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第一章 闖入者
4 カリアード
しおりを挟むそこからの男──「カリアード」と本人は名乗った──は、しばらくしゃべらなくなった。
洞窟の片隅に膝をかかえて座りこみ、じっと動かない。時おり頭を抱えてぼそぼそと声を立てる。恐らくは喪われた番のメスの名や、そのほかの仲間の名ではなかったかと思われる。完全にふさぎ込んだ状態だった。
我は男を放っておいた。
仲介者に命じてその横に水と食物を置いてやったが、あとのことは意に介さなかった。
もう少し体力が戻らなければ、自力で仲間のもとに戻ることも叶わぬだろう。それまではここにいるほかはない。男には、ここで体力を回復させるほかできることなどないはずだった。
──しかし。「カリアード」とはな。
我はひとりごち、ゆっくりと頭のなかでその人間の名を繰り返した。
いくつの夏が巡る前のことだったか。
我は初めて「ニンゲン」たちの一群から攻撃を受けた。そこで勇者として仲間の最前線に立っていたオスの名が、確かそれであったかと思う。
とはいえ彼らの名というのは唯一無二のものではないため、そうしたことも多々起こるようだ。過去の英雄の名にあやかって、わが子にその名をつける親も多いと聞く。
昼間の時間、カリアードは毎日のように外へ出ていった。自主的にではない。ほとんどは仲介者に引きずられるようにしてである。人間はあまり長く炎の星の光を浴びずにいると、それだけで体が病むらしい。それゆえ我が、そうしてやれと仲介者に命じたのである。
彼女の報告によれば、最初、男はただぼんやりと岩の上に座っているだけだったらしい。「魔王の森」などと呼称される深い森の開けた場所で昼の光を浴び、ひたすらに鬱々と何かを考え込む様子だったと。
だがそのうち、じっとしていることに耐えられなくなったらしい。男はだれか他の者の落としていった剣を拾うと、今度は一日中それを振りぬくことに専念しはじめた。
そうやって体を動かし、食事をしっかりととることで、男は次第にもとの健康な体を取り戻していった。
もとからひどい臭いを振りまいていた男だったが、動き始めると悪臭はますますひどくなった。そばにいる仲介者は鼻をつまんで、終始渋い顔をしていた。
遂に辟易した彼女から「あそこに泉がアル。『オンセン』とやらいうのもあるぞ。いい加減、体を洗え」と叱られて、男は渋々、一日一度、泉や温泉での入浴をするようにもなった。
《帝王さま。あの者はいずれ、ふたたび帝王さまのお命を狙うつもりでおります。放っておいてよろしいのですか》
仲介者は心配顔で何度もそう訊いてきたが、我は「好きにさせておくがよい」と返事をしたのみだった。
勇者ただひとりで、我を滅することは不可能である。だからこそ、彼らはパーティを組み、レイドを組むなどして組織的な討伐戦を計画するのだから。
まして勇者は、物理的な戦闘に長けているぶん、大地や大気の《気》を操ることに疎い。それらを利用して己が身を保護し攻撃力の高い「魔撃」を撃たねば、我に勝つなど到底無理な相談なのである。
それがわかっているからなのか、はたまた不思議な開き直りの境地にでも達したものか、勇者は悠々と過ごしているように見えた。重そうだった鎧などの装束はとうに放り投げ、下に着ていた素朴な普段着だけの姿になっている。
果実と水だけでは到底その腹が満たされないらしく、男は手製の弓で近くの森から小動物などを仕留めてきては勝手に焚火をおこし、焼いて食った。木の根や芋などもあちこちで見つけてきては、巧みに煮込んで食すようだ。
日を追うにつれ、もとはつるりとしていた勇者の顔には体毛が伸び、髪と見分けがつかなくなってきた。
