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星の街の二人
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私達は街外れにある古びたビルの屋上に上がった。
錆びた非常階段──これが天国への階段ならなんて長い。途中、息切れして二度ほど立ち止まってしまった。
屋上には柵がなく、私の膝ほどの高さの段差があるだけだった。
「奈緒、ハンカチ持ってる?」
私が差し出したハンカチで、星志は自分の右手と私の左手を縛った。ハンカチで結ばれた手をつなぎ、私達は段の上に上がった。
まだ夜の中に沈んでいる街に蛍のような明かりが灯っている。
ああ……違う。蛍なんかじゃない。星だ。
星が街中に降ってきたようだ。
私達も今から一瞬の流星に──そしてずっと二人でいられる世界へ。
大きく深呼吸した時。
私の左手が震えた。
私じゃない。星志が震えているんだ。
私は星志を見た。
星志は──微笑んでいた。
「奈緒……街の灯が星みたいだ」
切なく、悲しく、透明な笑顔。
「……ここに宇宙があるよ。僕らは宇宙の中にいるね」
星志は笑ったまま視線を遠くする。
「僕の星は……どこにあるのかな……」
瞬間、鮮明に甦る記憶。
――いつか、おっきな天体望遠鏡、買うんだ
名前のついた星は遥か天上に。
ここから下に落ちても、そこに求めたものはないのだ。
「──星志!」
私は星志の右手を引っ張って。
後ろに飛んだ。
屋上のコンクリートの床に背中から落ちたけれど、痛みはなかった。
それより、星志は。
星志は──隣にいた。
仰向けに倒れたまま大きく息を一つ吐くと、私の方に顔を向けて静かに、笑った。
星志の笑顔を見て、涙が溢れた。
「星志……ごめんね! ごめんね!」
私は星志を殺すところだった。こんなにも優しい星志を。
「……謝ることなんてないよ、奈緒」
星志はゆっくり体を起こして、私を覗き込んだ。あの穏やかな笑顔のまま。
「僕はいいと言ったじゃない」
私は横たわったまま、右手で星志を胸に抱き寄せた。
「僕は……本当に良かったんだ」
奈緒と一緒なら……。
星志は私の胸の上で、そう呟いた。
流星になり損ねた私達は、並んで寝転んだまま空を見ていた。
「……僕が前に怪我をしたのはね」
唐突に星志が語りだした。
「お母さんに殴られたからなんだ」
告白は思いがけないものだった。
「僕のお母さんは……アルコール依存症っていうのかな、お酒を飲まなきゃいられないんだよ。それにお酒を飲みすぎたり、精神状態が悪かったりすると、酷く暴れるんだ。暴れて……僕を殴る」
でも、本当はとても優しい人なんだ、と星志は笑った。
「優しいから……お酒を飲まなきゃいられなくて、僕を殴った後、死ぬほど後悔して泣いて謝って……優しいから、とてもかわいそうだ」
レコーダーもあの時とばっちりを受け、壊れたのだった。
「お母さんがこんなふうになったのは、お父さんが死んでからなんだ」
星志の父親はトラックの運転手をしていて、星志が八歳の時、高速道路で居眠り運転をし、事故を起こしたのだそうだ。
乗用車に追突し、車は炎上。乗用車に乗っていた四人が死亡した。星志の父親は軽傷だったが、消防と警察に連絡すると高速道路を歩いて下り、近くの林で首を吊った。
「お父さんのお葬式の後に事故で死んだ人の親戚の人が何人も来て、お父さんが自殺したのは卑怯だって怒った。生きて責任を取らなかった卑怯者だって。……お母さんはその人達に土下座して謝ってた。お母さんだって、お父さんが死んですごく悲しかったのに。すごく辛かったのに」
──お父さんがいない間は、お前がお母さんを守ってくれよ
仕事に行く前、父親は必ずそう言ったという。
「お父さんと約束したんだ……お母さんを守るって。けど……守れなかった」
