金槐の君へ

つづれ しういち

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第一章

48 むばたまの

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 《今日は三限目までなので、四時ごろにはうかがえると思います》
 《いつもありがとうございます。しかし、本当にご無理なさらずに》
 《何度もいいますが、無理なんてしてません! ではまた連絡しますね》

 海斗が律に「テニスサークルを辞める」と宣言してから一週間が過ぎた。
 実は律は、彼がすぐに大学に戻れるものだと思っていた。だが、実際はそうはいかなかった。

 人間の体というのは不思議なもので、入院などして少しでも筋肉を使わない期間ができると、あっというまに筋力が弱ってしまうものらしい。
 ケガをした足には当然、しばらくのあいだ体重をかけてはならないわけで、特にその部位の筋力の低下が激しいらしかった。入院中から医師の勧めもあって、海斗も筋力トレーニングは欠かさなかったようなのだが、それでもすぐに元通りのスピードで道を歩くというわけにはいかなかったのである。

 今後は松葉杖で少しずつ歩ける距離を伸ばし、足に掛ける体重の割合を次第に増やしつつ、定期的にリハビリに通う必要もある。とはいえ幸い、そこは若い男子。回復はかなり早いだろうというのが医師の見立てだった。

 律はその間、大学の講義のない時間を見ては、三日にあげず海斗の手伝いをしにいくようになっていた。
 父親の義之の仕事は、実はかなり多忙らしい。母親はかなり昔に他界されているので、海斗には日常的に細かな身の回りの世話をしてくれる人がいない。もちろんそこは、テニスサークルの面々が手を貸すと言ってくれていたのだったが、海斗はこんなタイミングでそのサークルをやめると言い出してしまったのだ。
 「こんな足になって、テニスでもないでしょうし」というのが彼の言い分である。
 サークルを辞めることになったにも係わらず、メンバーの世話になるというのは海斗としても心苦しいはずだった。
 とはいえ鷲尾だけは「友達甲斐がいのねえこと言うんじゃねえや」と海斗の言い分を一蹴したし、ほかのメンバー数名も、講義のノートなど、できるだけ協力は続行してくれるとのことだった。すばらしい友情である。正直、律には羨ましいかぎりだ。

 ということで当然、基本的には律の出番となった。そもそも彼のケガの原因である自分が、だれよりも彼の力になるのは当たり前の話である。
 時間を見ては海斗の自宅へ出向き、時間が合うときにはリハビリのための通院にも付き添う。松葉杖を二本ついていると、荷物の扱いが面倒な場面が多いからだ。最初のうちこそ「リュックサックやショルダーバッグで用が足りるので」と海斗は固辞したのだったが、律は頑として受け入れなかった。
「いいから手伝わせてください。お願いです。お願いですから!」と言い張ったのだ。

 最初のうちはタクシーでの往復が多かったけれども、やってみてわかったが松葉杖二本の状態で乗車するのはなかなか苦労なのだった。そばで介助できる人間がいるにこしたことはない。

 《講義終わりました。なにか、買って帰ったほうがいいものとかありますか》
 《ありがとうございます。では、申し訳ないのですが──》

 大学が終わってから、こんなメッセージのやりとりをすることが増えた。
 その間、例の「春霞」の件はなんとなくふたりの間で棚上げの状態になっていた。海斗のほうからも、あれから敢えてその話題をしてこない。なぜかはわからなかった。それをいいことに、律もなんとなく忘れたようなふりをしていたのだ。
 気恥ずかしさが先に立ってしまったのかもしれない。
 とにかく、今はそんな色恋よりも彼の体がしっかりと治ることが最優先だと思ったのも事実だった。

 幸いというか、海斗の家は基本的にテーブルと椅子での生活だったし、寝床もベッドを使用していたため、松葉杖での生活でも比較的楽にすごすことができた。これが床に座ったり畳に布団を敷いて寝る生活だったら、かなり大変なことになるはずである。

「本、ここへ置きますね」
「ありがとうございます」

 学校帰りに頼まれる買い物は、勉強や趣味のための本であることが多かった。ときには文具や、食パンや牛乳などの食品をオーダーされることもあった。
 今までは海斗が夕食を作ることが多かったらしいのだが、さすがに無理ということで、律がお弁当や総菜を買ってきたり、ピザなどの出前に頼ったりする生活にチェンジしている。
「すみません、本当は俺が作れればいいんですけど。あんまり料理とかしたことがなくて」と恐縮する律に、海斗も義之も「とんでもない!」とかえって驚いたぐらいだった。必死に断られてしまって、その時はそこまでのことになった。

(でも、そうは言ってられないよな)
 
 そう思ったから、今日はこっそりと材料を買ってきている。前の週末に、母の麻沙子に頼み込んでレシピを伝授してもらったのだ。
 買ってきたものをキッチンのあちこちに片づけてから、律はおもむろに持ってきていたエプロンを身に着けた。

「あの、海斗さん。キッチン、使わせてもらってもいいでしょうか」
「えっ。何をなさるのですか」

 海斗がびっくりして目を丸くした。



むばたまの けぬらし かりがねの きこゆる空に月かたぶきぬ
                      『金槐和歌集』218
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