14 / 29
夜道
しおりを挟む
星志のいない歩道橋で、一人月を眺める。
星志もきっと今、月を眺めている。体は別々の場所にいるけれど心は隣り合っている。
私は八時から九時の間、毎日歩道橋の上にいた。星志が来ないのを承知で。
月を眺めながらスマホでショパンの別れの曲を繰り返し聴いていた。
星志の声が、笑顔が、優しさが、曲の間から溢れてくるような気がした。
私は塾をやめた。
正確には両親に辞めさせられた。今は家庭教師を探している状態だけれど、私にはどうでもいいことだった。
けれど両親にとってはどうでもいいことではなかったようで、特に母は私が変わってしまったと嘆いた。
私に変わった意識などなかった。ただ自分に正直になっただけだった。両親が望んだ形の人間にはなれない私を偽りなく見せた、それだけのことだ。
笑いもせず口も利かない私を、母は元の『人間のふりをした私』に戻したくて躍起になっていた。仕事を休み、学校から帰った私を捕まえて話し合いを持とうとする母が鬱陶しい事この上なく、学校から帰ると部屋に閉じこもって本を読んで過ごした。
八時になると自転車で歩道橋へ行った。歩道橋の上で一時間、夜空を見上げて過ごし、携帯の九時のアラームが鳴ると帰る。他人にすれば無意味な、けれど私にとっては何よりも大切な時間だった。
母にはそれが分からない。私も理解する気のない母相手に説明する気持ちはなく、毎夜怒り喚く母を振り切って家を出た。
親との不和など全く気にならなかった。星志の怪我は大丈夫だろうか。今も痛みに苦しんでいないか。そればかり気になった。
この世は辛いことばかりだと泣いた星志。あの細い体に何を背負っているのだろう。
抱きしめた時の切ない温もりはまだ私の腕に残っていた。
歩道橋からの帰り道、細い路地から突然走り出てきた人影を避けようとして、自転車ごと倒れた。
「すみません! 大丈夫……」
ですか、と続くと思われた声が、
「え、ええ? 久保田?」
という驚きに変わった。
のろのろと見上げると、トレーニングウェアー姿の柚木君が唖然とした顔で私を見下ろしていた。
汗まみれで息が荒いところを見るとランニングでもしていたのだろうけど、私には関係ないことだった。
「一人なのか? こんな時間にどうしたんだ」
問いかける彼に答えず、私は立ち上がり自転車に乗って走り出した。
「ちょ、待てよ」
後ろから彼が走ってついてきた。が、私は振り向きもしなかった。
「なあ、久保田……何やってんだよ」
私は返事をしなかった。どこかへ行ってたのかという問いではなく、最近の学校での私の態度への問いかもしれなかったけれど、どっちにせよ答える気なんてない。
学校でも、私は誰ともしゃべらなくなっていた。
誰に話しかけられても、完黙、無表情。両親に異形さを晒した今、人になる努力など無意味だ。だからやめた。ただそれだけ。努力しなければ、そもそも私の持つ本質はこんなにも愛想なく冷たいものだったというだけの話。
話しかける者はあっと言う間にいなくなったけれど、かえって安らいだ。
もう人を演じなくていいから。
「杉野と喧嘩したんだって?」
彼女からそう聞いたのだろうか、柚木君はそう聞いてきた。
喧嘩なんて大げさなものではない、言い争いにもならない不毛な会話なら、確かに最近した。
――ちょっと、待ってよ
放課後、校門を出た所で、追いかけてきた杉野さんと小林さんに呼び止められた。
――奈緒、近頃どうしたの? 少しおかしいよ? 何かあったの?
杉野さんにはいつからか名前で呼ばれていた。それは私が彼女の友人のカテゴリーに入っている証でもあった。急に誰とも口を利かなくなった友人である私を心配してくれているのだろうと分かっていながら、それでも鬱陶しかった。
別に、と一言愛想なく言い捨てて帰ろうとした私に、杉野さんが怒鳴った。
――そんな言い方ないでしょ! 心配してるのにっ!