その時住んでいた家は父親が勤めていた会社の社宅だったので、すぐに追い出された。その上、父が事故で壊したトラックの修理代まで請求された。
引っ越した家には事故のことで星志たちを中傷する手紙が送られてきたり、近所にビラを貼られたりしたので、また引っ越した。嫌がらせは家だけでなく母親の勤め先にまで及んで、退職を余儀なくされた。
星志の母には頼れる肉親はいなかった。亡くなった父も天涯孤独だったので、親戚もいない。保証人もおらず何の資格も技術も持っていない母は、トラックの修理代と生活費のために時給の良い水商売を選ばざるを得なかった。
「お母さんは辛くても相談する人が誰もいなくて、お酒で誤魔化すしかなかったんだ。僕が子供で頼れないから、お母さんはお酒に頼ってしまった」
それでも頑張っていた母が崩れ始めたのは、一年ほど前だった。父の葬式後に乗り込んできた事故の遺族の一人が、母の勤める店に来たのだそうだ。偶然だったのかわざわざ探し出したのかは分からないがそこで酷い嫌がらせを受け、勤め先を変えた。
同じ頃、星志へのイジメが始まった。
――お前の親父、人殺しなんだってな
母の店に来た遺族が星志の学校の友人たちに何か言ったという証拠はない。が、タイミング的にそれしか考えられなかった。
イジメのことは母には言わなかった。言えなかった。クラスメイトに何を言われても、ただひたすら耐えた――なのに。
――白木君は死亡事故を起こして亡くなった父親のことで、クラスの子からイジメを受けているようです
担任教師がある日母を学校に呼びつけ、無神経にそう伝えた。
母の酒量が目に見えて増えたのはそれからだった。
酒量に比例して母の言動はおかしくなっていった。郵便物を見れば中傷の手紙がきたと騒ぎ、電話がかかってくれば非難する電話だと怯えた。精神の不安定さは徐々に酷くなっていき、酒に酔っている間は多少ましだったが、酔いも過ぎると気が荒れて何かある度に星志を殴った。そのくせ醒めると星志の姿が見えないだけで不安がり、泣く。
星志が学校へ行かないのは自発的な登校拒否なんかではなく、ひどいイジメとろくに家事もできなくなった母の世話をするためだった。
二重人格者のようになってしまった母と二人きりの生活の中で、心癒せるのは読書している時と外へ出て夜空の星を眺めている時だけ。
何の希望も見出せない毎日に、祈るのは唯一つ。
「早く……大人になりたかった。大人になって……強くなって……お母さんを守ってあげたかった」
星志の瞳からこぼれ落ちた涙は、汚れなく美しかった。
「……でも……僕、疲れて……何もかも……もうどうでもいいと……思ってしまって……」
言葉が涙で途切れる。私も泣いて何も言えなかった。
「僕には……あの詩を書いた人が……退屈だって死んだ気持ち……よく分かるよ」
僕も退屈だったから、と星志は泣きながら笑った。
「期待された目標に向かって頑張って、頑張って……それでも届かなくて挫けた時……もうそれ以上自分には何もできないって絶望したら……後に何が残る? ……何も残らない。からっぽだよ。その虚しさを、あの人は『退屈』って言ったんだ」
極限まで努力したゆえの深い絶望は虚脱感を生み、虚脱感は無気力感を生む。
その空虚さは退屈に、似ている。
「もし戦場に生まれていたら……もし生死に関わる病を患っていたら……自分は今とは違う自分になれていたんじゃないかって……僕だって考えたことあるよ。あの人だって銃で敵を撃ちたかった訳でも……病気で苦しみたかった訳でもない。ただ、今いる場所とは違う場所に立ちたかったんだよ」
そして彼は別の場所へ旅立った。
退屈から自分を解放するために。
「でもあの人が一番言いたかったのは……愛を知らない、ってことじゃなかったのかな」
星志は自分に問いかけるようにひっそり呟いた。
