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後悔
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ぼくは最初の対応を誤った、と広海は項垂れた。
「ぼくは美国の告白を聞いた時点で、どうやっても警察に引っ張って行くべきだったんだ。そうすれば少なくとも、カウンセリングを受けられて心の傷も酷くならなかった」
「今からじゃ、駄目なんですか」
「できない。美国の秘密を守るのにはもう一つの理由があると言っただろう。そのためだ」
言われて僕は首を傾げた。それが何か、ここに至っても僕には分からなかった。
「分からない? 旭のお父さんのためだよ。早川さんは「取引した」と言った。子供のぼくたちに聞こえの良い言葉を使ったけれど、あれは明らかに脅したんだよ。現職の刑事が犯罪に目をつぶって、自分の要求を押し通すために脅迫したんだ」
旭の首を絞めたのは傷害罪だ。証言と証拠があれば逮捕できる。しかし、旭の父はそれを見逃して、学校から追い払う方を選んだ。
「早川さんは、多分本当の被害者は美国だと気づいたんだ」
性犯罪の被害に遭った小学生の娘が、いくら父親が刑事だとしても、母親でなく父親に被害を訴えるだろうか。タイミングが良すぎる同級生男子の出現。驚いたにしては整った説明。父としてではなく刑事としての目で見れば、疑う要素はいくつもあった。
「旭は警察に行くなら『死んでしまう』と言った。旭が真の被害者の美国を想ってつい第三者の見解的な言葉を使ってしまったことで、それで誰かを庇っていると、それはすぐ側で泣いている美国だと分かったんだと思う」
旭の父は犯罪捜査のプロだ。小学生が考えた策略を見抜けないわけがなかった。
「早川さんは、もし本当に娘が被害者だったら、絶対訴えてあいつを刑務所送りにしたと思う。旭なら父親として二次被害から守ってやれるから。でも美国は守ってやるにも他人だから限界がある。だからこれ以上美国が傷つかないように、警察官としてやってはいけないことをしてくれたんだ」
美国は未成年者だ。医者やカウンセリングに行けば必ず両親に連絡が行く。そうすれば四年前の事件に触れられ、早川氏がしてくれたことも知れてしまう。この件が明るみに出れば、間違いなく早川氏は法に裁かれる立場になり、職を失い、家族も大きな傷を負う。それだけは絶対避けなければならない。
「未だに苦しんでいるのは美国だけじゃない。旭が恋愛に興味を示さないのも、やっぱり事件の影響なんだと思う。合気道は護身用に始めたんだし、他に習い事してるのも、一生結婚しないで一人で生きていくために色んな資格を取りたいからだって言うんだ。旭は『男はみんな、愛情なんかなくても女とはセックスできれば良いと思ってる』と考えてるみたいで、内心男を侮蔑してる。若い男に対しては特に」
それで聞くけど、と広海はやや姿勢を正して僕の方を見た。
「優人は本当はノーマルだよね」
「はい?」
確かに特殊な性癖はない、と思うが。
「ああ、女性が好きな男性だよねって話」
えーと、僕は当然女の子が好きだが、待てよ、男が好きな男だと誤解した旭と偽装ではあるが交際しているからやっぱり誰が見てもノーマルだ、けど、本当はと言うからには僕が男を好きな男と思っていたとしか、え? え?