心配して欲しいと頼んだ覚えはない。それはそっちの勝手な言い分だ。
――杉野さんも小林さんも、優しいね
私は振り返り、無表情に言った。
――二人とも普通に、自然に、人に優しくできる人よね
でも私は違うの、と私は表情を変えずに告げた。
――私は相当な努力をしなければ、人並みの優しさを持てないの。皆が普通に感じられることが私には感じられないから、今までは頭で考えて、一番よさそうな手本通りに振舞ってたけど、もうやる気がしなくなったの
――ナオナオ……言ってる意味が……分からないよ
小林さんが悲しげに頭を振ったけれど、元々理解なんて求めてなどいなかった。
――うん……分からなくていい。分からない方がまともよ
だから異常者の私なんて放っておけばいい。
私は二人にそう言って、歩き出した。
もう二人も追っては来なかった。
「いいかげん仲直りしたらどうだ?」
杉野さんは柚木君に何をどう話したのだろう。話を全然理解していないのか、それとも完璧に無視しているのか、思いもよらない提案をしてきた。
「何だったら俺が杉野に話してやるよ。あいつ怒りっぽいけど、そんなに根に持つような奴じゃないし、杉野だって何か言い過ぎたって後悔してて、謝るきっかけがないだけかもしれないだろ? な?」
何がどうでも柚木君には関係ない。私は最善を尽くして彼を無視した。
「――待てよっ!」
彼は怒鳴り、私の前に回り込んで行く手を塞いだ。
「そんなに無視されるほど、俺はお前に悪いことした覚えはないぞ!」
きつい瞳が私を射る。強い意志の宿る瞳だ。強い意志の……。
「……強くなるには……どうしたらいいの?」
は? と彼は間抜けた返事を返した。
「大人になれば強くなれるの?」
星志に問われたことを私は聞いてみた。私には答えられなかった問いに、柚木君なら何と答えるだろう。
「強くなるには、って……そりゃあ……その」
惚けていた彼は気を取り直し、
「空手、習ったらどうだ?」
それが彼の『強さ』の基準か。
人に殴られる前に、殴り倒せる者に――酷く偏った、乱暴な思考だ。
それともみんなそうなんだろうか。
「大人になっても弱い奴は弱いし、強い奴は子供でも強いぞ。歳なんか関係ないんじゃないか。――大体」
何の話だよ、それは、と首を傾げた。
「……弟が」
と私は言い換えた。酷く殴られて帰ってきたのに、事情を何も話してくれない、と。
「……ただ……強くなりたいって……言うの」
「当たり前だろ。久保田の弟がいくつかは知らないけど、男なんだから」
男なら力が欲しいのは当たり前だ、と何故か柚木君は胸を張って言った。
「……十分強いと思うぞ」
彼はいつもの柔らかい笑みを見せた。
「何も言わないのは姉ちゃんに心配かけたくないからだろ。優しい奴じゃないか。強さがなきゃ、優しくなれない。久保田の弟は強いよ」
星志に聞かせてあげたい、この言葉を。
泣いたあの夜に、今戻れたらいいのに。
柚木君はそれ以上何も言わずに、私が家に帰り着くまで自転車の後ろについて走ってくれた。
「じゃ、また明日な」
軽いフットワークで柚木君は来た道を戻っていった。
私は柚木君のスポーツで鍛えた背中を見て、あの日抱きしめた星志の薄い身体を思い出して無性に泣きたくなった。
星志もきっと今、月を眺めている。体は別々の場所にいるけれど心は隣り合っている。
私は八時から九時の間、毎日歩道橋の上にいた。星志が来ないのを承知で。
月を眺めながらスマホでショパンの別れの曲を繰り返し聴いていた。
星志の声が、笑顔が、優しさが、曲の間から溢れてくるような気がした。
私は塾をやめた。
正確には両親に辞めさせられた。今は家庭教師を探している状態だけれど、私にはどうでもいいことだった。
けれど両親にとってはどうでもいいことではなかったようで、特に母は私が変わってしまったと嘆いた。
私に変わった意識などなかった。ただ自分に正直になっただけだった。両親が望んだ形の人間にはなれない私を偽りなく見せた、それだけのことだ。
笑いもせず口も利かない私を、母は元の『人間のふりをした私』に戻したくて躍起になっていた。仕事を休み、学校から帰った私を捕まえて話し合いを持とうとする母が鬱陶しい事この上なく、学校から帰ると部屋に閉じこもって本を読んで過ごした。
八時になると自転車で歩道橋へ行った。歩道橋の上で一時間、夜空を見上げて過ごし、携帯の九時のアラームが鳴ると帰る。他人にすれば無意味な、けれど私にとっては何よりも大切な時間だった。
母にはそれが分からない。私も理解する気のない母相手に説明する気持ちはなく、毎夜怒り喚く母を振り切って家を出た。
親との不和など全く気にならなかった。星志の怪我は大丈夫だろうか。今も痛みに苦しんでいないか。そればかり気になった。
この世は辛いことばかりだと泣いた星志。あの細い体に何を背負っているのだろう。
抱きしめた時の切ない温もりはまだ私の腕に残っていた。
歩道橋からの帰り道、細い路地から突然走り出てきた人影を避けようとして、自転車ごと倒れた。
「すみません! 大丈夫……」
ですか、と続くと思われた声が、
「え、ええ? 久保田?」
という驚きに変わった。
のろのろと見上げると、トレーニングウェアー姿の柚木君が唖然とした顔で私を見下ろしていた。
汗まみれで息が荒いところを見るとランニングでもしていたのだろうけど、私には関係ないことだった。
「一人なのか? こんな時間にどうしたんだ」
問いかける彼に答えず、私は立ち上がり自転車に乗って走り出した。
「ちょ、待てよ」
後ろから彼が走ってついてきた。が、私は振り向きもしなかった。
「なあ、久保田……何やってんだよ」
私は返事をしなかった。どこかへ行ってたのかという問いではなく、最近の学校での私の態度への問いかもしれなかったけれど、どっちにせよ答える気なんてない。
学校でも、私は誰ともしゃべらなくなっていた。
誰に話しかけられても、完黙、無表情。両親に異形さを晒した今、人になる努力など無意味だ。だからやめた。ただそれだけ。努力しなければ、そもそも私の持つ本質はこんなにも愛想なく冷たいものだったというだけの話。
話しかける者はあっと言う間にいなくなったけれど、かえって安らいだ。
もう人を演じなくていいから。
「杉野と喧嘩したんだって?」
彼女からそう聞いたのだろうか、柚木君はそう聞いてきた。
喧嘩なんて大げさなものではない、言い争いにもならない不毛な会話なら、確かに最近した。
――ちょっと、待ってよ
放課後、校門を出た所で、追いかけてきた杉野さんと小林さんに呼び止められた。
――奈緒、近頃どうしたの? 少しおかしいよ? 何かあったの?