「あれは……自分を愛することを知らないって嘆きだったような気がする」
それなら、私もそうだ。
優しい人になりたい。でも、なれない。
星と星の間の距離より、自分と他人の距離より、現実の自分と理想の自分の距離の方が遥かに遠く測りきれず、努力しても理想に近づけない自分を愛せなかった。
「私だって……愛なんて知らない」
「僕だって知らないよ」
星志は軽く笑い、
「けど……いつかは知ることができるって、今は信じられるよ。……奈緒がいるから」
ぽろぽろ涙をこぼした。
「あの時……奈緒がパンくれたの……すごく嬉しかったんだ。……世の中には……こんなに優しい人が……いるんだって……びっくりした。……奈緒はあれを『計算』って……言ったけど……そんなの嘘だ。……僕は信じないよ……だって奈緒は本当に」
優しい、と星志は微笑んだ。
私は優しくなんてない。けれどこんな私でさえ優しいと感じるなら、それまでどんなに辛いことばかりだったか。生きるのは辛いと泣く権利が、星志にはある。
星志が背負うものを知って、私は自分がいかに甘ったれで愚かだったか思い知った。
星志は母親の悲しみや苦しみまで受け止めようとしているのに、自分のことばかり哀れんでいた私は彼より格段に子供だった。
星志はこんな私を許してくれた。優しいと言ってくれた。私は私を許せず、人ではないと絶望しかけていたのに。
私はまず嘆くよりも自分を許すことを知るべきだったのだ。
空は東の端から少しずつ夜の色合いを消し始めていた。
「朝が来るね……奈緒」
そして私達はそれぞれの現実に戻らなければならない。
「夜明けなんて永遠に来なければいいのに……」
星志の呟きは悲しみを含んで、重い。
「夜が明けたら……また奈緒はいなくなる……星も見えなくなってしまう。僕の前から消えてしまう」
「――そんなこと、ない!」
私は叫んで身体を起こした。
「見えなくなっても――消えてなくなるわけじゃないわ! 私はいつだってこの空の下にいるの! 星もいつだって空にあるの!」
思いを込めて、私は星志の手を強く握った。
「ね、約束しよう? 天体望遠鏡、いつか絶対二人で買うって。天体望遠鏡を買って、モンゴルの草原へ行くって」
星志は目を見開き、すぐに目を細めた。
「一緒に見たいよ。星志の名前がついている星を」
うん、と星志は頷いて私の手を握り返した。
私達の手はハンカチで縛ったままだったけれど、それがなくても強く結ばれていた。
まだ夜が明けきらない街角で、私と星志は別れた。
昨日までなら、星志は私を送ると言っただろうし私もそうして欲しいと思っただろう。けれど、この空の下でつながっている私達に未練がましい淋しさはなかった。
一人帰る途中、猛烈に喉が渇いて自動販売機でミネラルウォーターを買った。あれほど泣いた後だからか、砂漠の遭難者のように一気に飲んでしまった。
空になったペットボトルを見て、私は思わず微笑む。
体に水が必要なように私には星志が必要で、星志には私が必要なのだ。
まだ少し物足りなくてミルクティーを買ったけれどゆっくり飲みたくて、そのまま家に持って帰った。
電気も点けず、まだ薄暗いリビングのソファーでミルクティーを飲んでいると、母が起きてきた。
「どこか……行ってたの」
「うん……散歩。眠れなくて……」
一夜丸々寝ていない。睡眠不足のはずなのに、妙にすっきり頭が冴えていた。
「大丈夫?」
そう聞いた母の方が倒れそうな顔色だった。
大人だからってみんなが強い訳じゃないんだ。
「……眠れなかったんなら、今日は学校、休む?」
「大丈夫よ。行く。──私は学校に行けるんだから」
星志は行きたくても行けない。何の妨げもなく学校に行ける私が多少のことで学校を休んだら、星志に会わせる顔がない。
「……お母さん……ごめんね」
何を謝ったのか自分でも分からない。
多分、全てのことを、だ。