仲介者は、さも気味悪そうな目でそんな勇者を観察していた。
そうこうするうち、仲間の者らから報告が入った。
先日、この勇者を筆頭に我を滅しにきた面々の生き残りが、彼らが呼称するところの「魔の森」を遂に抜け、ニンゲンの国へ帰還したというのだ。
「……そうか。無事に戻れた者がいるのは幸いなことだった」
我がその報せを教えてやると、勇者はそう言って、少し落胆したようだった。
なんとなれば、我らの仲間の多くが住まう「魔の森」を彼ひとりで抜けることは不可能だからである。
勇者は確かに素晴らしい力を持つ。もちろん「ニンゲンにしては」という注釈つきではあるものの、同胞の何十人分もの攻撃力と、肉体的・精神的な耐性を誇っている。それゆえにこそ、レイドの指揮官にもなりうるわけだ。
だが、「魔法」を使えぬ者がひとりで潜り抜けるには、あの森の環境は厳しすぎる。もとは我らの同胞だった「ゴブリン」や「オーガ」そのほかのいわゆる「魔族」が何千、何万も跋扈する森なのだ。彼らが飼いならしてしまった哀れなドラゴンたちの翼を借りるか、《浮遊》の魔法でも使って飛び越えるしか方法はない。
この勇者は、もはや帰る足を失ったも同然だった。
しかし、男は不撓不屈の精神を持っていた。仲間たちに見捨てられたことへの不満や落胆も少なからずあったであろうに、いつまでもぐずぐずとそのことにこだわり、自分を哀れむ様子はなかった。
「仲間たちはひどく傷ついていた。俺ひとりのためにあの危険な道を戻ってこいなどとは言えぬ。そんな無茶を言うつもりはない」と言い切ったのだ。
そこはさすが、鍛えあげられた勇者の胆力というべきか。
我は少し、この男を見直した。
「ときどき話をしてもいいか、オークの王」
ここでの暮らしが数十日にも及ぶと、勇者カリアードは次第に我に対しても気負いなく声を掛けてくるようになった。最初のころの警戒心をむき出しにした表情からは一転し、今ではごく穏やかな目の色になっている。
《我と話がしたいのか。なにゆえに》
「頭がヒマすぎる。女のようにぺちゃくちゃとおしゃべりばかりするのは好まんが、こうまでたった一人の時間と沈黙が続くと、頭が変になりそうだ」
《なるほど》
我は体をゆすって少し笑った。それだけで洞窟内に地鳴りのような音が轟き、カリアードは一瞬ハッと身構えた。が、すぐにその理由に気づいてチッと舌を鳴らし、我を睨んだ。
「貴様、いい加減にしろ。いちいち脅かすな」
《驚くのはそなた自身の問題である。少し身動きをしただけで、勝手に驚かれても困る。まして文句を垂れられるなど迷惑千万。そこもと、鍛錬がまだ足りぬのではあるまいか》
「いちいちムカつく野郎だな」
男は鼻を鳴らし、伸びた髪をがしゃがしゃとかき回した。
そのままどかりと我の目の前に胡坐をかく。
「貴様には、訊きたいことが山ほどある。答えたくないことは答えなくて構わん。少し付き合え」
《黙秘は当然の『ケンリ』であるな。よかろう。訊ねたき儀は何か》
「まずは貴様自身のことだ。そも、貴様は何者か」
《我が何者か……か》
おう、と男が顎を縦にふる。脇に置いた食物の皿から、果実のひとつを無造作にとって口に運びながらだ。ずいぶんとこの環境に慣れたものである。
男が逞しく白い歯で果実をかじると、甘酸っぱいよい匂いがあたりに漂った。
《我には、我が何者であるかは語れぬ。生まれたとき、意識をもったときから我は我であった。そなたら人間のずっとずっと前の祖先が、まだ大海の中の砂粒のような生きものであった時代から》
「……そんなに古い時代からか」
男は呆気にとられた顔になったが、「続けろよ」と先を促した。
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