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第十一章
第二話
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「鬼平は……学校に友だちはいるのか?」
次の日、職員室で源からそう聞かれた時、鬼平は何も答えなかった。答えられなかった、という方が正しいかもしれない。突然言名前で呼ばれたことにも動揺していた。頷くことはしなかった。
「そうか、まあ、聞くべきじゃないか……」
鬼平は、突然源がしおらしくなって、戸惑っていた。気を遣われているのが余計気まずい。こんな時に、「いるに決まってるじゃないですか、もう高三ですよ? 一年じゃないんです」と、軽口をたたいて笑い飛ばせるような人が大多数なのを、鬼平は知っている。それが自分ではないことも、嫌というほど知っていた。
「よし。まあ今日はちょっと手伝いだな」
源は椅子から立ち上がった。鬼平は先生の後ろをついて行く。慣れたものだった。その日はプリントや備品を運んだりして、掃除をすることはなかった。さらに、いつもより早く解放された。もうやることがないのかもしれない、と鬼平は帰り際思った。
そしてこの予想は当たっていた。次の日、再び職員室で源と目が合うと(一日しかたっていないのに)、先生はまるで可愛がっている親戚の子に、久しぶりに会ったおじさんのような笑顔で言った。
「おつかれさん。今日はね。ええっと、そうだな、まだ私はやることがあるから、それまでそこに座ってていいよ」
先生は職員室のどこかから古臭いスツールを持ってきて、鬼平の前に置いた。鬼平は素直に座り、源が仕事をするのをしばらく見ていた。
机には授業に使うプリントが高く積みあがっていて、その横には知らない生徒の名前が書かれた名簿のようなものがある。見ていても何が何だかわからず、別に面白くもない。だが、こうやって仕事をしている源を見ていると、鬼平には、なんだか源が「先生」という感じがまるでしなかった。ただのサラリーマン……まあ変わらないのかもしれないけど、そうとしか思えなかった。
それに、そういうものなのかもしれないが、仕事をしている源に話しかける人は誰もいなかった。だからと言って源が孤立している、とまでは考えなかったが、他の先生たちも特別仲が良さそうにも見えないような……むしろどこか余所余所しさを感じた。
考えすぎかもしれないが、まるでここにいる全員が全員を、お互いが監視しているような、そんなことまで考えた。
もしかしたら、源はこういう薄い無関心が膜のように張っている空間で息が詰まっていたのかもしれない、と鬼平は考えた。だからこそ、わざわざ時間をつくって、掃除なんていう、大義名分を利用したのだろうか……。
「よし。大体終わったな」
源はペンを置くと、椅子を回して鬼平に向き合った。鬼平はすぐに椅子から立とうとした。
「ああ。いいよいいよ。今日はね、もうやることはないんだよ」
笑いながら源が言った。鬼平が苦笑していると、源は続けて言った。
「一週間と言ったのは、もしかしたら君が来なかったり言うことを聞かなかったりするんじゃないか、と思ったからでな。でも、君は毎日こうして来て、私の言うことをよく聞いてくれた」
鬼平は微笑みながら自分に喋りかける源の顔を見ていた。それは鬼平を捕まえた時の顔からは想像もできなかった。先生の顔から波が引くように微笑みが消えて、また穏やかな表情になる。
「鬼平くん。間違っていたら言ってほしいんだけど、君は、あまり喋ることが得意じゃないようだな。この三日間、君が喋っているのを聞いたことは一度もなかった。それは反抗心から来ているから、というわけでもなさそうだ。今日も、こうしてここに来たし。鬼平くん、君は喋りたくても、上手く喋れないのか? なにか事情があるのか? それはどうしてか、私に言えるか?」
鬼平は、そこでゆっくり頷いた。そのまま首を傾げた先生を見ているうちに、それでは答えになっていないことに気付いて、“理由”を言おうと思ったが、やはり言葉にはならなかった。
代わりに彼は、必死に頭を回転させて考えていた。
――もし、それを言えばどうなるだろう? 先生は受け入れてくれるだろうか? そうしてくれるような気もした。
だが、期待外れのこと、そう、源先生が自分を否定するような、あのうんざりするほど聞かされてきたこと――「もっとはきはき喋れないのか」と言い、いざ話してみれば、「声が小さい」だの「どうしてそんな話し方をするんだ」――を言うのではないかと、不安になった。それで結局、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、何も言えなかった。
だが源は、鬼平の事情を理解はしなかったが、少なくとも、彼が恐れていたような言葉は言わなかった。源はジッと、鬼平の言葉を期待して待っていた。もちろん、それでも鬼平は何も言うことができないのだが。
「……そうか。まあ、言いたくないなら、しょうがないな。だがまあ、なんだ、散々君を利用しておいてなんだが……いや、これは罰だったな。とにかくだ、今からでももっと主張する癖をつけておいた方がいい。そうしなければ、他人にいいように利用されるぞ。せっかく君はいいものを持っているのに、それではもったいない」
鬼平は落胆していた。結局この人も同じだと思った。この人も自分が言いたいことだけを好き放題言ってから、満足して去っていくのだろうと思った。
――でも、もしかしたら、もし、源が自分の担任に一回でもなっていれば、高校生活は違っていたのかもしれない、と鬼平は思った。だからこそ、彼の落胆は大きく、そんなことを想像させてしまう源のことを、少し憎んだ。
「あっ、そうだ」
突然、源は思い出したようにポケットをまさぐった。先生は周りを見渡しながら何かを取り出すと、鬼平に握らせる。
「他の先生には、内緒だぞ。ほら、さっさとしまいなさい」
