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第三話「岩魚坊主(いわなぼうず)」①
山奥の沢は静かで、岩をすり抜ける水の流れのささやきばかりだ。
木々の梢の枝葉の隙間から落ちた陽の光が、水面でチラチラと揺れている。
山の麓の村で生まれた少年の三吉は、夏場には時々この沢まで遊びに来ていた。
三吉は、沢に降りて、膝まで水に入り、両手を広げてじっと岩陰を見つめている。
いた!
黒っぽい魚影が、岩の間の水の中にとどまっている。
「今度こそ...」
そろり、そろりと近づく。
魚は動かない。
三吉は息をひそめ、両手を水に突っ込んだ。
バシャッ!
魚影は指の間をすり抜け、あっという間に離れて消えた。
「ああ...!」
勢い余って膝から水底にへたり込んだ。
沢は浅くても、腰まで冷たい水に浸かり、三吉は顔をしかめた。
「ダメだぁ...」
水底の岩に足を滑らせ転びそうになりながら岸へと歩いていると、声がした。
「獲れるか」
三吉は驚いて声のした方を向いた。
いつから居たのだろう。
岸辺の大きな石の傍に、数珠を握りもう片方の手には錫杖を持った坊様が一人立っている。
随分と大柄な坊様だ。
歳はよく分からない。老人ではないが若くも見えない。
丸い顔に大きなへの字口。
澄んだ眼差しの丸い大きな目、水の底からこちらを見ている魚の目を思わせた。
「獲れん」
三吉は水から上がりながら答えた。
坊様は沢を見た。
「さっきも逃げられとったな」
「見とったんか」
三吉は少し腹が立った。
しかし坊様は笑っているわけではない。
ただ岸辺の平たい石へ腰を下ろし、のんびり沢を眺めている。
「坊様なら獲れるんか?」
「獲ろうと思えばな」
「なら獲ってくれ」
「嫌じゃ」
「なんで?」
坊様はしばらく考えた。
「今日は魚を食いたくない」
三吉は笑った。
「なんじゃ、それ」
坊様も少し笑った。
不思議な坊様だ。
初めは気味が悪いと思ったが、こうして話してみると怖くはない。
三吉は再び沢に入り、石の下へ手を突っ込んだ。
坊様は岸から眺めている。
「そこにはおらんぞ」
「おるかもしれんじゃろ」
「おらん」
「なんでわかるんじゃ」
「さっき、向こうへと逃げた」
三吉は言われた方を見る。
少し離れた淵に魚の影が見える。
「わかっとるなら先に言ってくれよ」
「聞かれんかった」
三吉はまた笑った。
何度か魚を追い回したが、結局一匹も獲れないまま昼になった。
腹が減った。
三吉は岸に上がり、平たい大きな岩に座り、持って来た竹皮の包みを開いた。
中には小さな握り飯が三つ。
一つを手に取ると、坊様の視線が握り飯に向いた。
雑穀米の握り飯で、具は大根葉の漬物だ。
三吉は気づかないふりをして一口食べた。
坊様は川を見る。
また握り飯を見る。
「食うか?」
坊様がこちらを向いた。
「よいのか」
「三つあるしな」
三吉は一つを渡した。
坊様は両手で受け取ると、大事そうに眺めてからパクりと頬張った。
二人は岸辺の岩に並んで座り、沢の音を聞きながら握り飯を食べた。
坊様はゆっくりと噛みしめ、
「うまいのぉ」と言った。
「母ちゃんが握ったんじゃ」
「では、御母堂にも礼を言わねばならんな」
三吉はそんな坊様を好ましく思った。
沢を抜ける風が心地良い。濡れた着物も乾いてきた。夏は良い。
魚は獲れなかったが、悪くない沢遊びだった。
山道から人の足音が聞こえてきた。
村の男が、桶と道具を担いで沢に下りて来る。
「あ、源蔵のおっちゃんじゃ」
源蔵は二人を見ると軽く手を上げ、そのまま上流へと向かう。
荷を下ろし、何やら沢へ流す支度を始めた。
隣に座っていた坊様が立ち上がった。
「それは、やめた方がよい」
さっきまでの穏やかな坊様の顔から笑みが消えて、哀しげな眼差しになっていた。
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