「……いいの……いいのよ……」
声が掠れ、母は俯いた。
何を許してくれたのか。
きっと、全てのことだろう。
錆びた非常階段──これが天国への階段ならなんて長い。途中、息切れして二度ほど立ち止まってしまった。
屋上には柵がなく、私の膝ほどの高さの段差があるだけだった。
「奈緒、ハンカチ持ってる?」
私が差し出したハンカチで、星志は自分の右手と私の左手を縛った。ハンカチで結ばれた手をつなぎ、私達は段の上に上がった。
まだ夜の中に沈んでいる街に蛍のような明かりが灯っている。
ああ……違う。蛍なんかじゃない。星だ。
星が街中に降ってきたようだ。
私達も今から一瞬の流星に──そしてずっと二人でいられる世界へ。
大きく深呼吸した時。
私の左手が震えた。
私じゃない。星志が震えているんだ。
私は星志を見た。
星志は──微笑んでいた。
「奈緒……街の灯が星みたいだ」
切なく、悲しく、透明な笑顔。
「……ここに宇宙があるよ。僕らは宇宙の中にいるね」
星志は笑ったまま視線を遠くする。
「僕の星は……どこにあるのかな……」
瞬間、鮮明に甦る記憶。
――いつか、おっきな天体望遠鏡、買うんだ
名前のついた星は遥か天上に。
ここから下に落ちても、そこに求めたものはないのだ。
「──星志!」
私は星志の右手を引っ張って。
後ろに飛んだ。
屋上のコンクリートの床に背中から落ちたけれど、痛みはなかった。
それより、星志は。
星志は──隣にいた。
仰向けに倒れたまま大きく息を一つ吐くと、私の方に顔を向けて静かに、笑った。
星志の笑顔を見て、涙が溢れた。
「星志……ごめんね! ごめんね!」
私は星志を殺すところだった。こんなにも優しい星志を。
「……謝ることなんてないよ、奈緒」
星志はゆっくり体を起こして、私を覗き込んだ。あの穏やかな笑顔のまま。
「僕はいいと言ったじゃない」
私は横たわったまま、右手で星志を胸に抱き寄せた。
「僕は……本当に良かったんだ」
奈緒と一緒なら……。
星志は私の胸の上で、そう呟いた。
流星になり損ねた私達は、並んで寝転んだまま空を見ていた。
「……僕が前に怪我をしたのはね」
唐突に星志が語りだした。
「お母さんに殴られたからなんだ」
告白は思いがけないものだった。
「僕のお母さんは……アルコール依存症っていうのかな、お酒を飲まなきゃいられないんだよ。それにお酒を飲みすぎたり、精神状態が悪かったりすると、酷く暴れるんだ。暴れて……僕を殴る」
でも、本当はとても優しい人なんだ、と星志は笑った。
「優しいから……お酒を飲まなきゃいられなくて、僕を殴った後、死ぬほど後悔して泣いて謝って……優しいから、とてもかわいそうだ」
レコーダーもあの時とばっちりを受け、壊れたのだった。
「お母さんがこんなふうになったのは、お父さんが死んでからなんだ」
星志の父親はトラックの運転手をしていて、星志が八歳の時、高速道路で居眠り運転をし、事故を起こしたのだそうだ。
乗用車に追突し、車は炎上。乗用車に乗っていた四人が死亡した。星志の父親は軽傷だったが、消防と警察に連絡すると高速道路を歩いて下り、近くの林で首を吊った。
「お父さんのお葬式の後に事故で死んだ人の親戚の人が何人も来て、お父さんが自殺したのは卑怯だって怒った。生きて責任を取らなかった卑怯者だって。……お母さんはその人達に土下座して謝ってた。お母さんだって、お父さんが死んですごく悲しかったのに。すごく辛かったのに」
──お父さんがいない間は、お前がお母さんを守ってくれよ
仕事に行く前、父親は必ずそう言ったという。
「お父さんと約束したんだ……お母さんを守るって。けど……守れなかった」
その時住んでいた家は父親が勤めていた会社の社宅だったので、すぐに追い出された。その上、父が事故で壊したトラックの修理代まで請求された。
