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明け方の夢
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図書館で借りたCDをかけたまま、ベッドに横になった。
星志が好きな盲目の名ピアニスト、アンディ・エリントンのピアノによるショパンの名曲コレクションだ。
深い情感のある演奏は彼の生い立ちが育んだものか、稀有な人生が紡ぎ出したものか。
二歳で父親を事故で、十四歳で母親を病気で亡くし、十八歳で病気によって視力を失った彼。それでもピアノだけは捨てず、やがて情熱と努力が実を結び、二十代半ばで名ピアニストの名声を手に入れた。
何かを得れば何かを失うのは世の常なのだろうけれど、アンディも例外ではなかった。
唯一の肉親であった姉は弟ばかりが世間の注目を浴びることに嫉妬して精神を病み自宅に放火して逮捕され、幼い頃からの親友には自分の名声を利用した詐欺を働かれ、浪費家だった妻には財産のほとんどを食い潰された挙句離婚の慰謝料として洗いざらい持っていかれた。
しかし、彼は全てに寛容だった。
十五枚目となるこのアルバムには彼自身が言葉を寄せている。
『私の人生は、確かに他人と比べるとほんの少し波風の多いものであるかもしれない。けれどそれら全てが、私を今の私にした。鏡のように平らな池の中にいて、何のインスピレーションを受けるだろう。刻々と表情の変わる荒海にいてこそ、音楽家としての魂が高揚する。私は人生とピアノを愛している。それを誇りに思っている』
住む家さえなくし、世界中で行われるコンサートの旅をねぐらに生きる彼。
別名『宿無しアンディ』は六十一歳の今日も、世界のどこかでアンコールの拍手を浴びているだろう。
彼のことを教えてくれたのは星志だった。
アンディの自叙伝、『主旋律は嵐の中に』を読んで感銘を受け、私にも薦めた。
──どうしてこの人、こんなに強いんだろう
羨ましいよ、と星志は呟いた――あれは出会って間もない頃だった。
星志が背負ったものも知らずにいた私。
──強いじゃないか
柚木君の声が、聞こえる。
──強くなきゃ優しさは持てないよ
ああ、柚木君の言葉を伝えてあげればよかった。
明日。明日会ったら、きっと伝えよう。
目が覚めたのは、枕元に置いた私の携帯からショパンの別れの曲が流れて来たからだった。まだ半分眠っている意識のまま壁の時計で時刻を確認すると、午前四時を少し回ったところだった。
今の今まで眠っていたのだから、スマホに触った訳ではないのにどうして……と体を起こすと曲は止まり、スマホの着信音に変わった。
こんな時間に誰からだろうと思いながら電話に出ると、
「奈緒、僕だよ」
携帯から聞こえてきたのは、聞き慣れた優しい声だった。
「……星志? どうかしたの?」
私、携帯の番号を星志に教えただろうか。
「奈緒……ごめんね。僕、遠くへ行くことになった」
あまりに急な話に驚きながら「どこへ?」問いかける私に、「聞いて、奈緒」と声は急ぐ。
「僕、奈緒が好きだ」
明るい、それでいて淋しい星志の声。
「すごくすごく奈緒が好きだ。世界で一番、僕は奈緒が好き」
涙が、こぼれた。星志の声があまりにも純粋で、切なかったから。
「ねえ、奈緒。人は何のために生まれてくるんだと思う? 僕は今ようやく分かったよ」
人を愛するためだよ、と星志は私に告げる。
「誰かを愛するために、僕らは生まれてきたんだよ。奈緒、僕らはどこかへ飛んで行ける翼はないけど、愛する人を見つけるために歩いていける足があるんだ」
うん、そうだね──ただ頷いた。涙が、溢れて、言葉を遮ってしまう。
「僕は、見つけた。歩道橋の上で」
だったら、私も見つけた。歩道橋の上で。
「だから……僕は生まれてきた意味があった。奈緒がくれたんだ」
私が? 何を?
