婚約破棄された瞬間、隣国の王子が「その人、僕がもらいます」と言った

ほーみ

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ベルセルク王国に来てから二週間が経った。
雪に閉ざされたこの国にも、ようやく春の気配が見え始める。
……もっとも、春と言っても雪が溶け始める程度なのだけれど。

私は朝の執務室で、ルシアンの横に座っていた。
彼は今日も書類の山を片づけている。
その横顔は冷ややかで、けれどどこか穏やかだった。

「メアリー、少し休め」
「平気です。殿下が書かれている間、せめてお茶を――」
「君が動くと、周囲が落ち着かない」
「え?」
「“殿下の婚約者候補が自ら給仕している”と、皆ざわついている」

くす、と笑ってしまった。
「皆さん、本当に噂好きなんですね」
「それだけ君が注目されているということだ」
「……私なんて、異国の人間ですよ?」
「異国の花ほど、人は惹かれるものだ」

ルシアンの言葉に、心臓が一瞬跳ねた。
相変わらず、さらりと恥ずかしいことを言う人だ。
けれど、その声音は嘘がなくて、私は何も言い返せない。



昼食を終えたあと、侍女のエレナが慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「メアリー様! 大変です、客人が!」
「客人?」
「はい……“エドガー王太子殿下の側近”と名乗る方がいらして……」

胸がどくんと跳ねた。
やっぱり、来たのだ。
あの日ルシアンが言った通りに。

「殿下に報告を」
「はい、すでにお伝えしました。執務室でお待ちです」



ルシアンの部屋に入ると、黒髪の青年が深々と頭を下げていた。
「ベルセルク王国の皆様、突然の訪問をお許しください。
エドガー王太子殿下の使者、リード・フェンです」

「用件は?」
ルシアンの声が低く響く。
リードと名乗った青年は、私を一瞥し、少しだけ表情を曇らせた。

「我が殿下よりの伝言です――“メアリーを返してほしい”」

空気が凍りついた。
まるで時間が止まったみたいだった。

「……なんですって?」
思わず聞き返すと、リードが真っ直ぐに言葉を続けた。
「殿下は後悔しておられます。
あの日、軽率な言葉を口にしたこと、貴女を傷つけたこと……すべて。
もう一度、やり直したいと」

――冗談じゃない。

胸の奥がざらりと波打つ。
散々侮辱しておいて、今さら“やり直したい”?

「殿下は、リリアナ嬢とはすでに関係を解消しております」
「……そうですか」
「彼女は虚偽の涙で殿下を惑わせたと判明し――」
「――やめてください」

声が震えた。
思い出したくもない。
あの場での屈辱を、後悔ひとつで帳消しにできると思っているの?

「メアリーは帰らない」
ルシアンの低い声が割って入った。
「彼女はもう我が国の保護下にある。
王太子殿下の気まぐれに振り回されることは、二度と許さない」

リードの眉がぴくりと動く。
「しかし、両国の関係を考えれば――」
「関係を悪化させたのは、そちらだ」
ルシアンが冷ややかに言い放つ。

「我が国に来て、彼女を“返せ”などと言う無礼。
ベルセルクを甘く見ないほうがいい」

その瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
ルシアンの瞳が紅く光り、まるで獣のように鋭く光る。

リードは息を呑み、何も言えなくなった。
「伝えろ。二度とこの国に“返せ”という言葉を持ってくるなと」

そして、静かに立ち上がる。
「彼女は僕が守る。
もし誰かが奪いに来るなら、僕は――敵国相手でも剣を抜く」



使者が去ったあと、私はしばらく沈黙していた。
ルシアンの机の上に、彼の手が置かれている。
その指先がわずかに震えていた。

「……怖かったです」
「僕が?」
「いいえ。あの時の、殿下の怒りが」
「君を守るためだ」
「……そうでしょうけど」

私はそっと微笑んだ。
「ありがとう。でも……私は、ただ“守られる”だけの存在にはなりたくありません」

ルシアンが目を細める。
「どういう意味だ?」
「このままでは、また誰かに“奪われる”気がして。
だから、私もこの国で自分の場所を作りたいんです」

ルシアンはしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「……わかった。君に職を与えよう」
「職?」
「ベルセルクの王立書庫で、文官補佐として働くといい。
君の知識なら十分務まる」