混乱する僕に、広海は人悪そうに笑って見せた。
「あのね、美国は僕に嘘がつけないの。優人を見て旭の好きなタイプと全然違うから、美国を問い詰めたら全部白状した」
「それでも僕が同性愛者じゃないと思ったんですよね? どうして」
「だって君、時々看護師さんの胸とか尻に視線向けてるから」
思わず呻いて、僕は頭を抱えて身を縮めた。
「そもそもは旭の誤解なんです」
今度は僕が語る番だった。しかし書類のミスで一度死んで、閻魔様にセクハラ発言して罰を受けたなんて信じてもらえるだろうか。僕が聞く側なら「こいつ頭がおかしい」か「作り話するならもっと上手く面白い話にしろ」と思うだろう。
「何というか、お気の毒様と言う他ないね」
僕の話を聞いた広海の感想に、僕の方が首を傾げた。
「信じるんですか」
「信じるも何も、それが本当なんだろう? 言い訳をするつもりならもっと筋の通った現実的な話をするはずだ。あり得なさすぎて、逆に真実な気がする」
「大体、旭が単純過ぎるんですよ。男にキスされたのを見ただけで、僕が同性愛者だなんて勘違いをするなんて」
「ちゃんと相手の男に聞いて確かめたって、美国が言ってたけど?」
キスの後逃げた僕を追いかけようとする男を旭が呼び止め、「今の人、あなたの恋人なんですか」と聞くと、にこやかに「そうだよ」と答えたらしい。
あの男、今度会ったら絶対殴る。二度と会いたくないけど。
「でも、おかしいな。ぼくは優人と何回会ってもそんな変な気持ちになったことないんだけど。……ああ、そうか」
初対面の時点で僕が「旭の恋人」だったからだと言う。
「確か、君の人権を尊重して見る人間には閻魔様の罰は適応されないって言ってたよね。初めから君は『中原優人』という『人間』だった。多分瞬も大樹も僕と同じなんだろう」
そうか。学校内、少なくともクラス内では妙な視線を感じなくなったのは、僕という人間を知ってくれたせいなのかも知れない。
「でも気をつけなよ。他人を物のようにしか考えない人間なんていくらでもいる。意識して自衛しないと」
広海はふと表情を曇らせた。
「あの美国が夜中に一人で自転車で帰るなんて、よっぽど手伝いの女性に嫌なこと言われたんだろうな。可哀想に」
その声は友情を超えて、最早肉親の情にも等しい慈愛に満ちていた。
「優人は、風だな」
広海は梅雨空の薄い雲が流れていくのを目を細めて眺めた。
「ぼくたち五人は、お互いを思いやるあまり、かえって身動きとれなくなってしまった。スクラムを強く組みすぎて、守りは堅くても息がしにくい状態で、もう色々行き詰まってしまって限界に近かったんじゃないかと思う。優人がぼくらに新しい空気を吹き込んでくれて、ぼくらの呼吸を楽にしてくれた」
そんな大層な、と僕が苦笑すると、広海はベンチに背中を預けて、自分の言葉を実証するように大きく息をついた。
「今日は少し喋りすぎた。一人で考えたいこともあるし、僕はここで休んで帰るから、優人ももう帰りなよ」
僕も疲れていた。だから、広海が何故この時、一生誰にも喋らないと誓った話を僕にしたのか考えもしなかった。
その意味を知るのは、もっと後になってからだった。
病院からの帰り道、僕はプリンを買った。フルーツが上に乗った、ちょっといい物だ。
帰ると僕はまっすぐ由香里姉ちゃんの部屋に行った。ノックすると姉ちゃんは起きていて、返事が思ったより明るく元気なのにホッとした。
部屋に入ってすぐに謝ろうと僕は決めていた。なのに、姉ちゃんを見た途端、言葉が出なくなってしまった。
頭に巻かれた白い包帯が痛々しくて直視できず俯いた僕に、
「大丈夫よ。何も心配しなくて良いから」
姉ちゃんは笑って言った。
「今朝はお姉ちゃんが悪かったわ。優人にも言いたくないことくらいあるよね。しつこく聞いたお姉ちゃんが悪かった。ごめんね」
僕は声が出せないまま、激しく首を振った。
「ただ本当に心配だったの。優人は優しいから、何か面倒なことに巻き込まれて困ってるんじゃないかって」
僕は優しくなんてない。心配してくれる姉に暴力を振るうようなクズだ。
「そうじゃないならいいの。台所の片付け、やってくれたんでしょう。ありがとう」
頬の怪我は大丈夫かと問う声に頷きながら、僕は朝帰りした言い訳の言葉を探した。姉ちゃんを安心させるためではなく、僕が叱られないための嘘を。
