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第一章 闖入者
3 反魂
しおりを挟むひどい渇きが癒え、腹がくちくなった頃合いで、勇者の男はようやく水壺と皿から手を放した。
男が飢えを満たしている間、我と仲介者はじっと男をながめていた。
地の底にある我が住まいは、岩に囲まれた暗所である。闇を見通す目をもつ我らだけならばなんら問題もないことだったが、男のためには暗すぎるであろう。そのため、大気からわずかな《気》を抽出し、小さな灯りをともしてある。
「さっきは、悪かった」
男がだしぬけにそう言いだして、我らはそちらに意識を向けた。
「その……貴様らに『知能がない』などといきなり決めつけた。いや、ずっと決めつけてきた。無礼なことをした。この通りだ」
言って、ひょいと頭部を下げる。彼らの礼儀の一環であるらしいことは、長年のつきあいにより我も理解するところである。
《謝罪には及ばぬことだ。我もまた、そなたの仲間である多くの者の命の火を喪わしめた。それについてそなたに謝罪する意思はなきゆえ》
男は途端に顔をひきつらせ、しばし黙りこんだ。
「……そうか。いや、わかっている」
《なにがわかっていると申すのか》
「だから、謝罪はせぬという貴様の意思がだ。こちらが仕掛けた戦闘なのだ、追い払うのは貴様の権利でもあろう。正当防衛と言われればそうとも言えるし」
《『ケンリ』やら『セイトウボウエイ』とやらの意味はあまり解せぬが。納得してくれると申すならば有難きこと》
「だが」
言って男は、ギラギラと光る眼で我らを睨んだ。泥と煤に汚れた顔の中で、その瞳だけが異様に白く見えた。そこに浮かんでいるのは、明らかな懐疑と、憎しみだ。その奥に隠されたのは深い悲しみなのであろうか。
「アリシアを死なせたことは許さん。俺はいずれ、貴様に復讐の鉄槌を下す。必ずだ。覚えておけ」
だから、ならばなぜ連れてくるのかと問いたかったが、我は敢えて沈黙を守った。我に救われたその命をもって我に復讐を誓うと言う、その矛盾には気づかぬらしい。
男は不意に、きょろきょろと周囲を見回した。男の目で見える範囲には、もう彼の仲間の姿はどこにもないはずだった。
「アリシアはどうした? 他の仲間たちは──」
《命の火の残った者らは数日前に退いた。火の消えた者らについては、この住処とその周辺に生息する者らが引いていった。我らの側の者らだ。すでに処理したあとであろう》
「処理……だと?」
貴様っ、と叫んで男はゆらりと立ち上がった。思わず背後に腕を回しかけたようだったが、そこに担いでいた大剣はすでにない。男は自分の手が何もない場所を探ったことに愕然としたようだったが、ぐっと顎に力を入れてこちらを睨みなおした。
「つまりっ……食わせたのか!? アリシアを……俺の仲間をっ! お前の配下である、あの汚らわしいゴブリンやオークどもに!? この、汚辱の王めが!」
口汚く他者を貶めるのは、穢れた行為ではないのだろうか。
《汚らわしいか否かはそなたに判断をゆだねるところではないが。この世にあるものを食して命を長らえるのは、そなたらニンゲンでも同じではなかろうか》
「なに……?」
《ただその場で腐らせるよりは、血肉に変えて自らと共に少しでも生きさせる。それがこの大地の理である。はるか太古の昔より、その理は連綿と続いてきたし、今も現に続いている》
「ぐ──」
目を白黒させて、男は棒立ちになった。
「しっ、しかしっ……。人間、なんだぞ? 本来であれば敬意を払われ、相応しく葬られるべき者たちを──」
《すまぬが理解に苦しむ。食することは、敬意を払わぬ所業だと申すのか》
「当然だッ!」
「無礼者ッ!」
突如、甲高い声が響いた。金属を打ち鳴らすような、キンキンとやかましい声だ。いままで黙って通訳に徹していた仲介者が、突然己が意思を声にしたのだ。
「オマエ、無礼だ。帝王様はオマエ、助けた。傷を癒して、飲ませて、食わせた。寝ている間も、ずっと守った。帝王さまがおられなければ、オマエ、死んでた。キサマはまず、お礼を言え」
「……う」
勇者が再び絶句した。
人間のメスの姿に似た仲介者は、自分の意思で人間の言葉を発する場合だけ、多少舌たらずな言葉まわしになる。
我はゆらりと自分の《気》を仲介者に向けた。
《無用の口出しは慎め》
《……はい。申し訳ありませぬ》
仲介者は一瞬びくりと固まったが、素直にぴょこんと腰を曲げて少し退いた。
勇者は自分の胸や腕、足などをゆっくりと撫でさすり、そこに傷らしい傷がないことにようやく気づいたようだった。
「傷を……治してくれたと言うのか? 貴様が? 俺の命を救っただと? 一体なぜ──」
《理由などない。単なる気まぐれである。気に掛ける必要はない》
「気まぐれ……。いや!」
男はカッと目を見開いた。
「ではアリシアを! なぜアリシアを救ってくれなかった!」
勇者の声はひと息ごとに、次第に血を吐くような叫びに変わった。
「俺のことなどどうでもよかった! 俺を救うぐらいなら、アリシアを……なぜアリシアを!」
《かのメスはすでに息絶えていた。体の欠損も甚大で、助かる見込みはなかった》
「そ、蘇生呪文があるだろう! 貴様ほどの魔力があるなら……!」
《《反魂》は世界の理を覆す行為だ。そなたらがあまりに乱用するために、この世の均衡はすっかり壊されてしまった……。それに、これは我の力ではない。大地と大気の《気》を集め、具現化させただけのこと。飽くまでもこの世界の力であり、我はその仲介者に過ぎぬ》
男は呆然と俺を見上げている。
《それらの力をいかように使うかは我が決める。他者からのいかなる命令、いかなる圧迫、いかなる恣意にも従う所以はない》
「……そ、それは──」
それは、そうだ。そうかもしれぬと、男は口の中でもごもご言った。急にうなだれ、顔を両手で覆って地面に膝をついた。
「だが、俺は……生きていて欲しかった。アリシアは俺の命よりも貴重だった。この世の何にも替えがたき至宝であり、太陽だった……俺にとっては」
《左様であろうな》
我は静かにそれだけ言った。
そうしてしばらく、男が手の下で必死に嗚咽を堪えるのを聞き、手の間から滴る雫をじっと見ていた。
《……そなた、名は》
「カリアード」と、男はか細く、呻くような声で答えた。
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