引っ越した家には事故のことで星志たちを中傷する手紙が送られてきたり、近所にビラを貼られたりしたので、また引っ越した。嫌がらせは家だけでなく母親の勤め先にまで及んで、退職を余儀なくされた。
星志の母には頼れる肉親はいなかった。亡くなった父も天涯孤独だったので、親戚もいない。保証人もおらず何の資格も技術も持っていない母は、トラックの修理代と生活費のために時給の良い水商売を選ばざるを得なかった。
「お母さんは辛くても相談する人が誰もいなくて、お酒で誤魔化すしかなかったんだ。僕が子供で頼れないから、お母さんはお酒に頼ってしまった」
それでも頑張っていた母が崩れ始めたのは、一年ほど前だった。父の葬式後に乗り込んできた事故の遺族の一人が、母の勤める店に来たのだそうだ。偶然だったのかわざわざ探し出したのかは分からないがそこで酷い嫌がらせを受け、勤め先を変えた。
同じ頃、星志へのイジメが始まった。
――お前の親父、人殺しなんだってな
母の店に来た遺族が星志の学校の友人たちに何か言ったという証拠はない。が、タイミング的にそれしか考えられなかった。
イジメのことは母には言わなかった。言えなかった。クラスメイトに何を言われても、ただひたすら耐えた――なのに。
――白木君は死亡事故を起こして亡くなった父親のことで、クラスの子からイジメを受けているようです
担任教師がある日母を学校に呼びつけ、無神経にそう伝えた。
母の酒量が目に見えて増えたのはそれからだった。
酒量に比例して母の言動はおかしくなっていった。郵便物を見れば中傷の手紙がきたと騒ぎ、電話がかかってくれば非難する電話だと怯えた。精神の不安定さは徐々に酷くなっていき、酒に酔っている間は多少ましだったが、酔いも過ぎると気が荒れて何かある度に星志を殴った。そのくせ醒めると星志の姿が見えないだけで不安がり、泣く。
星志が学校へ行かないのは自発的な登校拒否なんかではなく、ひどいイジメとろくに家事もできなくなった母の世話をするためだった。
二重人格者のようになってしまった母と二人きりの生活の中で、心癒せるのは読書している時と外へ出て夜空の星を眺めている時だけ。
何の希望も見出せない毎日に、祈るのは唯一つ。
「早く……大人になりたかった。大人になって……強くなって……お母さんを守ってあげたかった」
星志の瞳からこぼれ落ちた涙は、汚れなく美しかった。
「……でも……僕、疲れて……何もかも……もうどうでもいいと……思ってしまって……」
言葉が涙で途切れる。私も泣いて何も言えなかった。
「僕には……あの詩を書いた人が……退屈だって死んだ気持ち……よく分かるよ」
僕も退屈だったから、と星志は泣きながら笑った。
「期待された目標に向かって頑張って、頑張って……それでも届かなくて挫けた時……もうそれ以上自分には何もできないって絶望したら……後に何が残る? ……何も残らない。からっぽだよ。その虚しさを、あの人は『退屈』って言ったんだ」
極限まで努力したゆえの深い絶望は虚脱感を生み、虚脱感は無気力感を生む。
その空虚さは退屈に、似ている。
「もし戦場に生まれていたら……もし生死に関わる病を患っていたら……自分は今とは違う自分になれていたんじゃないかって……僕だって考えたことあるよ。あの人だって銃で敵を撃ちたかった訳でも……病気で苦しみたかった訳でもない。ただ、今いる場所とは違う場所に立ちたかったんだよ」
そして彼は別の場所へ旅立った。
退屈から自分を解放するために。
「でもあの人が一番言いたかったのは……愛を知らない、ってことじゃなかったのかな」
星志は自分に問いかけるようにひっそり呟いた。
「あれは……自分を愛することを知らないって嘆きだったような気がする」
それなら、私もそうだ。
優しい人になりたい。でも、なれない。