「奈緒がいると、僕はすごく優しい気持ちになれた。会えない時も、奈緒のことを思い出すだけで胸がキュウッとして……くすぐったいような……泣きたくなるような……でもすごく幸せだった。奈緒が僕に幸せをくれたんだ。僕は本当に奈緒が好きだ」
ずるいよ、星志。電話でこんな大事なこと言うなんて。
でも、嬉しい。すごく嬉しい。嬉しいのに言葉が出ない。全部涙になってしまう。
「……僕がいなくなっても、悲しまないでね」
不意に星志の声が遠くなる。
「奈緒が泣くと、僕、とっても辛い。でも笑ってくれると、ものすごく嬉しい。だから、僕を思い出して泣くくらいなら、僕のことなんか忘れて笑って生きて。……ああ……もう行かなくちゃ」
星志の声が遠ざかっていく。
どこへ行くの? 行かないで。私も一緒に行きたい。
「奈緒……お願い……僕のお母さんを助けて」
優しい星志の必死な声。
「僕は一人で行かなきゃならないから……お母さんが独りぼっちになってしまう……とってもかわいそうだ……奈緒……助けて……」
うん、と辛うじて声が出た。どういうことなのか全く分からないけれど、心からの星志の願いなら受け止めたかった。
「ありがとう……本当に……奈緒に会えて……よかった……」
切れ切れの星志の声がどんどん小さくなって──消えた。
だけど、最後にはっきり聞こえた。
僕は奈緒を愛してる
星志は確かに。
そう言った。
星志が好きな盲目の名ピアニスト、アンディ・エリントンのピアノによるショパンの名曲コレクションだ。
深い情感のある演奏は彼の生い立ちが育んだものか、稀有な人生が紡ぎ出したものか。
二歳で父親を事故で、十四歳で母親を病気で亡くし、十八歳で病気によって視力を失った彼。それでもピアノだけは捨てず、やがて情熱と努力が実を結び、二十代半ばで名ピアニストの名声を手に入れた。
何かを得れば何かを失うのは世の常なのだろうけれど、アンディも例外ではなかった。
唯一の肉親であった姉は弟ばかりが世間の注目を浴びることに嫉妬して精神を病み自宅に放火して逮捕され、幼い頃からの親友には自分の名声を利用した詐欺を働かれ、浪費家だった妻には財産のほとんどを食い潰された挙句離婚の慰謝料として洗いざらい持っていかれた。
しかし、彼は全てに寛容だった。
十五枚目となるこのアルバムには彼自身が言葉を寄せている。
『私の人生は、確かに他人と比べるとほんの少し波風の多いものであるかもしれない。けれどそれら全てが、私を今の私にした。鏡のように平らな池の中にいて、何のインスピレーションを受けるだろう。刻々と表情の変わる荒海にいてこそ、音楽家としての魂が高揚する。私は人生とピアノを愛している。それを誇りに思っている』
住む家さえなくし、世界中で行われるコンサートの旅をねぐらに生きる彼。
別名『宿無しアンディ』は六十一歳の今日も、世界のどこかでアンコールの拍手を浴びているだろう。
彼のことを教えてくれたのは星志だった。
アンディの自叙伝、『主旋律は嵐の中に』を読んで感銘を受け、私にも薦めた。
──どうしてこの人、こんなに強いんだろう
羨ましいよ、と星志は呟いた――あれは出会って間もない頃だった。
星志が背負ったものも知らずにいた私。
──強いじゃないか
柚木君の声が、聞こえる。
──強くなきゃ優しさは持てないよ
ああ、柚木君の言葉を伝えてあげればよかった。
明日。明日会ったら、きっと伝えよう。
目が覚めたのは、枕元に置いた私の携帯からショパンの別れの曲が流れて来たからだった。まだ半分眠っている意識のまま壁の時計で時刻を確認すると、午前四時を少し回ったところだった。
今の今まで眠っていたのだから、スマホに触った訳ではないのにどうして……と体を起こすと曲は止まり、スマホの着信音に変わった。
こんな時間に誰からだろうと思いながら電話に出ると、
「奈緒、僕だよ」
携帯から聞こえてきたのは、聞き慣れた優しい声だった。
「……星志? どうかしたの?」
私、携帯の番号を星志に教えただろうか。
「奈緒……ごめんね。僕、遠くへ行くことになった」
あまりに急な話に驚きながら「どこへ?」問いかける私に、「聞いて、奈緒」と声は急ぐ。
「僕、奈緒が好きだ」
明るい、それでいて淋しい星志の声。
「すごくすごく奈緒が好きだ。世界で一番、僕は奈緒が好き」
涙が、こぼれた。星志の声があまりにも純粋で、切なかったから。
「ねえ、奈緒。人は何のために生まれてくるんだと思う? 僕は今ようやく分かったよ」
人を愛するためだよ、と星志は私に告げる。
「誰かを愛するために、僕らは生まれてきたんだよ。奈緒、僕らはどこかへ飛んで行ける翼はないけど、愛する人を見つけるために歩いていける足があるんだ」
うん、そうだね──ただ頷いた。涙が、溢れて、言葉を遮ってしまう。
「僕は、見つけた。歩道橋の上で」
だったら、私も見つけた。歩道橋の上で。
「だから……僕は生まれてきた意味があった。奈緒がくれたんだ」
私が? 何を?
「奈緒がいると、僕はすごく優しい気持ちになれた。会えない時も、奈緒のことを思い出すだけで胸がキュウッとして……くすぐったいような……泣きたくなるような……でもすごく幸せだった。奈緒が僕に幸せをくれたんだ。僕は本当に奈緒が好きだ」
ずるいよ、星志。電話でこんな大事なこと言うなんて。
でも、嬉しい。すごく嬉しい。嬉しいのに言葉が出ない。全部涙になってしまう。
「……僕がいなくなっても、悲しまないでね」
不意に星志の声が遠くなる。
「奈緒が泣くと、僕、とっても辛い。でも笑ってくれると、ものすごく嬉しい。だから、僕を思い出して泣くくらいなら、僕のことなんか忘れて笑って生きて。……ああ……もう行かなくちゃ」
星志の声が遠ざかっていく。
どこへ行くの? 行かないで。私も一緒に行きたい。
「奈緒……お願い……僕のお母さんを助けて」
優しい星志の必死な声。
「僕は一人で行かなきゃならないから……お母さんが独りぼっちになってしまう……とってもかわいそうだ……奈緒……助けて……」
うん、と辛うじて声が出た。どういうことなのか全く分からないけれど、心からの星志の願いなら受け止めたかった。
「ありがとう……本当に……奈緒に会えて……よかった……」
切れ切れの星志の声がどんどん小さくなって──消えた。
だけど、最後にはっきり聞こえた。
僕は奈緒を愛してる
星志は確かに。
そう言った。
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