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王都との契約が決まり、新しい紅茶の仕入れが始まってからというもの、私の店《ティールーム・リュミエール》は、以前にも増して賑わうようになった。
「リリィさん、今月の売上、すごいですよ! わたしたち、頑張ってますね!」
「ええ。ミラもルカもよくやってくれてるわ」
「うへへ~。えへへ~……んっ、あっ……!」
「ルカ、何で顔を赤くしてるのよ」
「だ、だって……あのお客さん、また来てる……!」
ミラの視線の先を追うと、いつもの窓辺の席に、見慣れた姿があった。
――黒髪に銀縁の眼鏡、少し癖のある前髪。口元に浮かべた柔らかな微笑。
あの人が現れたのは、アレクが姿を消してから三週間後のことだった。
彼の名は、ユーリ・クローネ。
商業ギルドに所属する監査官であり、王都の貴族社会とも繋がりがあるという噂の人物。最初は契約関係の視察として訪れただけだったのだが――それ以来、彼は常連客になった。
「今日のおすすめは“林檎とキャラメルのアールグレイ”です。いかがですか?」
「素晴らしいですね。リリィさんの選ぶ香りは、いつもどこか人を癒す。まるで貴女そのもののようだ」
「……またそんな口説き文句を」
「事実ですよ?」
からかうような視線。けれど、その奥にある知性と品格は、決して軽薄ではなかった。
彼はどこか、私のことをじっと観察しているような眼差しを向けてくる。
それが嫌ではないことに、最近ようやく気づき始めた。
けれど、私はまだ——その一歩を踏み出す勇気がない。
「ユーリさん」
「はい?」
「……どうして、そんなに私に構うんですか?」
「うーん、どうしてでしょうね」
彼は紅茶を口に運び、ふわりと笑った。
「……気になります?」
「ええ、少し」
「じゃあ、お答えしましょう。貴女のような女性は、放っておけない。……特に、過去に痛みを背負った人はね」
「……見抜いていたんですね」
「見抜くまでもない。貴女の瞳には、色んな感情が隠れている。でもその奥に、まだ燃え尽きていない炎がある。……その光が、僕は好きなんです」
彼の言葉は、どこかくすぐったくて、けれど、胸の奥にじんと沁みた。
そのとき、店の扉が開いた。
「あ、リリィさん、またあの人……!」
ルカがそっと耳打ちしてきた。
私はふと視線を上げる。
そこに立っていたのは、アレク――ではなかった。
けれど、その姿にはどこか見覚えがあった。
「……王宮付きの従者?」
私がまだ公爵令嬢だった頃、何度か顔を合わせたことのある青年だった。彼は私に頭を下げた。
「突然のご訪問、失礼いたします。……元第一王子アレク様より、伝言を預かっております」
「……元?」
「はい。アレク様は、王族の籍を外されました。現在は爵位も持たず、隠居のような生活をされています」
店内が静まり返る。
ユーリも、珍しく紅茶を置いてこちらを見た。
「……伝言というのは?」
「“一度だけ、話を聞いてほしい”と。……あのとき、言い切れなかったことがあると仰っていました」
私は唇を噛んだ。
「……いまさら何を」
「アレク様は、貴女に対して真剣でした。……婚約破棄の裏には、王家内部の事情が絡んでいたようです」
「……」
「一度だけで構いません。お会いになっていただけませんか」
答えは出なかった。私はただ、黙って従者の去っていく背を見送った。
その夜、私は久しぶりに夢を見た。
あの夜会で、アレクが私の手を取り、「君の笑顔が、世界で一番美しい」と囁いたときの夢。
今となっては、偽りのように思える言葉。
けれど、それでも、心のどこかが疼いた。
――彼に、会うべきだろうか?
