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第六章 暗雲

2 物見櫓(ものみやぐら)

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「ギーナ……!」

 俺は思わず、彼女の腕を掴んでいた。
 別に強く引いたわけでもなかったのに、ギーナの体はあっさり俺の胸へと倒れこんできた。豊満な胸元がいやおうなしに押し付けられてくる。俺は急いで彼女の肩を押し戻そうとしたのだったが、ギーナの腕が俺の体のうしろに回ってそれを阻んだ。
 寝台の上で、ただ抱き合うような形になる。

「だから……さ。もういいじゃない。ね? ヒュウガ……」

 顎を上げてこちらを見上げてくるその桃色の瞳には、男を誘うためのあざとい色は何もない。それは不思議なぐらいに澄んだ目だった。
 その目を見ると、俺の胸はきりりと痛んだ。
 この女が少女と呼ばれる歳のころから、どんな人生を歩んできたかなんて俺は知らない。知らないが、その表情のずっと奥深いどこかには、いたいけでかよわかったはずの小さな少女が今もひそんでいるような気がした。

「もう、つまんない強情ごうじょう張らないの。女に恥かかせないでよ」
 ギーナは人差し指で俺の胸に「の」の字を書くようにしながら甘ったるい声を出した。
「女はともかく、男がいつまでも『女なんて知りません』ってんじゃ、恥ずかしいだけなんじゃない? いつかほんとに大事な人ができたときにも、上手くいかなくてがっかりさせちゃうかもしれないでしょう。練習だって思えばいいのよ。はただの練習。ほかにはなんにも意味なんてないの」
「いや。そういうことは──」
「いいんだよ。わかってんの。あんたがそういうこと、すごく大事にしてんだってことぐらい」

 俺の言葉におっかぶせるようにしてギーナは言った。彼女は確かに笑っていたが、それが今にも泣きそうな顔に見えるのは、俺の気のせいなのだろうか。

「だからあたしみたいな女とじゃイヤなんだってことも。……わかってんのよ」
「いや。だから、そういうことじゃな……っ」

 言おうとしたところを、ぐいと顎を掴まれて黙らされた。
 そのまままっすぐ、柔らかそうな唇が近づいてくる。ここまで密着されていては逃げようがなかった。いや、本気でそうするつもりなら、いくらでもやりようはあった。渾身の力で彼女の体を突き飛ばし、身を避けることは簡単なはずだった。
 しかし。
 それをやってしまったのでは、彼女をいま以上に傷つけるだろう。
 「やっぱりこんな汚い女は要らないんだ」と、また要らぬ誤解をさせてしまう。

 温かく、甘い吐息が唇にかかった。
 互いの唇の距離は、もう指一本ぶんもない。

(ギーナ──)

 俺はもう、半ば観念しかかった。
 その時。

「にゃーにーを、やってるんにゃ──!!」

 まさに「ドカーン」とでも言いたいような音をたて、扉が激しく開かれた。そこにいたのは片足を大々的に上げたまま、鬼の形相をしたレティ。つまり扉は彼女に蹴りあけられたということらしい。
 さらに彼女の背後には、完全に困って赤面しているライラと、ただにこにこといつもの笑顔を浮かべたマリアまでが立っていた。

「黙って聞いてりゃ、このエロウィザード! ヒュウガっちがマジメなのをいいことに、ここぞとばかりに女の色気で迫りまくりまくってんじゃないのにゃ──! レティの耳には最初っから最後まで、全部ぜーんぶ、筒抜けにゃ──っっ!」
「あら。そのわりには随分と遅かったわね」

 ギーナはしれっと言ってさっさと俺から離れると、立ち上がって髪をかきあげる真似をした。まるで何事もなかったかのような身のこなしだ。女は呆気に取られている俺をちょっと見下ろして苦笑した。

「ごめんなさいね? ヒュウガ。この猫娘がいつになったら飛び込んでくんのかしらって、だんだん面白くなってきちゃって。ちょっとばかりやりすぎちゃったわ」
「……そう、なのか」

 俺は完全に「鳩が豆鉄砲」な顔だったろう。
 いや、大半は「ほっとした」というのが正直なところだったが。

「ほかに何があるってえのよ。やーねえ、もう。ちょっぴり赤くなっちゃって、かーわいい。ヒュウガもまだまだ、男としての修行が足らないってことよねえ?」
「…………」

 つまりこれは、ギーナのただの「遊び」だったという訳だ。彼女がこれまでひた隠しにしていた内なる感情を、やっと少しばかり垣間見させてくれたのかと思ったが、どうやらすべて単なる演技ということだったらしい。
 まことに、女というのは計り知れない。
 俺は思わず、肩を落として息を吐きだした。





