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五章 水都の風景
五章⑧
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陰陽の画に包丁が突き立てられたことにより、室内に異変が起こる。
画から出てきたもやが石蠱と思わしき物体を形成したのだ。
春菊と同室に居た者達は次々に倒れ伏し、石蠱のごとき黒い物体は用は済んだとばかりに消失してしまった。
この状況に対して、郭家の使用人達は冷淡だった。
腹痛に苦しむ主人等を置き去りにし、客間を出て行ってしまった。
おかげで春菊は大変気まずい思いをするはめになった。
父親の水景の画を盗もうと企てられ、失敗したかとおもいきや自分の陰陽の画を盗まれ……。彼等の失礼な行いの数々に対する不快感を飲み込むのも大変だけれども、このまま目の前で死なれでもしたら、暫く胸が痛むだろう。
春菊はとりあえず自分の感情を押さえ込み、旧市街に住む知人を頼ろうと思考を切り替える。
客間から出ると、混乱状態の使用人達が目についた。
春菊を目にすると近くに居た全ての者がぎょっとした表情で離れ、そそくさと中庭の方へと遠ざかる。
先にこの部屋から出た使用人達に、内部で起こったことや、春菊が口にしたことなどを何か聞いたのかもしれない。
こうなってしまうと、彼等に対して、春菊がこの屋敷を出ている間、彼等の主人等の介抱を頼むこともままならない。
(うはぁ、どうしようかなー。三人をこのまま客間に放っておいて旧市街に行ったらやっぱりまずいよね)
どうにも判断がし辛くて、客間と中庭の出口との間をうろうろしていると、見知った女性の姿が目についた。
「わっ! 雨桐!?」
何故彼女がここにいるのかは知るよしもないけれど、今は少しでも交流のある人物が来てくれたのを有難く思う。
しかし、動作が緩慢で、腹部に手を当てている。彼女はさっきの部屋にいなかったのに、何故腹具合が悪そうなのだろうか? 単なる偶然なんだろうか?
春菊は彼女の元にぱたぱたと走り寄り、話しかける。
「菜春菊、何故ここに!?」
「それはこっちが言いたいよー。この屋敷に何の用があるの?」
「……女官を辞めることにした。紹介してくれたのは左丞相だから、その礼を言いに寄っただけ」
「そうだったんだ! 左丞相とその娘は今大変な目に遭っているから、まともに喋れないかも」
「じゃあ、お別れはしなくてよさそうか」
雨桐は口元だけで笑うと、立ち上がり、くるりと踵を返す。
だけど、彼女はこのまま去ることは出来ないはずなのだ。
「––––あ、あのさ。雨桐って、しゃきっとしたおばあさんの養女?」
「確かに私はとある女性の養女だけど、何故知っている?」
「今会ったおばあさんに、今日後宮の女官を辞めた養女がいるみたいだったから、それって雨桐の他にも居るのか分からないけど、僕は君のことなのかなって思っちゃった」
「……」
「おばあさんは、今石蠱に憑かれたと思う。お腹の激痛で、苦しんでる」
「どうしてっ!? あの蠱はもう……っ! つぅ……」
雨桐は凄まじい形相で振り返った。
口は何かを訴えたいかのように何度も動くし、骨張った手は何かを殴りたいかのように強く握りしめられている。
何も出来ない彼女のもどかしさを見てられず、春菊はほんの少しだけ彼女から視線を逸らす。
彼女の反応は蠱について何も知らない人間のそれではない。
全部分かってて、その脅威が最も近しい人間に降りかかった現実を、受け入れられないでいる。
たかぶった感情のためなのか、彼女は自分の腹から手を離している。
もう痛くはないのだろうか?