鬼平は手を開いた。折られた千円札が一枚、その肖像画が鬼平を見ていた。
次の日、職員室で源からそう聞かれた時、鬼平は何も答えなかった。答えられなかった、という方が正しいかもしれない。突然言名前で呼ばれたことにも動揺していた。頷くことはしなかった。
「そうか、まあ、聞くべきじゃないか……」
鬼平は、突然源がしおらしくなって、戸惑っていた。気を遣われているのが余計気まずい。こんな時に、「いるに決まってるじゃないですか、もう高三ですよ? 一年じゃないんです」と、軽口をたたいて笑い飛ばせるような人が大多数なのを、鬼平は知っている。それが自分ではないことも、嫌というほど知っていた。
「よし。まあ今日はちょっと手伝いだな」
源は椅子から立ち上がった。鬼平は先生の後ろをついて行く。慣れたものだった。その日はプリントや備品を運んだりして、掃除をすることはなかった。さらに、いつもより早く解放された。もうやることがないのかもしれない、と鬼平は帰り際思った。
そしてこの予想は当たっていた。次の日、再び職員室で源と目が合うと(一日しかたっていないのに)、先生はまるで可愛がっている親戚の子に、久しぶりに会ったおじさんのような笑顔で言った。
「おつかれさん。今日はね。ええっと、そうだな、まだ私はやることがあるから、それまでそこに座ってていいよ」
先生は職員室のどこかから古臭いスツールを持ってきて、鬼平の前に置いた。鬼平は素直に座り、源が仕事をするのをしばらく見ていた。
机には授業に使うプリントが高く積みあがっていて、その横には知らない生徒の名前が書かれた名簿のようなものがある。見ていても何が何だかわからず、別に面白くもない。だが、こうやって仕事をしている源を見ていると、鬼平には、なんだか源が「先生」という感じがまるでしなかった。ただのサラリーマン……まあ変わらないのかもしれないけど、そうとしか思えなかった。
それに、そういうものなのかもしれないが、仕事をしている源に話しかける人は誰もいなかった。だからと言って源が孤立している、とまでは考えなかったが、他の先生たちも特別仲が良さそうにも見えないような……むしろどこか余所余所しさを感じた。
考えすぎかもしれないが、まるでここにいる全員が全員を、お互いが監視しているような、そんなことまで考えた。
もしかしたら、源はこういう薄い無関心が膜のように張っている空間で息が詰まっていたのかもしれない、と鬼平は考えた。だからこそ、わざわざ時間をつくって、掃除なんていう、大義名分を利用したのだろうか……。
「よし。大体終わったな」
源はペンを置くと、椅子を回して鬼平に向き合った。鬼平はすぐに椅子から立とうとした。
「ああ。いいよいいよ。今日はね、もうやることはないんだよ」
笑いながら源が言った。鬼平が苦笑していると、源は続けて言った。
「一週間と言ったのは、もしかしたら君が来なかったり言うことを聞かなかったりするんじゃないか、と思ったからでな。でも、君は毎日こうして来て、私の言うことをよく聞いてくれた」
鬼平は微笑みながら自分に喋りかける源の顔を見ていた。それは鬼平を捕まえた時の顔からは想像もできなかった。先生の顔から波が引くように微笑みが消えて、また穏やかな表情になる。
「鬼平くん。間違っていたら言ってほしいんだけど、君は、あまり喋ることが得意じゃないようだな。この三日間、君が喋っているのを聞いたことは一度もなかった。それは反抗心から来ているから、というわけでもなさそうだ。今日も、こうしてここに来たし。鬼平くん、君は喋りたくても、上手く喋れないのか? なにか事情があるのか? それはどうしてか、私に言えるか?」
鬼平は、そこでゆっくり頷いた。そのまま首を傾げた先生を見ているうちに、それでは答えになっていないことに気付いて、“理由”を言おうと思ったが、やはり言葉にはならなかった。
代わりに彼は、必死に頭を回転させて考えていた。
――もし、それを言えばどうなるだろう? 先生は受け入れてくれるだろうか? そうしてくれるような気もした。
だが、期待外れのこと、そう、源先生が自分を否定するような、あのうんざりするほど聞かされてきたこと――「もっとはきはき喋れないのか」と言い、いざ話してみれば、「声が小さい」だの「どうしてそんな話し方をするんだ」――を言うのではないかと、不安になった。それで結局、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、何も言えなかった。
だが源は、鬼平の事情を理解はしなかったが、少なくとも、彼が恐れていたような言葉は言わなかった。源はジッと、鬼平の言葉を期待して待っていた。もちろん、それでも鬼平は何も言うことができないのだが。
「……そうか。まあ、言いたくないなら、しょうがないな。だがまあ、なんだ、散々君を利用しておいてなんだが……いや、これは罰だったな。とにかくだ、今からでももっと主張する癖をつけておいた方がいい。そうしなければ、他人にいいように利用されるぞ。せっかく君はいいものを持っているのに、それではもったいない」
鬼平は落胆していた。結局この人も同じだと思った。この人も自分が言いたいことだけを好き放題言ってから、満足して去っていくのだろうと思った。
――でも、もしかしたら、もし、源が自分の担任に一回でもなっていれば、高校生活は違っていたのかもしれない、と鬼平は思った。だからこそ、彼の落胆は大きく、そんなことを想像させてしまう源のことを、少し憎んだ。
「あっ、そうだ」
突然、源は思い出したようにポケットをまさぐった。先生は周りを見渡しながら何かを取り出すと、鬼平に握らせる。
「他の先生には、内緒だぞ。ほら、さっさとしまいなさい」
鬼平は手を開いた。折られた千円札が一枚、その肖像画が鬼平を見ていた。
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