星と星の間の距離より、自分と他人の距離より、現実の自分と理想の自分の距離の方が遥かに遠く測りきれず、努力しても理想に近づけない自分を愛せなかった。
「私だって……愛なんて知らない」
「僕だって知らないよ」
星志は軽く笑い、
「けど……いつかは知ることができるって、今は信じられるよ。……奈緒がいるから」
ぽろぽろ涙をこぼした。
「あの時……奈緒がパンくれたの……すごく嬉しかったんだ。……世の中には……こんなに優しい人が……いるんだって……びっくりした。……奈緒はあれを『計算』って……言ったけど……そんなの嘘だ。……僕は信じないよ……だって奈緒は本当に」
優しい、と星志は微笑んだ。
私は優しくなんてない。けれどこんな私でさえ優しいと感じるなら、それまでどんなに辛いことばかりだったか。生きるのは辛いと泣く権利が、星志にはある。
星志が背負うものを知って、私は自分がいかに甘ったれで愚かだったか思い知った。
星志は母親の悲しみや苦しみまで受け止めようとしているのに、自分のことばかり哀れんでいた私は彼より格段に子供だった。
星志はこんな私を許してくれた。優しいと言ってくれた。私は私を許せず、人ではないと絶望しかけていたのに。
私はまず嘆くよりも自分を許すことを知るべきだったのだ。
空は東の端から少しずつ夜の色合いを消し始めていた。
「朝が来るね……奈緒」
そして私達はそれぞれの現実に戻らなければならない。
「夜明けなんて永遠に来なければいいのに……」
星志の呟きは悲しみを含んで、重い。
「夜が明けたら……また奈緒はいなくなる……星も見えなくなってしまう。僕の前から消えてしまう」
「――そんなこと、ない!」
私は叫んで身体を起こした。
「見えなくなっても――消えてなくなるわけじゃないわ! 私はいつだってこの空の下にいるの! 星もいつだって空にあるの!」
思いを込めて、私は星志の手を強く握った。
「ね、約束しよう? 天体望遠鏡、いつか絶対二人で買うって。天体望遠鏡を買って、モンゴルの草原へ行くって」
星志は目を見開き、すぐに目を細めた。
「一緒に見たいよ。星志の名前がついている星を」
うん、と星志は頷いて私の手を握り返した。
私達の手はハンカチで縛ったままだったけれど、それがなくても強く結ばれていた。
まだ夜が明けきらない街角で、私と星志は別れた。
昨日までなら、星志は私を送ると言っただろうし私もそうして欲しいと思っただろう。けれど、この空の下でつながっている私達に未練がましい淋しさはなかった。
一人帰る途中、猛烈に喉が渇いて自動販売機でミネラルウォーターを買った。あれほど泣いた後だからか、砂漠の遭難者のように一気に飲んでしまった。
空になったペットボトルを見て、私は思わず微笑む。
体に水が必要なように私には星志が必要で、星志には私が必要なのだ。
まだ少し物足りなくてミルクティーを買ったけれどゆっくり飲みたくて、そのまま家に持って帰った。
電気も点けず、まだ薄暗いリビングのソファーでミルクティーを飲んでいると、母が起きてきた。
「どこか……行ってたの」
「うん……散歩。眠れなくて……」
一夜丸々寝ていない。睡眠不足のはずなのに、妙にすっきり頭が冴えていた。
「大丈夫?」
そう聞いた母の方が倒れそうな顔色だった。
大人だからってみんなが強い訳じゃないんだ。
「……眠れなかったんなら、今日は学校、休む?」
「大丈夫よ。行く。──私は学校に行けるんだから」
星志は行きたくても行けない。何の妨げもなく学校に行ける私が多少のことで学校を休んだら、星志に会わせる顔がない。
「……お母さん……ごめんね」
何を謝ったのか自分でも分からない。
多分、全てのことを、だ。
「……いいの……いいのよ……」
声が掠れ、母は俯いた。
何を許してくれたのか。
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