気になりつつも、春菊は今優先すべきことを彼女に問う。
「あのさ、雨桐。もし君も蠱に憑かれた人を治せるなら、客間に居る三人の命を救ってあげてくれないかな?」
彼女にも解蠱の術が使えるのなら、今から旧市街に行く必要はない。
治すまでの時間が節約出来るし、三人が生き残れる可能性が上がるだろう。
しかし、雨桐は顔を歪めて、激しく首を振る。
「蠱に憑かれた人を治す!? そんなことが出来るっていうの!? というか、何故私に出来るだなんて決めつける!?」
「だって君は、蠱術を……」
「違う。私はただ自分の陰の気を制……」
「––––菜春菊よ、この騒ぎは一体何事か?」
雨桐の後方から、まろやかな男性の声が聞こえた。
画院長の声のような気がして、雨桐の体の横からひょいと顔を覗かせてみると、やっぱり画院長その人だった。
「画院長!! 左丞相に用でもあるの?」
「いいや、菜春菊の様子を見に来たのだ。日中画院で、左丞相から依頼を受けていただろう? 一人で左丞相の屋敷を訪れるのでは、さすがに心配にもなる」
「う、うわぁぁ、本当に大変なことが起きたんだよぉぉぉ!」
春菊は情けない声でことの経緯を説明するが、その途中で雨桐が逃亡したので中断した。
「雨桐!! 逃げないでよ!」
「今のはもしや皇太后付きの女官では? 何故このような時刻に、左丞相の屋敷に来ている?」
「えっと、左丞相は女官の職を斡旋してくれた恩人みたいだよ。だから、職を辞した後にお礼に来たみたい……」
「しっかりした女性だったのに、女官を辞めてしまったのか。惜しいものよ」
「うん……、でも、しょうがないのかも。あのさ、僕は旧市街に行って、蠱を治療出来る人を呼んでくるね。画院長は客間に居る三人から目を離さないでもらえると嬉しい!」
「目を離さないだけでいいのだな?」
「うん。それと、客間に誰かが入って来たなら、僕が説明した通りのことを伝えてほしい。画院長のことは皆信用してくれると思うから!」
「あい、分かった。足元に気をつけて行っておいで」
「うん!」
春菊は画院長にひらりと手を振り、郭家の屋敷から駆け出た。
□■□■
夜の旧市街は日中に比べてやはり空気が重い。
新市街よりも闇が一段と深く、すれ違う人型も人間なのか、はたまた化け物なのか判別が難しい。
そんな中を、春菊は短い手足を懸命に振りながら、ひた走る。
道の端に蠢く黒い塊。提灯の光よりも明るい青白い魂魄。
表の住人は否定するであろう、異形の数々がすぐそこにある。
でも、別に心配は要らない。
奴らは春菊の”陽”を嫌い、逃げていく。
のんびり者だけが道に残る。しかし不運にも、今の春菊は無神経そのもの。まっすぐしか見ていない。
光ってるのやら、黒すぎな物体やらは、春菊の足に蹴り飛ばされ、そのまま夜の闇に消え失せる……。
いつの間にか旧市街の深部へと到達する。
人通りはもう無く、魂魄ももう見えない。感じるのは濃厚な邪気。
そうしてようやく辿り着いた羅家の屋敷の前、春菊は夜の空気を深く吸った。
画から出てきたもやが石蠱と思わしき物体を形成したのだ。
春菊と同室に居た者達は次々に倒れ伏し、石蠱のごとき黒い物体は用は済んだとばかりに消失してしまった。
この状況に対して、郭家の使用人達は冷淡だった。
腹痛に苦しむ主人等を置き去りにし、客間を出て行ってしまった。
おかげで春菊は大変気まずい思いをするはめになった。
父親の水景の画を盗もうと企てられ、失敗したかとおもいきや自分の陰陽の画を盗まれ……。彼等の失礼な行いの数々に対する不快感を飲み込むのも大変だけれども、このまま目の前で死なれでもしたら、暫く胸が痛むだろう。
春菊はとりあえず自分の感情を押さえ込み、旧市街に住む知人を頼ろうと思考を切り替える。
客間から出ると、混乱状態の使用人達が目についた。
春菊を目にすると近くに居た全ての者がぎょっとした表情で離れ、そそくさと中庭の方へと遠ざかる。
先にこの部屋から出た使用人達に、内部で起こったことや、春菊が口にしたことなどを何か聞いたのかもしれない。
こうなってしまうと、彼等に対して、春菊がこの屋敷を出ている間、彼等の主人等の介抱を頼むこともままならない。
(うはぁ、どうしようかなー。三人をこのまま客間に放っておいて旧市街に行ったらやっぱりまずいよね)
どうにも判断がし辛くて、客間と中庭の出口との間をうろうろしていると、見知った女性の姿が目についた。
「わっ! 雨桐!?」
何故彼女がここにいるのかは知るよしもないけれど、今は少しでも交流のある人物が来てくれたのを有難く思う。
しかし、動作が緩慢で、腹部に手を当てている。彼女はさっきの部屋にいなかったのに、何故腹具合が悪そうなのだろうか? 単なる偶然なんだろうか?
