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第5話 ぬくもりの期限
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薄曇りの午後――魔王の森には柔らかな陽光が差していた。
セシリアは拠点の外に出て、深く息を吸う。
湿った土と草の匂いが鼻をかすめ、遠くで鳥のさえずりが響く。
胸の奥で、なにかが引っかかった。
思い出す。
革袋の中の、砕けた菓子。
息が、最後まで吸いきれなかった。
そのとき、足元に淡い影が落ちた。
「……あら」
ふわふわの白い毛並み。
山のような巨体。
――フェンリル、ヤマト。
その巨体に似合わず、丸い瞳は子犬のように澄んでいる。
今こうして見ると……ただの大きな犬にしか見えない。
「……昨日はごめんなさい。驚かせちゃったわよね」
そっと手を伸ばすと、ヤマトは鼻先を押しつけてきた。
くぅん、と控えめに喉を鳴らす。
まるで彼女の不安をそっと吸い取るような仕草。
体温が手のひらを包む。
――あたたかい。
それだけで、涙が出そうになるのをこらえた。
「ふふ……かわいい子。私ったら、怖がる必要なかったんだわ」
ふりふり――と巨大な尻尾が揺れ、軽く風を起こした。
「……まだ昼だぞ……」
背後からぼそりとした声。
振り返ると、角の生えた黒鉄の兜を被ったリオルが立っていた。
素顔は影に隠れ、兜の一つ目だけが妙に主張している。
寝起きで目がしょぼしょぼしているのか、日差しに弱いのかは分からないが、とにかく眠そうだ。
「くぅん?」
「今日はすっかり懐いてる……」
ほとんど寝言みたいな文句だった。
「ふふ。優しい子だって分かったのよ」
「……キノコしか食べないしな……」
リオルの体がぐらりと揺れて、また軽く船を漕ぐ。
ヤマトは誇らしげに胸を張り、セシリアへ鼻を寄せた。
その平和な仕草に、思わず笑みがこぼれる。
胸の奥まで温かくなるような、柔らかな時間が流れた。
ほんの少し、このひとときが愛しく思えた。
◇◇◇
ここにきて丸三日。
秘密基地とは思えないほど整ったこの場所――簡素ながら清潔で心地よい客間、柔らかな寝具に、湯気の立つ浴室。
忠実なアシスタントゴーレム8号は、香り高い紅茶まで用意してくれる。
無愛想に見えるリオルも、意外に世話好きだった。
ときには夕食に自作のカレーまで振る舞ってくれる。匂いがふわりと立つ夕餉を囲む。
鍋を開けた瞬間に漂うスパイスの香り。
森のキノコと野菜を丁寧に煮込んだ旨味。
とろりとした黄金色のルゥを口に運べば、深い甘みとほどよい刺激が喉を通り抜ける――そんな、心まで温かくなる味だった。
危険な森とは思えないほど安心が満ちていた。
傷も、心も、ゆっくり癒えていく。
けれど――いつまでも甘えてはいられない。
革袋は、今も枕元にある。
それが、答えを急がせていた。
帰らなくてはならない理由が、確かにあった。
「……リオル。私、戻らなければならないの」
夜になり、完全に目が冴えたリオルの瞳が、ゆっくりと細められた。
「……殺されにいくようなもの」
「分かってる。分かってるわ。でも……護衛たちの名誉を守りたいの。
私が行方不明のままでは、彼らは“謀叛の疑い”をかけられるかもしれない。家族まで処罰されることだって」
言葉が震えても、説得の意志だけは揺らがない。
「それに――お祖父様だって、きっと無茶をする。私を探すためなら、商会の全てを動かすことさえ厭わないはずよ。
宰相が次の手を打つ前に、私が帰らないといけないの」
胸が痛んだ。
言葉を搾り出すたび、涙がこぼれそうになる。
