あたしは蝶になりたい

三鷹たつあき

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死の予感

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取り付けられた心電計の鳴らす音が煩わしい。波を打ちながら気味の悪い信号を出し続ける。

 それだけでなく、白を基調としたこの部屋の空気自体が忌まわしい。早く岳人を連れてここを離れたい。

 だけど今はそれが叶わない。岳人は眠っているのだから。決して手を離したりはしない。あたしは今は力強くなくてはならない。湧き出す力を少しでも岳人に分け与えなければならないのだから。

 眠っていたはずの岳人の身体に突然異変が起きた。電流でも流されたかのように身体をくねらせたり、背中を丸めたり、急激に伸ばしたりベッドの上で悶え始めた。

「痛い痛い痛い。痛いよお。」

 これがあの天使ような岳人なのかと疑う程、おそろしい顔色をする。まるで鬼か悪魔にでもとり付かれたようだ。こちらの方が怯えてしまうほど顔が引きつっている。

「ねえたん。痛いよお。助けてよお。もう許してよお。」

 お母さんがナースコールのボタンに飛びつく。向こうにも叫び声は聞こえたのだろう。すぐに行きます、それだけで無線は切れた。

 あたしは怖ろしかったのだろう。なにも出来ずに立ち尽くした。可愛い岳人が目の前で苦しんでいるのに抱き締めてやることすらかなわない。ずっと握っていると約束した手も簡単に離して一歩後ろに下がってしまった。事態を受け容れられない。

 すぐに駆けつけてくれたドクターにあたし達は追い出されてしまった。なにも抵抗出来ない。この部屋の中であたしこそが一番強い信念を抱えていたはずなのにあっけないものだ。

 部屋の外に置いてあるベンチにお父さんとお母さんと並んで座る。なんだか、呆けていた。気味が悪いくらい心は穏やかだ。水面みたい。なんとか平穏を保っているけど、雨粒ひとつで乱れてしまうことは予感していた。悪い予感と言うのは的中するもので、雫が落ちてきて心を揺らそうとする。

 なんとか上手く調和をとろうと岳人と過ごした愉しい日々やひとり部屋に閉じ籠って苦しかった思い出を描く。心の釣り合いをとるのは慣れている。怖ろしさも影を潜めた。岳人は大きな事故をしたばかりなんだもの。体調が急変することだってありえるよ。自分を励まそうとするつもりはまったくなかったけど、事実を落ち着いて受け止めた。

 両親の方がよっぽど狼狽えている。お母さんがあたしを抱きかかえてくれた。娘の気持ちを案ずる力強い行動のようだけど、お母さんは泣いている。お願いだから泣かないで。泣いていると岳人が死んでしまったみたいだよ。死んでしまうみたいだよ。あの子は今、懸命に戦っているの。きっと苦しさを乗り越えるよ。

 震えているお母さんを抱き締める。心配しないで。あの子が元気な顔を見せるまで、あたし達も明るい顔で待っていようよ。受け容れ難い現実を目の当たりにして心の器は水でいっぱいになっていたけど、少しずつ中身を零しつつ、均衡を保っていた。

 あなたにだって分かるでしょう。のしかかる水の重さがだれだけのものか。
器を軽くするためには、なにかにすがるのが手っ取り早い。

 神、仏、あくま、そして、そら。誰でもいいんだ。あたしの声を聞いてくれ。尊くて幼い命を救ってくれ。代償は払うから。あたしの身体や脳で事足りるなら、いつでも好きなだけ奪ってくれていい。あたしだけで足りないのなら、あたしが大切にする誰から配っても構わない。両親はもちろん、果歩ちゃんや美羽ちゃんだって構わない。岳人さえ助かればそれでいいの。

 医者が部屋に入ってから十分もせずに岳人の叫び声は聞こえなくなった。医者は哀しそうな顔をする。なぜそんな顔色をしているの。岳人は助かったのでしょう。苦しみから解放されたのでしょう。

「岳人君に鎮静剤を打ちました。ご家族の皆さんは目を離さず見守ってあげて下さい。また、苦しみ出すようなことがあればすぐに呼んでください。」

 お父さんに一言だけ告げてその場を去っていく。

「さあ。岳人と最期のお話をしよう。」

 あたしの心はまだ冷えたまま。お父さんの言葉をしっかり飲み込んでそれに従おうと思えた。ただ、あたしの中のナニカがキレる音がした。怒ったときに切れる糸や集中力の糸とは違い、それは雫に濡れた蜘蛛の糸のように静かに切れたけど、それはあたしと大切ななにかを繋いでいる糸だったのに。

「さあ、優江。ゆっくりたくさん話をしてあげなさい。きっと話したいことがいっぱいあるだろう。」

 もちろんたくさん話はあるけれど、あたしは最後でいいよ。その方がゆっくりお話が出来るから。

 お父さんは岳人のベッドの脇の椅子に腰掛けて小さな手を握る。たいそう肩が震えている。つい数秒前のお父さんとは違う人みたい。背中を丸めて、しゃくりあげる姿は哀れだとしか形容出来ない。なにかを語りかけているようだけど、それはまったく言葉になっていない。大人の男が泣く姿を初めて見た。威厳や力強さなどない。こうなってしまえば、天にすがるだけの小さな背中の幼子のようだ。

 お母さんも続いて手を握る。目からは涙が溢れているけれど、お父さんと違って声をあげなかった。まだ、最後の奇跡を信じていたのだろう。祈りが通じて我が子が生還するのを信じていたのだろう。両親の振る舞いは慈愛に満ちた行為だと分かってはいたが、どこか愚鈍だと感じた。もう悲しむべきときではないのではないか。最期の言葉とはそういうものではないのではないか。

 あたしは椅子に座らずに、岳人のベッドに半身を入れて横になった。岳人と寝かしつけるときと同じように。右手で頭を撫でて、左手は小さな手を握った。岳人にはまだ意識がある。その証拠に手を強く握り返してくれたのだ。
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