「迷っているんですね」
翌日、ユーリが静かに告げた。
「アレクという男に、まだ心を残しているのか。あるいは、きちんと終わらせたいのか」
「……どちらも違います。ただ、過去と向き合うのが怖いだけ」
「それなら、僕が付き添いましょうか?」
「え?」
「君がどこへ向かうとしても、君が望むなら、僕は傍にいます」
また、彼はさらっと、重たいことを言う。
「……どうしてそこまでしてくれるんですか」
「それは、君が僕にとって特別だからですよ」
そのとき、心臓が跳ねた。
私は今、分岐点に立っている。
元婚約者アレクとの過去を断ち切るか、あるいは向き合うか。
そしてもう一方には、新たに差し伸べられたユーリの手。
どちらの手を取るのか――答えはまだ出ない。
けれど、時は確実に進んでいる。
「リリィさん、今月の売上、すごいですよ! わたしたち、頑張ってますね!」
「ええ。ミラもルカもよくやってくれてるわ」
「うへへ~。えへへ~……んっ、あっ……!」
「ルカ、何で顔を赤くしてるのよ」
「だ、だって……あのお客さん、また来てる……!」
ミラの視線の先を追うと、いつもの窓辺の席に、見慣れた姿があった。
――黒髪に銀縁の眼鏡、少し癖のある前髪。口元に浮かべた柔らかな微笑。
あの人が現れたのは、アレクが姿を消してから三週間後のことだった。
彼の名は、ユーリ・クローネ。
商業ギルドに所属する監査官であり、王都の貴族社会とも繋がりがあるという噂の人物。最初は契約関係の視察として訪れただけだったのだが――それ以来、彼は常連客になった。
「今日のおすすめは“林檎とキャラメルのアールグレイ”です。いかがですか?」
「素晴らしいですね。リリィさんの選ぶ香りは、いつもどこか人を癒す。まるで貴女そのもののようだ」
「……またそんな口説き文句を」
「事実ですよ?」
からかうような視線。けれど、その奥にある知性と品格は、決して軽薄ではなかった。
彼はどこか、私のことをじっと観察しているような眼差しを向けてくる。
それが嫌ではないことに、最近ようやく気づき始めた。
けれど、私はまだ——その一歩を踏み出す勇気がない。
「ユーリさん」
「はい?」
「……どうして、そんなに私に構うんですか?」
「うーん、どうしてでしょうね」
彼は紅茶を口に運び、ふわりと笑った。
「……気になります?」
「ええ、少し」
「じゃあ、お答えしましょう。貴女のような女性は、放っておけない。……特に、過去に痛みを背負った人はね」
「……見抜いていたんですね」
「見抜くまでもない。貴女の瞳には、色んな感情が隠れている。でもその奥に、まだ燃え尽きていない炎がある。……その光が、僕は好きなんです」
彼の言葉は、どこかくすぐったくて、けれど、胸の奥にじんと沁みた。
そのとき、店の扉が開いた。
「あ、リリィさん、またあの人……!」
ルカがそっと耳打ちしてきた。
私はふと視線を上げる。
そこに立っていたのは、アレク――ではなかった。
けれど、その姿にはどこか見覚えがあった。
「……王宮付きの従者?」
私がまだ公爵令嬢だった頃、何度か顔を合わせたことのある青年だった。彼は私に頭を下げた。
「突然のご訪問、失礼いたします。……元第一王子アレク様より、伝言を預かっております」
「……元?」
「はい。アレク様は、王族の籍を外されました。現在は爵位も持たず、隠居のような生活をされています」
店内が静まり返る。
ユーリも、珍しく紅茶を置いてこちらを見た。
「……伝言というのは?」
「“一度だけ、話を聞いてほしい”と。……あのとき、言い切れなかったことがあると仰っていました」
私は唇を噛んだ。
「……いまさら何を」
「アレク様は、貴女に対して真剣でした。……婚約破棄の裏には、王家内部の事情が絡んでいたようです」
「……」
「一度だけで構いません。お会いになっていただけませんか」
答えは出なかった。私はただ、黙って従者の去っていく背を見送った。
その夜、私は久しぶりに夢を見た。
あの夜会で、アレクが私の手を取り、「君の笑顔が、世界で一番美しい」と囁いたときの夢。
今となっては、偽りのように思える言葉。
けれど、それでも、心のどこかが疼いた。
――彼に、会うべきだろうか?
「迷っているんですね」
翌日、ユーリが静かに告げた。
「アレクという男に、まだ心を残しているのか。あるいは、きちんと終わらせたいのか」
「……どちらも違います。ただ、過去と向き合うのが怖いだけ」
「それなら、僕が付き添いましょうか?」
「え?」
「君がどこへ向かうとしても、君が望むなら、僕は傍にいます」
また、彼はさらっと、重たいことを言う。
「……どうしてそこまでしてくれるんですか」
「それは、君が僕にとって特別だからですよ」
そのとき、心臓が跳ねた。
私は今、分岐点に立っている。
元婚約者アレクとの過去を断ち切るか、あるいは向き合うか。
そしてもう一方には、新たに差し伸べられたユーリの手。
どちらの手を取るのか――答えはまだ出ない。
けれど、時は確実に進んでいる。
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