あたしは蝶になりたい

三鷹たつあき

文字の大きさ
39 / 87

あたしから弟へ。岳人からあたしへ。

しおりを挟む
 あたしは椅子に座らずに、岳人のベッドに半身を入れて横になった。岳人と寝かしつけるときと同じように。右手で頭を撫でて、左手は小さな手を握った。岳人にはまだ意識がある。その証拠に手を強く握り返してくれたのだ。

「あのね。ねえたんは岳人が生まれた日のことを良く覚えているよ。お昼頃にもうすぐ生まれそうだと聞いて楽しみで仕方なかった。家中に岳人の為に買い揃えておいたおもちゃを並べたの。岳人が早くおうちを好きになってくれればいいなと思って。

 その日の夕方にお父さんと一緒に逢いに行ったんだよ。いつ生まれてもいいように病院に泊まるつもりでいたんだ。それから少しの時間が経って岳人が無事生まれたって聞いたの。すぐにお祝いのプレゼントを渡したくて、あたしは折り紙で鶴を折った。こんにちは、あたしの可愛い弟って書いた紙を使って。

 あれ、いつ渡せたんだっけなあ。次の日にはベッドの横に飾ってあった。お母さんが渡してくれたんだろうね。はじめて岳人の顔をみたときは嬉しかったけど、少し泣いちゃった。うわあ、あたしの弟可愛いなって。すぐには抱っこさせて貰えなかったけど、お姉ちゃんだよ。怖くないよ。優しいよ。泣かないでいいよってなんども話しかけたのを憶えている。

 あたし、岳人と一緒にいるのが楽しくて幼稚園とか学校が終わったら走って家まで帰ったの。たくさんの時間を一緒に過ごしたんだよ。ミルクをあげたり、おむつを替えたりするのが楽しかった。だから、岳人が立ったときも、まんまって最初に話したときも隣にいるのはねえたんだったんだよ。

 元気に大きくなって色んなことをして遊んだね。鬼ごっことかかくれんぼとかボール遊びとか。どれも上手だったね。

 小学生になってお母さんにお勉強しなさいと言われたら、あたしの帰りを待っていてくれたね。一緒にお勉強するのもおもしろかったね。なにをするにもあなたと一緒なら楽しかった。ねえたんの元気がないときは、頭を撫でてくれたり、後ろからぎゅうって抱き締めてくれたね。すごく元気が出た。笑いたくなった。岳人にも同じことをしてあげたいなと思ってお返しもしたね。ありがとう。」
 
 心の器はもう溢れるくらいに満ちていた。溢れたものが言葉となって口から出るのだ。もっと、ずっと、お話をしていたいのだけれど、心電計の信号音の間隔が短くなってきた。どうしても伝えないといけない大事な言葉がある。

「岳人。ねえたんの弟に生まれてきてくれてあるがとうね。いつも想っていたけどなかなか伝えられなかったね。もっと口に出して言うべきだったね。ごめんね。」

 ほぺったとほっぺたを擦り付け合って、もう一度祈った。なにが姉なものか。情けないけど、出来ることといったらそれしかない。

 奇跡は起こった。弟は薄く目を開いた。家族全員が駆け寄ったが誰ひとり大きな声を出さない。夢から覚めてしまいそうで。

「ねえたん。パパ、ママごめんね。またみんなでパパの車で大きい公園行きたかったなあ。ねえたんとアスレチックで遊びたかったなあ。」

 すべてが叶わぬ願いで諦めてしまったような口調だったが、それを正そうとするものはいない。だから、もう少しだけお話しよう。

「ねえたん。悲しいよお。怖いよお。ごめんね。大好きねえたん。」

 あたしには分かった。多分お父さんとお母さんにも。これが愛する弟、息子の最期の言葉なのだと。

 もう、息を潜める必要はない。大きな声で呼び覚ますときなのだ。帰ってきてくれと泣き叫ぶべきなのだ。

 弟は目を閉じた。いくら体を揺らしても、耳元で叫んでも少しも体を揺らすことはない。

「岳人。岳人。ねえ、岳人ってば。」

 もう二度と、あたしに笑顔を見せることはない。返事をすることもない。今だけじゃないの。もう二度となの。

 諦められるわけがないでしょう。受け容れられるわけがないでしょう。必死になって何度も弟の名を呼び続ける。お母さんも一緒に泣き叫んでいる。さっきまで必死になって涙するのを堪えていたのに、もう泣かなくてはいけないときが訪れたと理解したのだろう。お父さんは一度だけ弟の名を呼んで立ち尽くした。

 最期の言葉が「ごめんね。」という岳人の人生とはなんだったのだろう。

 最期の言葉に「ごめんね。」と言わせたあたしはなんだったのだろう。

 世界はやけに強い太陽の光と熱に覆われている。眩しいくらいに晴れたある日の午後だった。

 いつもならつまらない授業の終わった放課後の教室のいつもの場所で、いつもの三人で笑っている時間になっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...