 まだ何だかんだと騒いでいる女性がたを置いて、俺はひとり、部屋を出た。
 もう眠れはしないだろうし、どのみち早朝はいつもの鍛錬がある。俺は宿の裏手に回ると、井戸水をくみ上げて顔を洗った。
 いつもどおりにそこでひと通りの合気道の鍛錬をし、さらに<青藍>の素振りをする。普段どおりのルーティンをこなしているうちに、波立っていた精神こころは澄みわたり、雑念は消えていった。
 そうこうするうち、次第に夜が明けてきた。

「おーおー。相っ変わらずド真面目だねえ」

 ちょっと伸びなどしながら裏口からでてきたのはガイアだった。今回は俺の「青のパーティー」と、あちら「赤のパーティー」とが同じ宿に部屋を取っている。

「なんか、そっちの女どもがガーガー言ってたみてえだが。なんかあったの?」
「……いえ。大したことではありません」
「あっそ」

 多少眠そうな顔はしているものの、この男も一応は俺との「契約」なので文句を言ったことはない。ガイアはあれ以来、こうして毎日朝と晩に、俺の稽古に付き合ってくれているのだ。他の方々については、いたりいなかったりである。
 合気道については早々に「なんだそりゃ。一旦忘れろ」のひと言で一蹴されてしまったため、この男から教わるのは主に剣と実戦向きの体技である。
 さらにその数日後、俺と素手で一度やりあってみてから男は言った。

『ま、お前はその<アイキドー>たらいうので体幹がしっかりしてるかんな。若いわりには足腰がしっかりしてんし、体の中心も意識できてる。呼吸の使い方も相手の気を読むことも上手うめえ。俺としちゃあ、手間が省けてラッキーだったぜ』

 つまり戦闘技能において、基本の「き」は身についていると遠回しにお褒めの言葉をいただいたわけだ。
 あちら「赤のパーティー」と合流してから、すでに十日あまりが過ぎている。その間、あちらのデュカリス、ヴィットリオの二人にも協力してもらい、俺は剣の基本的な扱いに加え、実戦に向けた訓練も少しずつ積んできた。ただ、まだ真剣では無理なため、大抵は木刀を使う。
 木剣では日本刀のあの特殊な反りが再現されていないため、これはその後、木を伐りだして作ったものだ。

 なにしろ傭兵あがりのガイアが師匠なもので、その「実戦度」はすさまじい。それは兎にも角にも戦場で「生き残るための剣」である。目つぶし、フェイクは当たり前。生きるため、相手を倒すためならどんな姑息な手段でもいとうなというのがガイアの基本方針だった。
 正直、自分の奉じてきたものとは真っ向から対立する考え方だ。俺も一度腹を括ったのだとは言え、なかなかその考え方には慣れない。頭では分かっても、だからといって体が素直に反応してくれるとは限らないのだ。
 しかし俺の表情からあっさりとそれを見抜いたこの男は、氷のような声で言い放ったものだった。

『それで死にてえってんなら勝手にしやがれ。まあそうなりゃあ、お前が大事にしてるあの女どももズタズタだけどよ』
『魔獣や魔族の中には、やたら女好きなのがいるかんな。それこそ大喜びで殺されたり犯されたり、食い散らかされたりすることになるわけだ。実際この目で、それを見てきた俺が言うんだ。間違いねえよ』
『で? てめえはそれでいいってのかよ。ん?』
『ま、それでいいってんなら文句は言わねえ。勝手にしな。どっちみち、そこから先は俺の仕事じゃねえかんな』──。

 認めよう。背筋が凍った。
 それは先日、あのデュカリスから言われたことの何倍も厳しく、何倍もリアルな話だった。
 もしも俺がここで甘ったれたことを主張しつづければ、ライラやレティ、ギーナに恐るべき災禍がくだる。それはどうあっても避けなければならなかった。本来、いくら「奴隷」だからとは言っても戦場にあんな女性たちを伴っていくべきではないのだ。しかし、俺に与えられたのは彼女たちだった。
 男ならいいと言えるものでもないが、やはり女性をそんな場所へ無理やりに引きずっていくのは承服しかねる事態だった。

 と。
 そのまま何合か、木刀でガイアと打ち合ったときのことだった。
 まだ冷たい夜明け前の空気をぬって、少し遠くのほうからカンカンと板を打ち鳴らすような音が響いてきた。

「む。ちょっと待て」

 ガイアが片手を上げると同時に俺たちはぴたりと体の動きを止め、音の方へと目を向けた。とはいえここからでは近隣の家並みのために問題の音の出どころまでは見えない。

「ありゃあ、物見櫓ものみやぐらだな。なんかあったか──」

 言うが早いか、ガイアは宿の外へと通じる裏木戸のほうへと走り出した。俺も無言でその後を追った。


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