修道士ギベールの手記

たま、

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第一章 噂は風のごとく

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東方の大王が急死し、あの悪魔の軍勢は引き返したと噂され、ひと時、ヨーロッパは安堵した。
だが...
東方の大王...オゴタイ・カアンは、賢臣耶律楚材の諫言をようやく聞き入れ、
酒杯を遠ざけ、狩猟を控え、命を保ち、その配下である征服者バトゥの軍団は東へと引き返すことはなかった。
そして年月は過ぎて、
バトゥは冷徹な理性と秩序をもって世界を見渡し支配した...

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

修道士ギベールの手記

最初にそれを耳にした時、私はそれを神の計らいだと思った。
終末を語る噂は、いつの時代にもある。
人の心を試し、信仰を揺さぶるために、主が許される偽りの声だと私は教えられてきた。


ニュイ=サン=ジョルジュの修道院。
その日は寒く石造りの写本室は底冷えした。

数年前からこの修道院でも意欲的に進められるようになったワイン造りに励み、葡萄摘みや長年の写本作りで私の指は節くれ立っていた。本当に歳をとった手になってしまった。
インク壺を持つ手がわずかに震えた。

その日の夕刻、ブルゴーニュ街道を下ってきた行商人が修道院の門を叩いた。
粗末な外套、埃にまみれた靴、眼差しが緩く揺らいでいた。

行商人は湯とパンを乞い、代わりに話を差し出した。
「東の方で、王が消えました」

私は笑った。王が消えることなど、珍しくもない。
病、老衰、事故、戦、毒杯、陰謀...この世は常に王を飲み込んできた。

だが彼は、真っ直ぐ私を見て言った。
「消えたのは王だけでなく軍もです。旗も、騎士も、兵たちも...全てです」

その瞬間、私は黙示録の一節を思い出していた。
勝利を得る者は...わたしは、その名を命の書から決して消し去ることはない...
東で、何か不吉な事が起こっているのだろうか。


数日後、
別の修道士が東から戻ってきた。
彼は疲れ果て、外套の裾は裂け、祈りの言葉を口にしながらも、目は祈っていなかった。
「リーグニッツ...」

それが、初めて具体的な地名として、恐怖を伴って響いた瞬間だった。

彼は詳しく語らなかった。語れなかった。

ただ、「追われた」「囲まれた」「戦ではなかった」という出来事の断片だけを拾ってきたのだ。

噂は風のように届いた。
それは暖かい春風ではなかった。
向きを変えながら確実に西へと吹き抜ける冷たい風であった。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

皇帝フリードリヒ二世

その頃、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世はパレルモにいた。
フリードリヒは、背は高く、姿勢は常に正しく、黒髪と鋭い眼差しが輝いていた。
祈りよりも書を読み、説教よりも地図を好むが、神を否定したことは一度も無い。

彼の机には、
各地からの報告書が積まれていた。
その多くは恐慌に満ち、
宗教的比喩に溢れ、
誇張と錯綜に彩られていた。

彼は一通ずつ、
感情を交えずに読み、
静かに机に戻した。

「遊牧民風情が鍛え上げられた騎士を壊滅させただと?」
彼は首を傾げ、憶測するのを一時止めた。
恐怖は敵に最大の武器を与える。それが彼の信条だった。
彼は即断しなかった。
帝国を動かすには確かな情報が要る。
この沈着さは愚かさではなかった。
むしろ、これまで彼を支えてきた最良の資質であった。

ただ、この時ばかりは時間そのものが敵となった。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

修道院の中の世界しか見ていない修道士は、皇帝の思慮などは知らなかった。
王達の判断も、諸侯の戸惑いも、修道士ギベールの耳には届かない。

届いたのは、祈りの声が減ったこと、巡礼者が減ったこと、
そして...噂が具体性を帯び始めたことだけだった。

最初は遠くの土地の名や王の名が語られ、それが徐々に近づいて来る。
恐ろしい...
やがて、沈黙が増える。

それが、噂が現実へ変わる兆しであることを、ギベールはまだ完全には理解していなかった。
写本机に向かいながら、指先が止まり、答えの見つからない思考に耽る時間が増えた。
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