リオルはしばらく黙って、炉の炎を見つめた。
「……そうか」
短い言葉。
だがその声音には、彼女の覚悟を尊重する強さがあった。
「なら、止めはしない」
「ありがとう……あなたの世話になってばかりで」
「気にするな。明日の夜なら、森の外まで送ってやれる」
その言葉に、胸がじんと温かくなった。
◇◇◇
翌日、帝都では――
皇女失踪の噂は、火のように街へ広がっていた。
「第三皇女が行方不明らしい!」
「馬車ごと消えたらしいぞ」
「お綺麗な方だったのに……」
昼下がりの市場は、不穏な囁きでざわめいていた。
噂から少し離れた商館の奥。
老商人バルド・ドゥルセは、帝国印の書簡を震える手で握りしめていた。
「……セシリア……」
隣の妻が涙ぐみ、夫の腕にすがる。
「あなたまで動いたら……宰相派の耳に入ります。どうか、今は……」
「分かっておる。だが――孫を捨てることなどできん」
老いを越えた執念が、彼の瞳に宿った。
◇◇◇
同じころ――帝都の奥深く、黒幕の部屋。
焦げた油のような重い空気が漂っていた。
「なぜだ! なぜ連絡が来ない!」
老宰相メルヴィクの怒号が響き、部下たちが震え上がる。
「“野盗に襲われた”――そう見せかけるよう、手はずは整えてあったはずだ。第三皇女は逃げ場もなく、護衛も薄い。仕留め損ねるはずがない」
「そ、それが……!」
報告官は脂汗を流しながら、震える声で続けた。
「街道で、護衛兵と侍女の遺体は多数確認されました。しかし……皇女本人と、側近三名が行方不明でして。
追撃に向かった傭兵団も、全員……森の手前で消息を絶っております」
「森……?」
メルヴィクは地図へ視線を落とした。
赤文字で記される、《魔王の森》。
「……まさか、あそこに逃げ込んだのか……?」
血の気の引いた呟き。
「ローレイド家に通達だ。
“皇女捜索の名目で、魔王の森周辺に封鎖線を敷け”とな」
「封鎖……でございますか?」
「よいからやれ。
森から出るすべてを洗い出せ。人も物資も――影ひとつ通すな」
セシリアは拠点の外に出て、深く息を吸う。
湿った土と草の匂いが鼻をかすめ、遠くで鳥のさえずりが響く。
胸の奥で、なにかが引っかかった。
思い出す。
革袋の中の、砕けた菓子。
息が、最後まで吸いきれなかった。
そのとき、足元に淡い影が落ちた。
「……あら」
ふわふわの白い毛並み。
山のような巨体。
――フェンリル、ヤマト。
その巨体に似合わず、丸い瞳は子犬のように澄んでいる。
今こうして見ると……ただの大きな犬にしか見えない。
「……昨日はごめんなさい。驚かせちゃったわよね」
そっと手を伸ばすと、ヤマトは鼻先を押しつけてきた。
くぅん、と控えめに喉を鳴らす。
まるで彼女の不安をそっと吸い取るような仕草。
体温が手のひらを包む。
――あたたかい。
それだけで、涙が出そうになるのをこらえた。
「ふふ……かわいい子。私ったら、怖がる必要なかったんだわ」
ふりふり――と巨大な尻尾が揺れ、軽く風を起こした。
「……まだ昼だぞ……」
背後からぼそりとした声。
振り返ると、角の生えた黒鉄の兜を被ったリオルが立っていた。
素顔は影に隠れ、兜の一つ目だけが妙に主張している。
寝起きで目がしょぼしょぼしているのか、日差しに弱いのかは分からないが、とにかく眠そうだ。
「くぅん?」
「今日はすっかり懐いてる……」
ほとんど寝言みたいな文句だった。
「ふふ。優しい子だって分かったのよ」
「……キノコしか食べないしな……」
リオルの体がぐらりと揺れて、また軽く船を漕ぐ。
ヤマトは誇らしげに胸を張り、セシリアへ鼻を寄せた。
その平和な仕草に、思わず笑みがこぼれる。
胸の奥まで温かくなるような、柔らかな時間が流れた。
