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しおりを挟む車輪の音が、規則正しく大地を刻んでいた。
王都を離れて半日。窓の外には見慣れぬ森と、異国の空気が流れている。
メアリーは、まだ夢の中にいるような気がしていた。
婚約破棄を告げられたあの晩、全てを失ったと思った。
けれど今、彼女は隣国セイクリア王国の王子――リアンの馬車に乗っている。
「寒くないですか?」
リアンが柔らかく問いかける。その声音は、まるで春風のように優しい。
メアリーは反射的に首を横に振った。
「……いえ。大丈夫です」
「そうですか。無理をしないでくださいね。あなたが震えていたら、僕の心臓も落ち着かないから」
さらりと告げるその言葉に、胸が熱くなる。
リアンの横顔は穏やかだが、彼の瞳にはどこか燃えるような熱が宿っていた。
――まるで、誰にも渡さないという意志のように。
(こんな人が、どうして……私なんかを)
婚約破棄された女。家の名誉も地位も失い、国を追われるように出てきた自分を――
どうしてこの人は、ためらいなく「僕がもらいます」なんて言えたのだろう。
「……リアン殿下」
「リアンでいいですよ。あなたはもう僕の婚約者ですから」
――婚約者。
その響きに、胸がどくりと跳ねた。
「……まだ、婚約の書類も何も……」
「書類なんてあとでいい。心が先です」
リアンは笑う。
その笑顔がまぶしくて、メアリーは視線をそらした。
「あなたは……不思議な方ですね」
「そう言われたのは初めてかもしれません。でも、あなたにそう思われるなら悪くない」
軽やかな会話。けれど、ふと沈黙が落ちた。
メアリーは膝の上で手を握りしめた。
「……あの、リアン様。どうしてあの場で、私を……?」
「助けたのか、迎えに行ったのか、どちらだと思います?」
「え……?」
「僕はね、あの王太子の顔を見た瞬間に腹が立ったんです」
リアンの声が少し低くなる。
「あなたをあんなふうに突き放して、まるで使い古した装飾品のように扱った。あんな人間に愛される価値を決められるなんて、おかしいでしょう?」
「……!」
「あなたが泣きそうになった瞬間、僕は思ったんです。――あの人を後悔させてやろうって」
その言葉には、甘さと毒が混ざっていた。
ざまぁという響きが、メアリーの心に静かに広がる。
(後悔……。彼を、後悔させる……)
かつて愛していた男――王太子アレクシス。
彼に裏切られ、踏みにじられた日々が、まだ胸の奥にこびりついている。
「リアン様……。もし、彼が本当に後悔するとしたら……どうなさるおつもりですか?」
「簡単ですよ」
リアンは少し微笑む。けれど、その瞳は冷たい光を帯びていた。
「そのときは、あなたを僕の隣で輝かせるだけです。
彼が決して手に入れられないほどの“幸福”を、あなたに与えればいい」
その言葉が、まるで誓いのように響いた。
メアリーの喉が熱くなる。
涙をこらえて微笑もうとしたけれど、どうしても上手く笑えなかった。
――そんなに優しくしないで。
壊れてしまいそうだから。
数日後、セイクリア王国の王都に着いた。
白い城壁が朝日に照らされ、まるで雪のように輝いていた。
広場には花の香りが漂い、人々の笑い声が響く。
そこに立っているだけで、別の世界に来たのだと実感する。
「ようこそ、僕の国へ。……そして、僕の家へ」
リアンが手を差し出す。
メアリーは一瞬ためらったが、その手を取った。
指先が触れた瞬間、心臓が跳ねる。
「ここで、あなたは新しく生きていけばいい。誰にも縛られずに」
「……はい」
けれど、現実はそう簡単ではなかった。
城に着いて数日。
リアンの母である王妃は優しく迎えてくれたが、貴族の間では噂が広がっていた。
『元婚約者を拾ってきたらしい』『王族の器ではない』『亡国の女だ』
冷たい視線が背中に突き刺さる。
それでもリアンは、毎日メアリーに笑顔を向け続けた。
「誰が何を言っても、僕はあなたを守ります。約束します」
そう言ってくれる彼の声が、どれほどの救いだったか。
だがその優しさの裏に――時折、鋭いものを感じることがあった。
彼が人に見せない「闇」が、ほんの一瞬、目の奥に宿るのだ。
(この人はいったい……)
問いかけようとしても、言葉にならない。
そんなある日、リアンのもとに一通の手紙が届いた。
それは、メアリーの元婚約者――アレクシス王太子からのものだった。
『彼女を返してもらいたい。あれは私の婚約者だった。』
リアンは手紙を見て、ふっと笑った。
「……あの男、もう後悔してるみたいですね」
メアリーは息をのんだ。
その声には冷たい余裕があった。
「どうするつもりなんですか……?」
「返すわけないでしょう。あなたはもう、僕のものですから」
「……リアン様」
「でも――彼がどれほど惨めになるか、見てみたいとは思いませんか?」
その瞳は、危うい光を帯びていた。
メアリーの心臓が高鳴る。
彼の手が伸びてきて、そっと頬に触れる。
「あなたを傷つけた人間が、どれだけあなたを失ったことを悔いるか。
僕は、それを見届けてから――本当にあなたを愛したい」
リアンの唇が、ほんの少し近づいた。
メアリーは息を詰めたまま、動けない。
指先が、震える。
(この人は……本当に私を、愛しているの? それとも……)
そのとき、扉がノックされた。
緊張した空気の中で、リアンは手を離す。
「……入れ」
「失礼いたします。陛下がお呼びです」
リアンの表情が一瞬だけ険しくなる。
そして、メアリーの手を取った。
「行きましょう。あなたも同席してほしい」
「え……私も?」
「ええ。あなたは“僕の婚約者”ですから」
その言葉に、鼓動が強くなる。
メアリーはリアンの後を追った。
――そして、王の謁見の間で彼女を待っていたのは、思いもよらぬ再会だった。
「久しぶりだね、メアリー」
聞き慣れた声が、胸を刺す。
その声の主は、まぎれもなく――王太子アレクシス。
隣国同士の会談のために、彼がリアンの国を訪れていたのだ。
「……アレクシス、様」
彼女の名前を呼ぶその声音は、後悔と焦燥が混ざり合っていた。
かつては決して見せなかった表情。
「メアリー、戻ってきてくれ……! 僕は――」
「やめてください」
リアンが静かに遮る。その声は穏やかで、しかし底に鋭い刃を潜ませていた。
「あなたが失ったものを、今さら取り戻せると思っているんですか?」
「リアン王子、これは私とメアリーの――」
「いいえ」
リアンはメアリーの肩を抱いた。
その仕草には所有を示すような強さがあった。
「これは“僕と彼女”の問題です。もう、あなたは関係ない」
その瞬間、アレクシスの顔から血の気が引いた。
――ざまぁ。
心の奥で、そんな言葉が静かに響いた。
メアリーは何も言えなかった。ただ、リアンの腕の中で震えるしかなかった。
彼の指先が、そっと彼女の腰を引き寄せる。
その距離の近さに、息が止まりそうになる。
「怖がらないで。僕は、あなたを守りますから」
リアンの囁きは優しく、けれど――どこか狂気的だった。
その夜、メアリーは自分の部屋で震えながら思った。
リアンに守られているはずなのに、なぜか心の奥に恐怖が芽生えている、と。
彼の愛は、あまりにも深く、あまりにも強すぎる。
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