けれど声は出ず、代わりに涙がこぼれた。この期に及んでも保身を考える自分が情けなくて。
こぼれた涙がポタポタと床に落ち、吐きながら泣いた美国を思い出した。ただ泣くだけでもこんなに苦しいのに、美国はもっと苦しかっただろう。可哀想にと言った広海の声が頭を過ぎった。
「おいで、優人」
姉ちゃんの呼ぶ声に僕は俯いて泣きながら、のたのたと歩み寄った。
「何も言わなくて良いよ。お姉ちゃんは優人を信じてるから」
姉ちゃんはティッシュペーパーを何枚も引き抜いて僕の顔に押しつけると、小さい頃よくしてくれたように僕の頭をなでた。
「姉ちゃん。ごめんなさい」
ようやく言えた謝罪を、姉ちゃんは頭をなでながら受け取ってくれた。
「いいの、いいの。大丈夫、大丈夫」
昔から僕が安心できる無敵の言葉。僕もできるなら美国にこの言葉をかけて頭をなでてやりたかった。労りたい相手に触れることができないのは、何て悲しいことなのだろう。
少し落ち着いた僕は、買ってきたプリンを姉ちゃんに差し出した。
「え、これ、お見舞いなの? ありがとう。嬉しい」
嬉々としてプリンを手に取った姉ちゃんを見て、僕はぼんやり考えた。
美国の手に何を乗せたら笑ってくれるだろうか、と。
「ぼくは美国の告白を聞いた時点で、どうやっても警察に引っ張って行くべきだったんだ。そうすれば少なくとも、カウンセリングを受けられて心の傷も酷くならなかった」
「今からじゃ、駄目なんですか」
「できない。美国の秘密を守るのにはもう一つの理由があると言っただろう。そのためだ」
言われて僕は首を傾げた。それが何か、ここに至っても僕には分からなかった。
「分からない? 旭のお父さんのためだよ。早川さんは「取引した」と言った。子供のぼくたちに聞こえの良い言葉を使ったけれど、あれは明らかに脅したんだよ。現職の刑事が犯罪に目をつぶって、自分の要求を押し通すために脅迫したんだ」
旭の首を絞めたのは傷害罪だ。証言と証拠があれば逮捕できる。しかし、旭の父はそれを見逃して、学校から追い払う方を選んだ。
「早川さんは、多分本当の被害者は美国だと気づいたんだ」
性犯罪の被害に遭った小学生の娘が、いくら父親が刑事だとしても、母親でなく父親に被害を訴えるだろうか。タイミングが良すぎる同級生男子の出現。驚いたにしては整った説明。父としてではなく刑事としての目で見れば、疑う要素はいくつもあった。
「旭は警察に行くなら『死んでしまう』と言った。旭が真の被害者の美国を想ってつい第三者の見解的な言葉を使ってしまったことで、それで誰かを庇っていると、それはすぐ側で泣いている美国だと分かったんだと思う」
旭の父は犯罪捜査のプロだ。小学生が考えた策略を見抜けないわけがなかった。
「早川さんは、もし本当に娘が被害者だったら、絶対訴えてあいつを刑務所送りにしたと思う。旭なら父親として二次被害から守ってやれるから。でも美国は守ってやるにも他人だから限界がある。だからこれ以上美国が傷つかないように、警察官としてやってはいけないことをしてくれたんだ」
美国は未成年者だ。医者やカウンセリングに行けば必ず両親に連絡が行く。そうすれば四年前の事件に触れられ、早川氏がしてくれたことも知れてしまう。この件が明るみに出れば、間違いなく早川氏は法に裁かれる立場になり、職を失い、家族も大きな傷を負う。それだけは絶対避けなければならない。
「未だに苦しんでいるのは美国だけじゃない。旭が恋愛に興味を示さないのも、やっぱり事件の影響なんだと思う。合気道は護身用に始めたんだし、他に習い事してるのも、一生結婚しないで一人で生きていくために色んな資格を取りたいからだって言うんだ。旭は『男はみんな、愛情なんかなくても女とはセックスできれば良いと思ってる』と考えてるみたいで、内心男を侮蔑してる。若い男に対しては特に」
それで聞くけど、と広海はやや姿勢を正して僕の方を見た。
「優人は本当はノーマルだよね」
「はい?」
確かに特殊な性癖はない、と思うが。
「ああ、女性が好きな男性だよねって話」
えーと、僕は当然女の子が好きだが、待てよ、男が好きな男だと誤解した旭と偽装ではあるが交際しているからやっぱり誰が見てもノーマルだ、けど、本当はと言うからには僕が男を好きな男と思っていたとしか、え? え?