ほんの少し、このひとときが愛しく思えた。
◇◇◇
ここにきて丸三日。
秘密基地とは思えないほど整ったこの場所――簡素ながら清潔で心地よい客間、柔らかな寝具に、湯気の立つ浴室。
忠実なアシスタントゴーレム8号は、香り高い紅茶まで用意してくれる。
無愛想に見えるリオルも、意外に世話好きだった。
ときには夕食に自作のカレーまで振る舞ってくれる。匂いがふわりと立つ夕餉を囲む。
鍋を開けた瞬間に漂うスパイスの香り。
森のキノコと野菜を丁寧に煮込んだ旨味。
とろりとした黄金色のルゥを口に運べば、深い甘みとほどよい刺激が喉を通り抜ける――そんな、心まで温かくなる味だった。
危険な森とは思えないほど安心が満ちていた。
傷も、心も、ゆっくり癒えていく。
けれど――いつまでも甘えてはいられない。
革袋は、今も枕元にある。
それが、答えを急がせていた。
帰らなくてはならない理由が、確かにあった。
「……リオル。私、戻らなければならないの」
夜になり、完全に目が冴えたリオルの瞳が、ゆっくりと細められた。
「……殺されにいくようなもの」
「分かってる。分かってるわ。でも……護衛たちの名誉を守りたいの。
私が行方不明のままでは、彼らは“謀叛の疑い”をかけられるかもしれない。家族まで処罰されることだって」
言葉が震えても、説得の意志だけは揺らがない。
「それに――お祖父様だって、きっと無茶をする。私を探すためなら、商会の全てを動かすことさえ厭わないはずよ。
宰相が次の手を打つ前に、私が帰らないといけないの」
胸が痛んだ。
言葉を搾り出すたび、涙がこぼれそうになる。
リオルはしばらく黙って、炉の炎を見つめた。
「……そうか」
短い言葉。
だがその声音には、彼女の覚悟を尊重する強さがあった。
「なら、止めはしない」
「ありがとう……あなたの世話になってばかりで」
「気にするな。明日の夜なら、森の外まで送ってやれる」
その言葉に、胸がじんと温かくなった。
◇◇◇
翌日、帝都では――
皇女失踪の噂は、火のように街へ広がっていた。
「第三皇女が行方不明らしい!」
「馬車ごと消えたらしいぞ」
「お綺麗な方だったのに……」
昼下がりの市場は、不穏な囁きでざわめいていた。
噂から少し離れた商館の奥。
老商人バルド・ドゥルセは、帝国印の書簡を震える手で握りしめていた。
「……セシリア……」
隣の妻が涙ぐみ、夫の腕にすがる。
「あなたまで動いたら……宰相派の耳に入ります。どうか、今は……」
「分かっておる。だが――孫を捨てることなどできん」
老いを越えた執念が、彼の瞳に宿った。
◇◇◇
同じころ――帝都の奥深く、黒幕の部屋。
焦げた油のような重い空気が漂っていた。
「なぜだ! なぜ連絡が来ない!」
老宰相メルヴィクの怒号が響き、部下たちが震え上がる。
「“野盗に襲われた”――そう見せかけるよう、手はずは整えてあったはずだ。第三皇女は逃げ場もなく、護衛も薄い。仕留め損ねるはずがない」
「そ、それが……!」
報告官は脂汗を流しながら、震える声で続けた。
「街道で、護衛兵と侍女の遺体は多数確認されました。しかし……皇女本人と、側近三名が行方不明でして。
追撃に向かった傭兵団も、全員……森の手前で消息を絶っております」
「森……?」
メルヴィクは地図へ視線を落とした。
赤文字で記される、《魔王の森》。
「……まさか、あそこに逃げ込んだのか……?」
血の気の引いた呟き。
「ローレイド家に通達だ。
“皇女捜索の名目で、魔王の森周辺に封鎖線を敷け”とな」
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