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第5章 1
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昼過ぎに、家を出た。
小正月の前後は毎年必ず、戸口を開けられぬほど天候の荒れるものと決まっているが、この日は朝からどういうわけか雲一つない晴天だった。
道を歩けば、家々の軒からぽたぽたと晴天に心地よく雪解けの滴が零れ落ち、時折ドサリと積雪の塊が屋根から滑り落ちる。
こんな麗らかな小春日和の中でさえ、表を歩いている人の姿のない風景が視覚に寒々しい。真っ青な空の下は人家も田畑もただ白一色で、振り返ると、僕の歩いた足跡だけが点々と雪の小道に連なっている。
この数日間降り続けたため、かなりの積雪が行く手を阻み、履き慣れぬカンジキを着けたゴム長の足元を何度も取られそうになりながら、僕は歩いた。
村の中をこれほど歩き回るのは故郷を出てから初めてのことだ。あるいは、中学に上がって以来か……ひょっとしたら、あの夏の日、姉と二人で同じ道のりを歩いて以来かもしれない。
ちょうどあの時も、この辺りで初老の農夫とすれ違ったのだっけ。まさかあの農夫にその後崖から落ちたところを医者に運ばれることになるとは、今思えば奇遇なものだ。
あの時は特に暑い日で、姉さまはまだ涼しそうな顔をしていたが、結局山に着く頃には二人とも汗でびっしょり着物を濡らすことになった。
あの時に比べれば、今真上の空はずっと高くて色も深い。息は吐き出すそばから白く凍ってしまう。
ちょうどこの辺りで、十年前の僕は音を上げ、姉に泣き言を漏らしていたのだっけ。
そんな弟の様子に流石に不憫と思ったか、恐らく目的地に辿り着くまで「んふふ」と含み笑いしながら黙っているつもりだったのを、姉はここで話してくれた。
――神様を見に行くの
それが、一年前に姉が僕に言った不思議の種明かしとして、僕をここに連れてきた目的だったのだ。
それからずっと年月が経ってしまったが、今僕はこうして、子供の頃の他愛ない思い出の続きを見届けるために山道を登っている。
――この上をもう少し登っていくと、鎮守の森の祠があるの
――運が良ければ、川を遡って社に帰ってくる神様が見えるのよ?
あの日、もし何事もなく無事に姉と二人、社に帰ってくる神様を見ることができていたら、今のようなことにはなっていなかっただろうか。
姉が閉じ込められることもなく、今までのようにニコニコと笑いながら、中学の学生服姿の僕を遠くから望んでいる光景。
餓鬼大将や喇叭吹きや、仲間たちも野良仕事から帰るところを落ち合い、皆で笑いながら帰路を辿り、ふと振り返るとお姉さまが皆に向かって手を振っている。皆もそれに応じて笑いながら手を振り返す。
……そんな、夢のような光景が、ほんの一瞬胸に過ぎった。
あの日、もし何事もなく無事に姉と二人、この道行を登り終えることができていたら。
――今日はきっと見ることができるわ
――ふふ、勝太郎も、きっと吃驚してよ?
