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第2章 阿久利川事件 8
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天喜四年、如月。
源頼義の陸奥守任期満了を目前にして、胆沢鎮守府は連日送別の宴が催されていた。
――任終るの年、府務を行はんが為に、鎮守府に入り、数十日経回するの間、頼時首を傾けて給仕し、駿馬金宝の類、悉く幕下に献じ、兼ねて士卒に給ふ。
胆沢を訪れた頼義が、国司の仕事納めとして鎮守府にて執務に当たっている間、頼時はじめ安倍の主だった者達は毎日のように出向し、その手助けに努めた。
もう間もなく永きに亘る緊張の解かれる時が訪れることに、皆の喜びは隠しようもなく、任期に差し障っては一大事と、身を粉にして協力を惜しまなかった。
金ヶ崎西根、安倍氏居城。
雪のちらつく夕暮れ近くに、一加の元を義家が訪ねてきた。
「失礼いたす」
門を通され、玄関を潜ると、二人の侍女が出迎えた。
(ああ、あの時河原で水遊びしていた女童達か。着物が流されて泣いていたっけ)
向こうも覚えていたらしく一目見るなりぱっと顔を輝かせた。
「久しいのう。済まぬがおぬし達の主殿へ取り次いでもらいたい」
「こちらで伺いまする」
「ご用件は何でございまするか?」
当時の高貴な女性は、基本的に家族以外の男性と一対一で直接顔を合わせることはまずない。成程、幼いながらもよく躾の行き届いた侍女達だと感心するも、この日ばかりは目溢し願いたい。
「明日、胆沢を立つこととなった。ついては別れの挨拶をしたいのだが、御目通り願えぬものだろうか?」
双子二人が「うーん」と顔を見合わせる。
そこへ、奥から二人の主人が姿を現した。
「私も丁度貴方様に用がありました。どうぞ中へ」
部屋に通された義家が、火鉢の傍を勧められ腰を下ろす。
「ここは、一加殿の私室か?」
「散らかっておりますが、ご容赦を」
思わず興味津々と見回してしまう。
確かに整頓が行き届いているとは言えないものの、不快に感じるほどでもない。
むしろ、立てかけられた幾本もの釣り竿や、屏風に張られた大きな魚拓などを見ていると、この娘の素顔に触れられた気がして喜びや親しみを覚える。
女の焚き染める香の匂いなど大嫌いな義家だが、この部屋にも微かに香る伽羅木の匂いなどは身体中に沁み込ませて帰りたいとさえ思う。
やがて、見覚えのある錦の包みを持った一加が義家の前に座った。
「こちらの夏衣、やはりお返しいたします」
差し出された包みに、義家は黙って目を落とした。
「天女の衣が、とか仰られましたが、ならば、これは私の手元に置くことはできませぬ」
義家が、小さく息を吐く。
「……そうか」
包みを受け取り、傍らに置く。
「こちらこそ詰まらぬことを申し上げた。何卒許されよ」
そう言って頭を下げる義家に、「……もし、」と一加が言葉を紡ぐ。
「私を天女と呼ばれるならば、羽衣は牽牛である貴方が掴むべきものではなくて?」
義家が顔を上げ、娘の顔を見つめる。
それはいつか衣川の宴にて剣舞の際に垣間見た、まるで義家に挑んでみせるような強い眼差し。
「天に帰したくないなら貴方の手で、天女から衣を奪ってみせるとよい」
その強い眼差しを注いだまま、ふ、と義家に笑いかける。
「それが、私からの答えでございまする」
「一加殿……」
「……私も、ずっと貴方のことが忘れられませなんだ」
言いつつ、一加の頬がみるみる染まっていく。
義家が身を寄せ、娘の双眸を見つめる。
手を伸ばし、そっと一加の頬に触れる。
一加が目を閉じ、二人の唇が触れた。
一加の肩を抱き、その身体を横たえようとする義家を、「待って」と一加が止めた。
「……蘿蔔達が控えております故」
それを聞いた義家が苦笑し、身を起こす。
衣服を整えると、もう一度一加の両目を見つめ、口を開く。
「必ずそなたを迎えに参る。どうか待っていてほしい」
強い眼差しを受け止めながら、一加も頷いた。
「我が羽衣は、既に貴方の手の中に。……もう他の何処へも飛んでいけませぬ」
微笑みかける一加を、義家は最後にもう一度抱きしめた。
「お帰りでございまするか?」
「続きはなさらないのでございまするか?」
「わ、童ら、見ておったのか!?」
「ひゅーひゅー!」
「ひゅーひゅー!」
途中で止めていて良かった。
玄関先で双子達に囃し立てられ、義家は冷汗掻きながら屋敷を後にした。
翌日、任期を終えた源頼義ら一行は、安倍一族総出で盛大に見送られながら胆沢を去り、五年に渡り奥六郡の喉元に突き付けられていた刃は取り除かれた。
