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第2章 阿久利川事件 6
しおりを挟む翌朝。
既にご機嫌斜めな頼義をはじめ船着き場に案内された一行は、ずらりと並んだ満艦飾の舟に呆れて言葉を失った。船上でも宴が催されるのであろう、御馳走の膳を抱えた雑仕女達や酌を務める美女達が幾十人と船の前で控えている。
(よくもまあ、一晩で用意できたものだ)
寧ろ感心して頷いていた一行を、
「ささ、どうぞお好きな舟に。揺れますのでお気を付けなさいませ」
笑顔で促す宗任を前に、頼義が躊躇して二の足を踏む。
「もしや、北上川のど真ん中で我らを舟ごと沈める気ではあるまいな」
あからさまに警戒する父の耳元で義家が囁く。
「考えすぎですぞ。見れば阿倍の公達らも同乗するようですし、剣を帯びた者は誰一人おりませぬ。ここは腹を括りましょう」
顰め面で一行はそれぞれの船に乗り込んだ。
楽しい舟遊びであったという。
「姐さま、今日は私達もお連れいただきとうございまする!」
「私達も姐さまと水浴みしとうございまする!」
釣り竿を肩に掛けた一加が、早速双子達に纏わりつかれているのを見て重任が苦笑した。
「朝から賑やかなことじゃ」
「兄上は皆と行かれなかったのですか?」
「舟は好かぬ。酔うでな。それよりも久しぶりに遠野郷より外に出た。今日はゆっくりと周辺を歩いて回りたい」
目を細める重任が、微かに唇の端を吊り上げた。
「それに、多賀城の輩と共に居ると、どうにも血が騒いで収まらぬ。剣呑なことになっては悪いでのう」
そう言って笑う重任に見送られ、三人は屋敷を後にした。
義家と共に宗任、貞任らと同舟となった元親は、自分の向かい側に座し、雑仕女から酌を受けながら流れゆく景色を穏やかに眺める大男の様子をじっと見つめていた。
「こう揺れていては、酒が飲み辛うござるな」
視線に気づいてか貞任が話しかけてきた。
「始終ゆらゆら、ゆらゆらと。これでは酔うてしまっても気が付かぬ」
「その分、酒が捗りましょう」
「あっはっは、違いない。それこそ舟酒の醍醐味というものじゃ!」
元親の言葉に声を上げて笑う。
(やはり、この男に違いない。……だが、)
目の前の肥満漢を改めて見やる。
このおっとりとした、口を開けば人懐こい青年が、果たしてあの夜、顔中に隈取を施し虎狼のように吠え猛っていた虜囚の大将か。
「……貞任様、宴の席で憚られまするが、某は四年前の戦に加わっておりました。その際、貴殿をお見掛けしたことがござる」
「ほう」
特にこれといった様子でもなく貞任が頷く。
「それはお勇ましいことだが、生憎人違いにござろう。某は貴公ら国府との合戦には加わっておりませなんだ」
「某は秋田勢に加わっておりました。鬼切部の渓谷にござる」
「ほう……成程。――ならば間違いはない」
貞任の相貌が様変わりした。
気配を察した傍らの女性も、思わず酌の手を止める。
「我ら胆沢狼の戦振りは如何であった?」
「……恐ろしゅうございました。まさか栗駒山を越え雪崩打って攻めてくるとは。未だに背筋の寒くなる思いにござる」
「どうか、それを努々忘れてくださるな。先の陸奥守とは違い、頼義様が御賢明な御方であられると我らも存じておりまする。我ら餓狼の眠れる牙、何卒貴公の背筋を凍てつかしめるのみに留めさせて頂けますよう」
低くも凄みの利いた声音で貞任が告げる。
ちら、と義家が二人の方に目を遣った。
前を行く舟には、頼義と頼時、宗任が乗り込んでいる。心得のある雑仕女がいるのか、琵琶や笛の音が聞こえてくる。
舟から降りれば、再び屋敷で宴の続きである。
最早諦めきった頼義は両脇から注がれるままに自棄酒を呷った。
一行の何人かは船酔いを引き摺り、畳の上で青い息を吐いている。もうとても敵情視察どころではない。
終始きょろきょろと宴席を見回す息子の様子を胡乱な顔で景通が見ている。
(……そういえば、今日は姿が見えぬな)
先程、舟上で披露していた雑仕女達の奏楽を余興に楽しんでいた義家もふと気づく。
「如何なされた?」
おもむろに席を立つ義家に元親が声を掛ける。
「少しその辺を歩いてくる。すぐ戻るので一人で良い」
「またですか?」
返事も待たずに部屋を出ていく若い主の背中を見送りながら呆れたように呟いた。
「一体どんな天女に魅入られたものやら……」
別に疚しい思いを抱いて向かっているわけではない。
だが、まるきり期待がないといえば嘘になる。
昨日辿った道をもう一度踏みしめながら目印にしていた大きな橡の木を目指す。
昨日と違いまだ日が高い。山道を歩く義家の額にも止めどなく汗が噴き出す。あの娘でなくても川に飛び込みひと泳ぎしたくなる日和である。
昨日背凭れにしていた橡の木を見つけると、大きな鍬形虫が何匹も止まっていた。
息を殺しつつ笹薮の蔭から崖下の川を見下ろすと、果たして歓声を上げながら水遊びに興じる人影が見えた。
成程、うら若い女性が二人、素裸になって水を掛け合いはしゃぎ回っていた。
しかし十にも満たない女童達である。
別に期待していたわけでは決してないのだが、義家は溜息を吐いた。
(今日は居らぬのかな……?)