杉野さんにはいつからか名前で呼ばれていた。それは私が彼女の友人のカテゴリーに入っている証でもあった。急に誰とも口を利かなくなった友人である私を心配してくれているのだろうと分かっていながら、それでも鬱陶しかった。
別に、と一言愛想なく言い捨てて帰ろうとした私に、杉野さんが怒鳴った。
――そんな言い方ないでしょ! 心配してるのにっ!
心配して欲しいと頼んだ覚えはない。それはそっちの勝手な言い分だ。
――杉野さんも小林さんも、優しいね
私は振り返り、無表情に言った。
――二人とも普通に、自然に、人に優しくできる人よね
でも私は違うの、と私は表情を変えずに告げた。
――私は相当な努力をしなければ、人並みの優しさを持てないの。皆が普通に感じられることが私には感じられないから、今までは頭で考えて、一番よさそうな手本通りに振舞ってたけど、もうやる気がしなくなったの
――ナオナオ……言ってる意味が……分からないよ
小林さんが悲しげに頭を振ったけれど、元々理解なんて求めてなどいなかった。
――うん……分からなくていい。分からない方がまともよ
だから異常者の私なんて放っておけばいい。
私は二人にそう言って、歩き出した。
もう二人も追っては来なかった。
「いいかげん仲直りしたらどうだ?」
杉野さんは柚木君に何をどう話したのだろう。話を全然理解していないのか、それとも完璧に無視しているのか、思いもよらない提案をしてきた。
「何だったら俺が杉野に話してやるよ。あいつ怒りっぽいけど、そんなに根に持つような奴じゃないし、杉野だって何か言い過ぎたって後悔してて、謝るきっかけがないだけかもしれないだろ? な?」
何がどうでも柚木君には関係ない。私は最善を尽くして彼を無視した。
「――待てよっ!」
彼は怒鳴り、私の前に回り込んで行く手を塞いだ。
「そんなに無視されるほど、俺はお前に悪いことした覚えはないぞ!」
きつい瞳が私を射る。強い意志の宿る瞳だ。強い意志の……。
「……強くなるには……どうしたらいいの?」
は? と彼は間抜けた返事を返した。
「大人になれば強くなれるの?」
星志に問われたことを私は聞いてみた。私には答えられなかった問いに、柚木君なら何と答えるだろう。
「強くなるには、って……そりゃあ……その」
惚けていた彼は気を取り直し、
「空手、習ったらどうだ?」
それが彼の『強さ』の基準か。
人に殴られる前に、殴り倒せる者に――酷く偏った、乱暴な思考だ。
それともみんなそうなんだろうか。
「大人になっても弱い奴は弱いし、強い奴は子供でも強いぞ。歳なんか関係ないんじゃないか。――大体」
何の話だよ、それは、と首を傾げた。
「……弟が」
と私は言い換えた。酷く殴られて帰ってきたのに、事情を何も話してくれない、と。
「……ただ……強くなりたいって……言うの」
「当たり前だろ。久保田の弟がいくつかは知らないけど、男なんだから」
男なら力が欲しいのは当たり前だ、と何故か柚木君は胸を張って言った。
「……十分強いと思うぞ」
彼はいつもの柔らかい笑みを見せた。
「何も言わないのは姉ちゃんに心配かけたくないからだろ。優しい奴じゃないか。強さがなきゃ、優しくなれない。久保田の弟は強いよ」
星志に聞かせてあげたい、この言葉を。
泣いたあの夜に、今戻れたらいいのに。
柚木君はそれ以上何も言わずに、私が家に帰り着くまで自転車の後ろについて走ってくれた。
「じゃ、また明日な」
軽いフットワークで柚木君は来た道を戻っていった。
私は柚木君のスポーツで鍛えた背中を見て、あの日抱きしめた星志の薄い身体を思い出して無性に泣きたくなった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
0
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる