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進展
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学校へ行ったものの、睡眠不足が祟ってか二時間目の途中で具合が悪くなってしまった。
保健室で昼まで寝入り、体力が少し回復したので午後からの授業には出席するつもりで保健室を出た私は、掲示板に何気なく視線を向け──急いで保健室に引き返した。
「先生! あのポスターのことについて、もっと詳しく教えてください!」
柚木君が貼ってくれた、泥の指紋が残るポスター。
アルコールの危険性を啓発するのと同時に、アルコール依存症者とその家族のための居住付き治療支援施設の情報が記載されていたのだ。
訝る先生に、友人の家族に重度のアルコール依存症者がいて、その友人がひどく悩んでいると相談した。
私は星志を助けたかった。星志の背負っているものを少しでも軽くしてあげたかった。
私のような子供の思惑通りには、世の中のことはうまくいかないかもしれない。それでも、もし星志のお母さんが施設を利用できて、星志が学校に行けるようになる可能性があるなら。
私の話を聞いて保健室の先生は軽く眉根を寄せた。
「その友達の家族は誰かに相談していないの?」
二人だけの家族で、母親がアルコール依存症であるのにまだ小学生の星志がどこへどうやって相談できるというのだろう。
それを説明すると、「友達って小学生なの?」とどうでもいいことに驚かれた。
「小学生なんだったら、もう担任の先生に相談してるんじゃないの?」
「してないと思います。イジメで登校拒否していて、学校の先生もあまり家に訊ねて来ないって」
先生はますます顔をしかめた。
「あのね、久保田さん、どういう友達かは知らないけど、あなたは受験生なんだから家庭環境の複雑な子とあまり関わらない方かいいんじゃない?」
私は星志を助けられるかもしれないと高揚して上がっていた体温が一気に下がるのを感じた。
この国の言語は一つで、同じ民族になら言葉は伝わると思っていたけれど、そうではなかった。目の前の教師は私の訴えたい事を何一つ理解してくれていなかった。
「その子、どこの小学校なの? 何年生で何て名前? とりあえずその子の担任の先生に知らせてあげてもいいけど」
明らかに先生は気乗りしない様子だった。口に出してこそ言わないけれど、自分はこの中学校の生徒の心身を健康を守ることが仕事で、他校生に関してはその義理も義務ないと考えているのが見えるようだった。
「とりあえず、って何ですか」
星志の泣き顔が頭を過った。生きる事を投げ出したくなるほど疲れて果てて泣いた子の切羽詰まった家の事情を、「とりあえず担任教師に知らせる」と軽く言うのだ、この人は。
「あなたの話を疑うわけじゃないけど、事実確認もしていないこういう家庭内のデリケートな問題を他の学校の面識もない教師からいきなり伝えられたら、その子の担任の先生の立場がないと思うのよ。だから、出来ればその子本人の口から向こうの先生に相談してくれるのが一番いいんだけど」
「――もういいです」
辛い環境をどうにもできないで苦しんでいる子供より教師の体面を先に口にするこの人とこれ以上話しても無駄だと悟って、保健室を出た。
所詮学校は教育機関で、福祉機関ではない。教師は知識と教養を教えるのが仕事で、家庭や精神に問題を抱える子供の面倒を看る職種ではないのだ。相談する相手を間違えた私が悪い。
けれどもう他の教師の顔を見るのも嫌になり、教室に戻った私は誰にも何も言わずカバンを持って帰路についた。
家に帰る道を辿りながらどうすれば星志を助けられるか考えていた。役場に行って尋ねればいいのかもしれないが、星志の家族でもない中学生の私が行ってまともに相手されるかどうか分からないし、星志本人を連れて行っても、子供の言う事に真剣に耳を傾けてくれる保証もない。
力になってくれそうな大人がどこかにいないかと考えて、今更のように思い至る。
――そうだ。父なら
父は社会的信用を持つ弁護士だ。
自分の間抜けさを悔みつつ、私は家へ全力で走った。
「奈緒、どうしたの。あなたが勝手に学校から帰ってしまったようだって岩村先生から今電話があって」
今日も仕事を休んで家にいた母が家に帰って来た私を見るなり問い詰めて来たが、一切を無視して父は今日何時に帰ってくるのか尋ねた。帰りが遅いようなら事務所まで押しかけて行くつもりだったが、
「今日は帰らないわ。急な仕事が入って、出張するって電話があったから」
間が悪い。帰るのは明日、土曜日の夜だと言う。
父の携帯へ電話して相談することも考えた。だけど電話では私の必死な気持ちが伝わらない気がした。こんどこそ失敗するわけにはいかない。
それに、父の相談する前に、私はしなければならないことがあった。
「お母さん」
私は瞳に力を込めて、まっすぐに母を見た。
「私、お父さんに大事な相談があるの。でも、その相談は友達の家の事だから、お父さんに相談する了解を友達にもらいたいの。だから、お願い。今夜、私を友達に会いに行かせて。絶対、遅くならないように帰るから」
母はしばらく私を見つめ、頷いてくれた。
「そんな施設が……あるの?」
「あるのよ、星志。役場に行って相談したら何とかなるかもしれないの」
私はインターネットで調べて分かった限りの情報を全部星志に伝えた。
星志は私の話を聞いて呆然としていた。
無理もない。星志はまだ十一歳で、学校にも行っていないから行政や福祉についての知識が皆無だ。それに、誰かに助けてもらおうという考えもなかったのだろう。母は自分が守ると心に決めて。
「でも……子供の僕が相談に行っても」
「だから、私のお父さんに頼んでみる。私のお父さん、弁護士なの」
きっと父が力になってくれる。こんな健気な星志を、父が見捨てるはずがない。
「星志。明日の夜、私の家に来て」
父は出張で今日はいないけど、明日の夜には帰るから家に来て事情を父に話して欲しいと言うと、星志は夢見心地に頷いた。
医療設備もあるその施設をもし利用できれば、酒に病んでいる母親の面倒を星志がみる必要はない。生活も国の補助が受けられ、星志は何の心配もなく学校へ通える。
星志も分かっていたのだ。学校にも行かない今のままでは自分にも母にも未来などないと。だから、絶望して──逃げたかったのだ、この世から。
「僕、学校に行けるようになるかな……」
わずかに見え始めた光を前に、星志は戸惑っているようだった。
期待すればするほど、叶わなかった時の落胆も大きいから。
「大丈夫よ。その施設がダメなら、他の施設を探せばいいわ。この国は仮にも福祉国家なんだから、どこかに星志とお母さんを助けてくれる所がある。絶対、あるから」
その夜、私達は明日への希望を胸に、心からの笑顔で別れた。
ほんのひと時を寄り添っていただけだった私達。でも、今は強い絆が二人にはある。今日別れても、明日会える。
だから、奇跡のように出会ったこの宇宙の片隅のこの歩道橋の上で、笑って別れた。
明日で全てが変わるなんて思わなかったけれど、昨日よりは明るい未来があると信じていた。
保健室で昼まで寝入り、体力が少し回復したので午後からの授業には出席するつもりで保健室を出た私は、掲示板に何気なく視線を向け──急いで保健室に引き返した。
「先生! あのポスターのことについて、もっと詳しく教えてください!」
柚木君が貼ってくれた、泥の指紋が残るポスター。
アルコールの危険性を啓発するのと同時に、アルコール依存症者とその家族のための居住付き治療支援施設の情報が記載されていたのだ。
訝る先生に、友人の家族に重度のアルコール依存症者がいて、その友人がひどく悩んでいると相談した。
私は星志を助けたかった。星志の背負っているものを少しでも軽くしてあげたかった。
私のような子供の思惑通りには、世の中のことはうまくいかないかもしれない。それでも、もし星志のお母さんが施設を利用できて、星志が学校に行けるようになる可能性があるなら。
私の話を聞いて保健室の先生は軽く眉根を寄せた。
「その友達の家族は誰かに相談していないの?」
二人だけの家族で、母親がアルコール依存症であるのにまだ小学生の星志がどこへどうやって相談できるというのだろう。
それを説明すると、「友達って小学生なの?」とどうでもいいことに驚かれた。
「小学生なんだったら、もう担任の先生に相談してるんじゃないの?」
「してないと思います。イジメで登校拒否していて、学校の先生もあまり家に訊ねて来ないって」
先生はますます顔をしかめた。
「あのね、久保田さん、どういう友達かは知らないけど、あなたは受験生なんだから家庭環境の複雑な子とあまり関わらない方かいいんじゃない?」
私は星志を助けられるかもしれないと高揚して上がっていた体温が一気に下がるのを感じた。
この国の言語は一つで、同じ民族になら言葉は伝わると思っていたけれど、そうではなかった。目の前の教師は私の訴えたい事を何一つ理解してくれていなかった。
「その子、どこの小学校なの? 何年生で何て名前? とりあえずその子の担任の先生に知らせてあげてもいいけど」
明らかに先生は気乗りしない様子だった。口に出してこそ言わないけれど、自分はこの中学校の生徒の心身を健康を守ることが仕事で、他校生に関してはその義理も義務ないと考えているのが見えるようだった。
「とりあえず、って何ですか」
星志の泣き顔が頭を過った。生きる事を投げ出したくなるほど疲れて果てて泣いた子の切羽詰まった家の事情を、「とりあえず担任教師に知らせる」と軽く言うのだ、この人は。
「あなたの話を疑うわけじゃないけど、事実確認もしていないこういう家庭内のデリケートな問題を他の学校の面識もない教師からいきなり伝えられたら、その子の担任の先生の立場がないと思うのよ。だから、出来ればその子本人の口から向こうの先生に相談してくれるのが一番いいんだけど」
「――もういいです」
辛い環境をどうにもできないで苦しんでいる子供より教師の体面を先に口にするこの人とこれ以上話しても無駄だと悟って、保健室を出た。
所詮学校は教育機関で、福祉機関ではない。教師は知識と教養を教えるのが仕事で、家庭や精神に問題を抱える子供の面倒を看る職種ではないのだ。相談する相手を間違えた私が悪い。
けれどもう他の教師の顔を見るのも嫌になり、教室に戻った私は誰にも何も言わずカバンを持って帰路についた。
家に帰る道を辿りながらどうすれば星志を助けられるか考えていた。役場に行って尋ねればいいのかもしれないが、星志の家族でもない中学生の私が行ってまともに相手されるかどうか分からないし、星志本人を連れて行っても、子供の言う事に真剣に耳を傾けてくれる保証もない。
力になってくれそうな大人がどこかにいないかと考えて、今更のように思い至る。
――そうだ。父なら
父は社会的信用を持つ弁護士だ。
自分の間抜けさを悔みつつ、私は家へ全力で走った。
「奈緒、どうしたの。あなたが勝手に学校から帰ってしまったようだって岩村先生から今電話があって」
今日も仕事を休んで家にいた母が家に帰って来た私を見るなり問い詰めて来たが、一切を無視して父は今日何時に帰ってくるのか尋ねた。帰りが遅いようなら事務所まで押しかけて行くつもりだったが、
「今日は帰らないわ。急な仕事が入って、出張するって電話があったから」
間が悪い。帰るのは明日、土曜日の夜だと言う。
父の携帯へ電話して相談することも考えた。だけど電話では私の必死な気持ちが伝わらない気がした。こんどこそ失敗するわけにはいかない。
それに、父の相談する前に、私はしなければならないことがあった。
「お母さん」
私は瞳に力を込めて、まっすぐに母を見た。
「私、お父さんに大事な相談があるの。でも、その相談は友達の家の事だから、お父さんに相談する了解を友達にもらいたいの。だから、お願い。今夜、私を友達に会いに行かせて。絶対、遅くならないように帰るから」
母はしばらく私を見つめ、頷いてくれた。
「そんな施設が……あるの?」
「あるのよ、星志。役場に行って相談したら何とかなるかもしれないの」
私はインターネットで調べて分かった限りの情報を全部星志に伝えた。
星志は私の話を聞いて呆然としていた。
無理もない。星志はまだ十一歳で、学校にも行っていないから行政や福祉についての知識が皆無だ。それに、誰かに助けてもらおうという考えもなかったのだろう。母は自分が守ると心に決めて。
「でも……子供の僕が相談に行っても」
「だから、私のお父さんに頼んでみる。私のお父さん、弁護士なの」
きっと父が力になってくれる。こんな健気な星志を、父が見捨てるはずがない。
「星志。明日の夜、私の家に来て」
父は出張で今日はいないけど、明日の夜には帰るから家に来て事情を父に話して欲しいと言うと、星志は夢見心地に頷いた。
医療設備もあるその施設をもし利用できれば、酒に病んでいる母親の面倒を星志がみる必要はない。生活も国の補助が受けられ、星志は何の心配もなく学校へ通える。
星志も分かっていたのだ。学校にも行かない今のままでは自分にも母にも未来などないと。だから、絶望して──逃げたかったのだ、この世から。
「僕、学校に行けるようになるかな……」
わずかに見え始めた光を前に、星志は戸惑っているようだった。
期待すればするほど、叶わなかった時の落胆も大きいから。
「大丈夫よ。その施設がダメなら、他の施設を探せばいいわ。この国は仮にも福祉国家なんだから、どこかに星志とお母さんを助けてくれる所がある。絶対、あるから」
その夜、私達は明日への希望を胸に、心からの笑顔で別れた。
ほんのひと時を寄り添っていただけだった私達。でも、今は強い絆が二人にはある。今日別れても、明日会える。
だから、奇跡のように出会ったこの宇宙の片隅のこの歩道橋の上で、笑って別れた。
明日で全てが変わるなんて思わなかったけれど、昨日よりは明るい未来があると信じていた。
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