立ち上がりかけた頼家の首筋にヒヤリと冷たいものが当てられる。
「――お生憎、今日はまだ水浴みをしておりませぬ。御曹司様がお見えになってから、と思いまして」
背後から掛けられる、首に触れる物よりももっと冷たい響きを持った声に、義家は後ろを向いたまま両手を挙げて立ち上がった。
「ここで何をしておいでか?」
「……昨日、ここで天女を見かけたものでな」
「それでその天女はどうなりましたか?」
「嬉しや、今日も我が前に、否、後に舞い降りられた。随分お怒りの御様子だが……」
「あら、お察し頂けましたか」
にっこりと、恐ろしい顔で笑みを浮かべる。
「私は今、大変怒っておりまする」
「この剣呑なものを引っ込めてもらえぬか。首筋が冷えてかなわぬ」
「この暑さですもの、涼が取れて良いでしょう?」
ぺたぺた、と首筋を叩いて見せる。
「只の不埒な覗きというなら、せいぜい私の平手二つ三つで済まして差し上げるところ。しかし此処は奥六郡の護りの要である小松柵に程近き場所。いくら国司の御曹司とてこんなところを他国の者が一人でぶらつかれているのは穏やかではございませぬ。さて、この不届き者をどうしてやろうかしら?」
「それは知らなかった。どうか平手は一つでご寛恕願いたいが」
言いながら首だけ振り向いて拍子抜けした。てっきり刀でも突き付けられていると思えば、なんだ釣り竿か。
「一体何が目的か、不埒な源氏の御曹司様?」
顔は笑っていても目つきに頗る怒りの込められた一加に笑顔を作る。
「昨日見たそなたの姿が忘れられなくてな、もう一度見たいと思った」
ぼっ、と娘の顔から湯気が出たように見えた。
「私の裸をかっ⁉」
ばっと一加が胸を押さえ義家の元から飛び退る。
「剣舞の事じゃ。しかしここで見た天女の姿も、どうにも目に焼き付いて忘れられぬ」
真っ赤になって睨みつける一加を可笑しそうに笑う。
「姐さま、何処におられまするか?」
「姐さま、菘の着物が流されてしまいました!」
「草履も流されてしまいました。うえーん!」
と、川の方から何やら女童達の泣き声が聞こえる。
思わずそちらに目を遣り二人に声を掛けた一加が、はっとして義家の方を見ると、いつの間にか忽然とその姿は消えており、代わりに今まで彼が着ていた上衣が橡の梢に脱いで掛けられていた。
(いや、焦った焦った!)
すたこらと走って逃げていた義家が漸く屋敷の前まで辿り着き荒い息を吐いた。
(しかし、俺に気配一つ感じさせずに背後を取ってくるとは、あの娘、相当な手練れじゃ。昨日の出迎えで道沿いに並んでいた兵卒達と言い、安倍勢は余程の猛者が揃っておると見た。もしも事が起こるとしたら、心して掛からねばならぬ)
思案顔で宴席に戻る義家を見た元親が前を丸くする。
「御曹司、上着はどうされた?」
「天女に取られてしまったよ」
そう言って、思い出したように落ち込んだ。
(ああ、次にあの娘に会う時どんな顔をすればよいのだ……?)
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