これで、奥羽に再び穏やかな日々が訪れる。
奥六郡の誰しもがそう思い、喜びに沸いていた。
源頼義の陸奥守任期満了を目前にして、胆沢鎮守府は連日送別の宴が催されていた。
――任終るの年、府務を行はんが為に、鎮守府に入り、数十日経回するの間、頼時首を傾けて給仕し、駿馬金宝の類、悉く幕下に献じ、兼ねて士卒に給ふ。
胆沢を訪れた頼義が、国司の仕事納めとして鎮守府にて執務に当たっている間、頼時はじめ安倍の主だった者達は毎日のように出向し、その手助けに努めた。
もう間もなく永きに亘る緊張の解かれる時が訪れることに、皆の喜びは隠しようもなく、任期に差し障っては一大事と、身を粉にして協力を惜しまなかった。
金ヶ崎西根、安倍氏居城。
雪のちらつく夕暮れ近くに、一加の元を義家が訪ねてきた。
「失礼いたす」
門を通され、玄関を潜ると、二人の侍女が出迎えた。
(ああ、あの時河原で水遊びしていた女童達か。着物が流されて泣いていたっけ)
向こうも覚えていたらしく一目見るなりぱっと顔を輝かせた。
「久しいのう。済まぬがおぬし達の主殿へ取り次いでもらいたい」
「こちらで伺いまする」
「ご用件は何でございまするか?」
当時の高貴な女性は、基本的に家族以外の男性と一対一で直接顔を合わせることはまずない。成程、幼いながらもよく躾の行き届いた侍女達だと感心するも、この日ばかりは目溢し願いたい。
「明日、胆沢を立つこととなった。ついては別れの挨拶をしたいのだが、御目通り願えぬものだろうか?」
双子二人が「うーん」と顔を見合わせる。
そこへ、奥から二人の主人が姿を現した。
「私も丁度貴方様に用がありました。どうぞ中へ」
部屋に通された義家が、火鉢の傍を勧められ腰を下ろす。
「ここは、一加殿の私室か?」
「散らかっておりますが、ご容赦を」
思わず興味津々と見回してしまう。
確かに整頓が行き届いているとは言えないものの、不快に感じるほどでもない。
むしろ、立てかけられた幾本もの釣り竿や、屏風に張られた大きな魚拓などを見ていると、この娘の素顔に触れられた気がして喜びや親しみを覚える。
女の焚き染める香の匂いなど大嫌いな義家だが、この部屋にも微かに香る伽羅木の匂いなどは身体中に沁み込ませて帰りたいとさえ思う。
やがて、見覚えのある錦の包みを持った一加が義家の前に座った。
「こちらの夏衣、やはりお返しいたします」
差し出された包みに、義家は黙って目を落とした。
「天女の衣が、とか仰られましたが、ならば、これは私の手元に置くことはできませぬ」
義家が、小さく息を吐く。
「……そうか」
包みを受け取り、傍らに置く。
「こちらこそ詰まらぬことを申し上げた。何卒許されよ」
そう言って頭を下げる義家に、「……もし、」と一加が言葉を紡ぐ。
「私を天女と呼ばれるならば、羽衣は牽牛である貴方が掴むべきものではなくて?」
義家が顔を上げ、娘の顔を見つめる。
それはいつか衣川の宴にて剣舞の際に垣間見た、まるで義家に挑んでみせるような強い眼差し。
「天に帰したくないなら貴方の手で、天女から衣を奪ってみせるとよい」
その強い眼差しを注いだまま、ふ、と義家に笑いかける。
「それが、私からの答えでございまする」
「一加殿……」
「……私も、ずっと貴方のことが忘れられませなんだ」
言いつつ、一加の頬がみるみる染まっていく。
義家が身を寄せ、娘の双眸を見つめる。
手を伸ばし、そっと一加の頬に触れる。
一加が目を閉じ、二人の唇が触れた。
一加の肩を抱き、その身体を横たえようとする義家を、「待って」と一加が止めた。
「……蘿蔔達が控えております故」
それを聞いた義家が苦笑し、身を起こす。
衣服を整えると、もう一度一加の両目を見つめ、口を開く。
「必ずそなたを迎えに参る。どうか待っていてほしい」
強い眼差しを受け止めながら、一加も頷いた。
「我が羽衣は、既に貴方の手の中に。……もう他の何処へも飛んでいけませぬ」
微笑みかける一加を、義家は最後にもう一度抱きしめた。
「お帰りでございまするか?」
「続きはなさらないのでございまするか?」
「わ、童ら、見ておったのか!?」
「ひゅーひゅー!」
「ひゅーひゅー!」
途中で止めていて良かった。
玄関先で双子達に囃し立てられ、義家は冷汗掻きながら屋敷を後にした。
翌日、任期を終えた源頼義ら一行は、安倍一族総出で盛大に見送られながら胆沢を去り、五年に渡り奥六郡の喉元に突き付けられていた刃は取り除かれた。
これで、奥羽に再び穏やかな日々が訪れる。
奥六郡の誰しもがそう思い、喜びに沸いていた。
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