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無意識回避
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「お母さん」
体感は今もっとも当てにならない。だから奈々子はゆっくりと動く時計の針を見つめて待った。おかげで千夏と千秋を待ってから2、3分で声がかかったと分かる。気まずそうな千夏の声は蚊の鳴くようで、息苦しい。いつものような力の抜けた返事は、どうしてもできそうになかった。
「どした」
「……お風呂、入ってからでいい?」
「あー。そうね、うん」
確かにそれが先だ。初夏とはいえもう充分暑い。そういえば二人とも汗だくだったと先ほどの衝撃映像を思い出し、また気分が悪くなった。
すぐ来れないなら、と立ち上がりケーキを冷蔵庫に移す。早く仕舞っておけば良かったのかもしれないが、今さら意味のない後悔だ。立ったついでに水道水で喉を潤す。台所の蛍光灯の妙にオレンジ色に近い色合いが無性に不快で仕方なかった。まだ気分は良くならない。
寝よう。ダイニングテーブルを通り越してソファーを陣取る。理由もよく分からない苛立ちは我が子にぶつけるべきではない。風呂から上がれば、奈々子がソファーで寝ていることに気付くはずだ。起こされた頃にはこの気持ち悪い感覚も消えているだろう。
「……朝だな?」
東側の窓から差す陽光に頭を抱える。壁掛け時計を見れば普段の目覚めより少し早い時間が示されていた。まさかあのままガッツリ寝てしまうとは思っていなかった。
「おはよう」
急に聞こえた声に奈々子はびくりと体を揺らす。末っ子の千秋の声だった。バレー部の千秋は練習着に身を包んでおり、ランニングに向かうところなのだと知れる。父親譲りの体躯はバレーにはうってつけで、奈々子の遺伝子が大した働きを見せなかったことには感謝するほかない。しかしその体格に似合わず存在感が薄く、寝起きから心臓が飛び出るほど驚いた。
「おはよう。ところで昨日、私のこと起こしてくれた?」
「、うん」
「そっか、ごめんね。私が呼んだのに」
一瞬詰まった千秋の言葉に引っ掛かりを覚えながらも謝罪を口にすると、千秋の顔は誰が見ても分かるほど歪んだ。
「……ごめんなさい。ほんとは起こさなかったです」
「あっそう。おかげで私の背中はバキバキだよ。ソファーで一晩寝たから」
これほど簡単な嘘も吐けないのだろうか。生きていく上で心配だ。その呆れが声に出たようで、奈々子のちょっとした嫌味に千秋は可哀想なくらい萎縮してしまった。さすがに罪悪感が沸いた奈々子は、奈々子のために用意してくれたであろうタオルケットを手に笑ってみせる。我が家で行われるこの手の気遣いは千秋の専売特許だ。
「ウソだよ。これ、持ってきてくれてありがと」
千秋は安堵したようで、肩の力を抜いて柔らかく口角を上げた。
「うん、それじゃいってきます」
「いってらー」
千秋を見送った奈々子は立ち上がる。のそのそと台所に入り、米を磨いだ。そしていつものように水を張り、炊飯器のスイッチを入る。小腹が空いて、何かつまむものはないかと冷蔵庫を開けると、昨日買ってきたケーキのうちの一つが鎮座しており、ここでようやく思い出す。
「あ、昨日の話……」
これほど重要なことを忘れるとは何事か。最近何かと物忘れが激しい気がしていたが、それにしても酷い。無意識に昨日の出来事を忘れたがった奈々子の脳みそが、記憶をシャットアウトしていたようだ。
「とりあえず早く話さなきゃ」
千夏と千秋は昨日のうちに食べたのだろう。一つ残されたケーキを眺めて奈々子はそう誓った。
体感は今もっとも当てにならない。だから奈々子はゆっくりと動く時計の針を見つめて待った。おかげで千夏と千秋を待ってから2、3分で声がかかったと分かる。気まずそうな千夏の声は蚊の鳴くようで、息苦しい。いつものような力の抜けた返事は、どうしてもできそうになかった。
「どした」
「……お風呂、入ってからでいい?」
「あー。そうね、うん」
確かにそれが先だ。初夏とはいえもう充分暑い。そういえば二人とも汗だくだったと先ほどの衝撃映像を思い出し、また気分が悪くなった。
すぐ来れないなら、と立ち上がりケーキを冷蔵庫に移す。早く仕舞っておけば良かったのかもしれないが、今さら意味のない後悔だ。立ったついでに水道水で喉を潤す。台所の蛍光灯の妙にオレンジ色に近い色合いが無性に不快で仕方なかった。まだ気分は良くならない。
寝よう。ダイニングテーブルを通り越してソファーを陣取る。理由もよく分からない苛立ちは我が子にぶつけるべきではない。風呂から上がれば、奈々子がソファーで寝ていることに気付くはずだ。起こされた頃にはこの気持ち悪い感覚も消えているだろう。
「……朝だな?」
東側の窓から差す陽光に頭を抱える。壁掛け時計を見れば普段の目覚めより少し早い時間が示されていた。まさかあのままガッツリ寝てしまうとは思っていなかった。
「おはよう」
急に聞こえた声に奈々子はびくりと体を揺らす。末っ子の千秋の声だった。バレー部の千秋は練習着に身を包んでおり、ランニングに向かうところなのだと知れる。父親譲りの体躯はバレーにはうってつけで、奈々子の遺伝子が大した働きを見せなかったことには感謝するほかない。しかしその体格に似合わず存在感が薄く、寝起きから心臓が飛び出るほど驚いた。
「おはよう。ところで昨日、私のこと起こしてくれた?」
「、うん」
「そっか、ごめんね。私が呼んだのに」
一瞬詰まった千秋の言葉に引っ掛かりを覚えながらも謝罪を口にすると、千秋の顔は誰が見ても分かるほど歪んだ。
「……ごめんなさい。ほんとは起こさなかったです」
「あっそう。おかげで私の背中はバキバキだよ。ソファーで一晩寝たから」
これほど簡単な嘘も吐けないのだろうか。生きていく上で心配だ。その呆れが声に出たようで、奈々子のちょっとした嫌味に千秋は可哀想なくらい萎縮してしまった。さすがに罪悪感が沸いた奈々子は、奈々子のために用意してくれたであろうタオルケットを手に笑ってみせる。我が家で行われるこの手の気遣いは千秋の専売特許だ。
「ウソだよ。これ、持ってきてくれてありがと」
千秋は安堵したようで、肩の力を抜いて柔らかく口角を上げた。
「うん、それじゃいってきます」
「いってらー」
千秋を見送った奈々子は立ち上がる。のそのそと台所に入り、米を磨いだ。そしていつものように水を張り、炊飯器のスイッチを入る。小腹が空いて、何かつまむものはないかと冷蔵庫を開けると、昨日買ってきたケーキのうちの一つが鎮座しており、ここでようやく思い出す。
「あ、昨日の話……」
これほど重要なことを忘れるとは何事か。最近何かと物忘れが激しい気がしていたが、それにしても酷い。無意識に昨日の出来事を忘れたがった奈々子の脳みそが、記憶をシャットアウトしていたようだ。
「とりあえず早く話さなきゃ」
千夏と千秋は昨日のうちに食べたのだろう。一つ残されたケーキを眺めて奈々子はそう誓った。
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