かに思い当たったかのように片眉を上げ、藤堂が続けた。
「春日、ひょっとして、お前……ああ? なんだかんだ言っておきながら、お前こそ、結構『遊んで』いやが――」
「あれ、タケちゃん?」と、気安い声が割り入る。
藤堂の背後に、比呂が立っていた。
「タケル。なあ、なにやってんの?」
「藤堂、離せよ」
言って尊を押しのけると、悠一は速足で、その場から歩き去る。
その詰襟の黒い背中に視線を向けたままの尊に、比呂が、
「なに、あいつ誰?」と。
軽い口調では、とても隠し切れないほどの軽蔑をまとう声で訊ねた。
「……『アイツ』?」
スラックスのポケットに両手をスッと入れ、尊が涼しく言い返す。
「アイツは『春日悠一』だ」
翌朝早くに、母親が家の様子を見に帰ってきた。
「悠一? 起きとらんの?」
階下で呼ぶ声は聞こえていた。目は覚めていた。
だが――
起き上がれない、どうしても。
トントントンと軽い足音が、階段を上ってくる。
「悠一? あんたどうしただね」
戸を開けて、母親が入ってきた。
昨夜、止められない射精と自慰の後。
ベッドに潜り込んで泥のように眠りに落ちる前に、洗濯だけはかろうじて済ませていた。
そんな自分のギリギリの自制心に、いま、悠一は本心から感謝を捧げる。
ベッドに近づいて、母がかがみ込んだ。
「あんた、ご飯も食べとらんだた? 具合でもわりぃね」
甘やかすように、ひどく優しい声だった。
久しぶりに聞くそんな母の口調に、悠一は思わず涙ぐみそうになる。
熱はある?
お粥さんでも煮たげようかね?
そう言って、そっと上掛けを撫でられた。
嗚咽になりそうな息をグッと飲み下し、悠一は、
「平気、大丈夫」と、硬い声で応じる。
頭までひっかぶった毛布のせいで見えなかったが、母親の戸惑うようなまばたきの様子を、悠一はありありと感じ取っていた。
「学校、どうするね」
言いながら、母親が立ち上がる気配。
――学校?
行きたくない。
行きたいワケがない。
一体俺は、どんな顔して小鳥遊を見れば?
*
けれども悠一は、登校した。
ズルズルと、遅刻間際までグズついた末に。
母に心配をかけたくなかった。
何より、自分のことを詮索されたくなかった。
奏とはクラスが違っていた。
だから少しだけ、気が紛れるような救われるような、そんな思いに縋りつくようにして登校したのだ。
だが、悠一はその日、一向に奏の姿を見ることはなかった。
チラリとも、後ろ姿すら。
そう大きな学校でもない。おまけに同学年だ。
その存在を意識していながら、「姿を見逃す」なんて有り得ない。
激しい快楽を得た後の、気だるい身体。
眠気と必死に戦う授業中すら、奏の不在が気にかかった。
あまりにも気になって、どうしようもなくて。
悠一はついに、一組の陸上部の部員に、廊下で声を掛けた。
「円満退部」の悠一だ。
別に、元の部活の部員に話し掛けること自体は、何のためらいもなくできる。
その、一組のハードルを跳ぶ生徒は、悠一に声を掛けられると同時に、
「お? 春日、どした?」と、ごく明るく振り向いてくれた。
悠一は、すこし言葉に迷ったものの、奏が今日、登校しているのかどうか、端的に訊ねる。
「あ? えっと、小鳥遊?」
少し考えこんで、一組のハードル選手は、「たしか……今日、休み」と口にした。
「休み?」
悠一が、オウム返しにする。
するとハードル走者は、確かめるようにして、隣の詰襟の肩をトントンと叩く。
「なあ、小鳥遊って。今日『休み』だよな」
「そう、なんか『熱出た』とかなんとか」
だってさ? と言い添えて、ハードルの男子が悠一を見た。そして、
「最近ちょっと寒いし。風邪、流行りそうだよな」と言いながら、教室移動のため去っていく。
「サンキュ」
そう口にし、悠一は、その場にボンヤリと佇んだ。すると、
「おい、邪魔」と低い声が、少し上の方から降ってくる。
振り返れば、そこにいたのは藤堂尊だった。
「あ、悪い」
すぐに身体を斜めにして「道を譲ろう」とする悠一へと、尊が腕を伸ばす。
まるで引き留めるかのように。
はからずも、悠一は、藤堂に斜めから肩を抱かれるような形になった。
「え、なに……藤堂?」
戸惑う悠一を一顧だにせず、尊は軽く眉根を寄せ、スンと悠一の匂いを嗅ぐ。
「ちょ、オイ! なんなんだよ、オマエ」
悠一が、少し声を荒らげた。
「『甘い』…な」
目を眇め、尊がボソリと言う。
悠一の鼓動が、ドクンと大きく脈打った。
知らず、頬が熱くなる。
「『移り香』? にしても、かすか過ぎるけど」
思案気に呟いてから、ふと何かに思い当たったかのように片眉を上げ、藤堂が続けた。
「春日、ひょっとして、お前……ああ? なんだかんだ言っておきながら、お前こそ、結構『遊んで』いやが――」
「あれ、タケちゃん?」と、気安い声が割り入る。
藤堂の背後に、比呂が立っていた。
「タケル。なあ、なにやってんの?」
「藤堂、離せよ」
言って尊を押しのけると、悠一は速足で、その場から歩き去る。
その詰襟の黒い背中に視線を向けたままの尊に、比呂が、
「なに、あいつ誰?」と。
軽い口調では、とても隠し切れないほどの軽蔑をまとう声で訊ねた。
「……『アイツ』?」
スラックスのポケットに両手をスッと入れ、尊が涼しく言い返す。
「アイツは『春日悠一』だ」
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