春菊は彼女の元にぱたぱたと走り寄り、話しかける。
「菜春菊、何故ここに!?」
「それはこっちが言いたいよー。この屋敷に何の用があるの?」
「……女官を辞めることにした。紹介してくれたのは左丞相だから、その礼を言いに寄っただけ」
「そうだったんだ! 左丞相とその娘は今大変な目に遭っているから、まともに喋れないかも」
「じゃあ、お別れはしなくてよさそうか」
雨桐は口元だけで笑うと、立ち上がり、くるりと踵を返す。
だけど、彼女はこのまま去ることは出来ないはずなのだ。
「––––あ、あのさ。雨桐って、しゃきっとしたおばあさんの養女?」
「確かに私はとある女性の養女だけど、何故知っている?」
「今会ったおばあさんに、今日後宮の女官を辞めた養女がいるみたいだったから、それって雨桐の他にも居るのか分からないけど、僕は君のことなのかなって思っちゃった」
「……」
「おばあさんは、今石蠱に憑かれたと思う。お腹の激痛で、苦しんでる」
「どうしてっ!? あの蠱はもう……っ! つぅ……」
雨桐は凄まじい形相で振り返った。
口は何かを訴えたいかのように何度も動くし、骨張った手は何かを殴りたいかのように強く握りしめられている。
何も出来ない彼女のもどかしさを見てられず、春菊はほんの少しだけ彼女から視線を逸らす。
彼女の反応は蠱について何も知らない人間のそれではない。
全部分かってて、その脅威が最も近しい人間に降りかかった現実を、受け入れられないでいる。
たかぶった感情のためなのか、彼女は自分の腹から手を離している。
もう痛くはないのだろうか?
気になりつつも、春菊は今優先すべきことを彼女に問う。
「あのさ、雨桐。もし君も蠱に憑かれた人を治せるなら、客間に居る三人の命を救ってあげてくれないかな?」
彼女にも解蠱の術が使えるのなら、今から旧市街に行く必要はない。
治すまでの時間が節約出来るし、三人が生き残れる可能性が上がるだろう。
しかし、雨桐は顔を歪めて、激しく首を振る。
「蠱に憑かれた人を治す!? そんなことが出来るっていうの!? というか、何故私に出来るだなんて決めつける!?」
「だって君は、蠱術を……」
「違う。私はただ自分の陰の気を制……」
「––––菜春菊よ、この騒ぎは一体何事か?」
雨桐の後方から、まろやかな男性の声が聞こえた。
画院長の声のような気がして、雨桐の体の横からひょいと顔を覗かせてみると、やっぱり画院長その人だった。
「画院長!! 左丞相に用でもあるの?」
「いいや、菜春菊の様子を見に来たのだ。日中画院で、左丞相から依頼を受けていただろう? 一人で左丞相の屋敷を訪れるのでは、さすがに心配にもなる」
「う、うわぁぁ、本当に大変なことが起きたんだよぉぉぉ!」
春菊は情けない声でことの経緯を説明するが、その途中で雨桐が逃亡したので中断した。
「雨桐!! 逃げないでよ!」
「今のはもしや皇太后付きの女官では? 何故このような時刻に、左丞相の屋敷に来ている?」
「えっと、左丞相は女官の職を斡旋してくれた恩人みたいだよ。だから、職を辞した後にお礼に来たみたい……」
「しっかりした女性だったのに、女官を辞めてしまったのか。惜しいものよ」
「うん……、でも、しょうがないのかも。あのさ、僕は旧市街に行って、蠱を治療出来る人を呼んでくるね。画院長は客間に居る三人から目を離さないでもらえると嬉しい!」
「目を離さないだけでいいのだな?」
「うん。それと、客間に誰かが入って来たなら、僕が説明した通りのことを伝えてほしい。画院長のことは皆信用してくれると思うから!」
「あい、分かった。足元に気をつけて行っておいで」
「うん!」
春菊は画院長にひらりと手を振り、郭家の屋敷から駆け出た。
□■□■
夜の旧市街は日中に比べてやはり空気が重い。
新市街よりも闇が一段と深く、すれ違う人型も人間なのか、はたまた化け物なのか判別が難しい。
そんな中を、春菊は短い手足を懸命に振りながら、ひた走る。
道の端に蠢く黒い塊。提灯の光よりも明るい青白い魂魄。
表の住人は否定するであろう、異形の数々がすぐそこにある。
でも、別に心配は要らない。
奴らは春菊の”陽”を嫌い、逃げていく。
のんびり者だけが道に残る。しかし不運にも、今の春菊は無神経そのもの。まっすぐしか見ていない。
光ってるのやら、黒すぎな物体やらは、春菊の足に蹴り飛ばされ、そのまま夜の闇に消え失せる……。
いつの間にか旧市街の深部へと到達する。
人通りはもう無く、魂魄ももう見えない。感じるのは濃厚な邪気。
そうしてようやく辿り着いた羅家の屋敷の前、春菊は夜の空気を深く吸った。
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