そう言って無邪気に笑う姉が、それからもずっと僕の傍にいてくれたとしたら。
そこまで夢想して、ふと今更気づいた。
僕は、お姉さまのことをずっと恐怖し、また、浅ましい淫らな欲望に取り憑かれもした。
しかし、長者刀子という少女のことを、僕はほとんど何も知らないのだ。
ふと足を止め、来た道を振り返る。
真っ白な山裾の傾斜には、自分の登った足跡だけ。
そのずっと下には、まばらに散らばる生まれ故郷の集落が、雪に埋もれながら点々と散らばっている。
山脈の連峰の中にぽっかり空いた窪地の中に、寄せ合うように築かれた、小さな集落。
こんな小さな世界の、取るに足らぬような田舎長者のご体裁のために、ずっと姉と僕は縛られ続けていたのか。
……急に、今までの何もかもが馬鹿らしくなってくる。
ふっ、と溜息とともに微かに口元を歪ませる感情の正体を、僕は未だ知らない。
小正月の前後は毎年必ず、戸口を開けられぬほど天候の荒れるものと決まっているが、この日は朝からどういうわけか雲一つない晴天だった。
道を歩けば、家々の軒からぽたぽたと晴天に心地よく雪解けの滴が零れ落ち、時折ドサリと積雪の塊が屋根から滑り落ちる。
こんな麗らかな小春日和の中でさえ、表を歩いている人の姿のない風景が視覚に寒々しい。真っ青な空の下は人家も田畑もただ白一色で、振り返ると、僕の歩いた足跡だけが点々と雪の小道に連なっている。
この数日間降り続けたため、かなりの積雪が行く手を阻み、履き慣れぬカンジキを着けたゴム長の足元を何度も取られそうになりながら、僕は歩いた。
村の中をこれほど歩き回るのは故郷を出てから初めてのことだ。あるいは、中学に上がって以来か……ひょっとしたら、あの夏の日、姉と二人で同じ道のりを歩いて以来かもしれない。
ちょうどあの時も、この辺りで初老の農夫とすれ違ったのだっけ。まさかあの農夫にその後崖から落ちたところを医者に運ばれることになるとは、今思えば奇遇なものだ。
あの時は特に暑い日で、姉さまはまだ涼しそうな顔をしていたが、結局山に着く頃には二人とも汗でびっしょり着物を濡らすことになった。
あの時に比べれば、今真上の空はずっと高くて色も深い。息は吐き出すそばから白く凍ってしまう。
ちょうどこの辺りで、十年前の僕は音を上げ、姉に泣き言を漏らしていたのだっけ。
そんな弟の様子に流石に不憫と思ったか、恐らく目的地に辿り着くまで「んふふ」と含み笑いしながら黙っているつもりだったのを、姉はここで話してくれた。
――神様を見に行くの
それが、一年前に姉が僕に言った不思議の種明かしとして、僕をここに連れてきた目的だったのだ。
それからずっと年月が経ってしまったが、今僕はこうして、子供の頃の他愛ない思い出の続きを見届けるために山道を登っている。
――この上をもう少し登っていくと、鎮守の森の祠があるの
――運が良ければ、川を遡って社に帰ってくる神様が見えるのよ?
あの日、もし何事もなく無事に姉と二人、社に帰ってくる神様を見ることができていたら、今のようなことにはなっていなかっただろうか。
姉が閉じ込められることもなく、今までのようにニコニコと笑いながら、中学の学生服姿の僕を遠くから望んでいる光景。
餓鬼大将や喇叭吹きや、仲間たちも野良仕事から帰るところを落ち合い、皆で笑いながら帰路を辿り、ふと振り返るとお姉さまが皆に向かって手を振っている。皆もそれに応じて笑いながら手を振り返す。
……そんな、夢のような光景が、ほんの一瞬胸に過ぎった。
あの日、もし何事もなく無事に姉と二人、この道行を登り終えることができていたら。
――今日はきっと見ることができるわ
――ふふ、勝太郎も、きっと吃驚してよ?
そう言って無邪気に笑う姉が、それからもずっと僕の傍にいてくれたとしたら。
そこまで夢想して、ふと今更気づいた。
僕は、お姉さまのことをずっと恐怖し、また、浅ましい淫らな欲望に取り憑かれもした。
しかし、長者刀子という少女のことを、僕はほとんど何も知らないのだ。
ふと足を止め、来た道を振り返る。
真っ白な山裾の傾斜には、自分の登った足跡だけ。
そのずっと下には、まばらに散らばる生まれ故郷の集落が、雪に埋もれながら点々と散らばっている。
山脈の連峰の中にぽっかり空いた窪地の中に、寄せ合うように築かれた、小さな集落。
こんな小さな世界の、取るに足らぬような田舎長者のご体裁のために、ずっと姉と僕は縛られ続けていたのか。
……急に、今までの何もかもが馬鹿らしくなってくる。
ふっ、と溜息とともに微かに口元を歪ませる感情の正体を、僕は未だ知らない。
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