驚いて、顔を上げた。
まさか、本当にそんなことを言うなんて。

「いいのですか? 私、他国の人間ですよ?」
「君を信じる。それで十分だ」

その言葉に胸が熱くなった。
この人は、いつも私を“価値のある人間”として見てくれる。
それが、こんなにも嬉しいなんて。



数日後、私は書庫での仕事を始めた。
古文書の整理、翻訳、記録の分類――忙しいけれど、やりがいがあった。
時々ルシアンが差し入れを持ってきてくれる。

「殿下、自ら差し入れを?」
「君が食事を抜くからだ」
「そんなことしてません!」
「……なら、これは僕が食べよう」
「待ってください、私がいただきます!」

思わず口にした瞬間、ルシアンが小さく笑った。
「やっと、昔の君に戻ってきたな」
その笑顔があまりに優しくて、胸が締めつけられる。

でも――その穏やかな日々は、長くは続かなかった。



書庫で資料を整理していたある日の夕方。
「メアリー様、こちらの書簡を――」と侍女が駆け寄ってくる。
差し出された封筒には、見覚えのある紋章。
――王太子エドガーのものだった。

手が止まる。
中を開くと、震えるような筆跡で書かれた文字があった。

『君を愛している。あの時の愚かさを悔いている。
どうかもう一度、会って話をさせてほしい。
ルシアンに騙されてはいけない。
彼の狙いは、君ではなく“我が国”だ――』

目を見開いた。
なに……これ?
ルシアンが、国を? 私を利用している――?

ありえない。
でも、エドガーの筆跡は確かだった。
まるで、心の隙を狙ったような言葉。

「どうされました?」とエレナが尋ねる。
私はとっさに手紙を閉じた。
「……なんでもないわ」

胸の奥がざわつく。
“信じてはいけない”と書かれたその文字が、どうしても離れない。



夜、ルシアンが執務を終えて部屋に戻ったとき、私は暖炉の前にいた。
彼は私を見るなり眉を寄せる。
「どうした? 顔色が悪い」
「……エドガー殿下から、手紙が来ました」
「手紙?」
「あなたが……私を利用している、と」

ルシアンの表情が一瞬、静止した。
それから、ゆっくりと吐息をついた。

「……なるほど。動き出したか」
「え?」
「僕を貶めるための罠だ。
彼は“恋文”の形で疑念を植えつけ、君を揺さぶるつもりなんだ」

私はうつむいた。
「……でも、もし本当に……?」
「メアリー」
彼の声が低く響いた。
「君は僕を信じると言った。あれは嘘だったのか?」

その言葉が刺さる。
信じたいのに、怖い。
誰かを信じることで、また壊れてしまうのが。

「……怖いんです。あなたを信じて、もし裏切られたら」
「裏切らない」
「……そんなの、わからない」

その瞬間、ルシアンが私の手を取った。
強く、逃げられないほどの力で。

「なら――証明する」

唇が触れる寸前、彼の瞳が揺れた。
まるで、自分を押さえつけるように。

けれど、その瞬間、扉の向こうから声がした。
「殿下っ! 急報です! エドガー王太子が軍を――!」

空気が一気に張り詰めた。
ルシアンが立ち上がり、私の肩を掴む。
「君はここにいろ。絶対に出るな」

「ルシアン!」
「今度こそ、僕が守る」

そう言い残し、彼は嵐のように部屋を出て行った。

私はただ、震える手で手紙を握りしめる。
外の風が、雪と一緒に怒り狂うように吹き荒れていた。

――“愛している”と書かれた手紙の文字が、
暖炉の火に照らされ、ゆっくりと黒く焦げていく。
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