混乱する僕に、広海は人悪そうに笑って見せた。
「あのね、美国は僕に嘘がつけないの。優人を見て旭の好きなタイプと全然違うから、美国を問い詰めたら全部白状した」
「それでも僕が同性愛者じゃないと思ったんですよね? どうして」
「だって君、時々看護師さんの胸とか尻に視線向けてるから」
思わず呻いて、僕は頭を抱えて身を縮めた。
「そもそもは旭の誤解なんです」
今度は僕が語る番だった。しかし書類のミスで一度死んで、閻魔様にセクハラ発言して罰を受けたなんて信じてもらえるだろうか。僕が聞く側なら「こいつ頭がおかしい」か「作り話するならもっと上手く面白い話にしろ」と思うだろう。
「何というか、お気の毒様と言う他ないね」
僕の話を聞いた広海の感想に、僕の方が首を傾げた。
「信じるんですか」
「信じるも何も、それが本当なんだろう? 言い訳をするつもりならもっと筋の通った現実的な話をするはずだ。あり得なさすぎて、逆に真実な気がする」
「大体、旭が単純過ぎるんですよ。男にキスされたのを見ただけで、僕が同性愛者だなんて勘違いをするなんて」
「ちゃんと相手の男に聞いて確かめたって、美国が言ってたけど?」
キスの後逃げた僕を追いかけようとする男を旭が呼び止め、「今の人、あなたの恋人なんですか」と聞くと、にこやかに「そうだよ」と答えたらしい。
あの男、今度会ったら絶対殴る。二度と会いたくないけど。
「でも、おかしいな。ぼくは優人と何回会ってもそんな変な気持ちになったことないんだけど。……ああ、そうか」
初対面の時点で僕が「旭の恋人」だったからだと言う。
「確か、君の人権を尊重して見る人間には閻魔様の罰は適応されないって言ってたよね。初めから君は『中原優人』という『人間』だった。多分瞬も大樹も僕と同じなんだろう」
そうか。学校内、少なくともクラス内では妙な視線を感じなくなったのは、僕という人間を知ってくれたせいなのかも知れない。
「でも気をつけなよ。他人を物のようにしか考えない人間なんていくらでもいる。意識して自衛しないと」
広海はふと表情を曇らせた。
「あの美国が夜中に一人で自転車で帰るなんて、よっぽど手伝いの女性に嫌なこと言われたんだろうな。可哀想に」
その声は友情を超えて、最早肉親の情にも等しい慈愛に満ちていた。
「優人は、風だな」
広海は梅雨空の薄い雲が流れていくのを目を細めて眺めた。
「ぼくたち五人は、お互いを思いやるあまり、かえって身動きとれなくなってしまった。スクラムを強く組みすぎて、守りは堅くても息がしにくい状態で、もう色々行き詰まってしまって限界に近かったんじゃないかと思う。優人がぼくらに新しい空気を吹き込んでくれて、ぼくらの呼吸を楽にしてくれた」
そんな大層な、と僕が苦笑すると、広海はベンチに背中を預けて、自分の言葉を実証するように大きく息をついた。
「今日は少し喋りすぎた。一人で考えたいこともあるし、僕はここで休んで帰るから、優人ももう帰りなよ」
僕も疲れていた。だから、広海が何故この時、一生誰にも喋らないと誓った話を僕にしたのか考えもしなかった。
その意味を知るのは、もっと後になってからだった。
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帰ると僕はまっすぐ由香里姉ちゃんの部屋に行った。ノックすると姉ちゃんは起きていて、返事が思ったより明るく元気なのにホッとした。
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頭に巻かれた白い包帯が痛々しくて直視できず俯いた僕に、
「大丈夫よ。何も心配しなくて良いから」
姉ちゃんは笑って言った。
「今朝はお姉ちゃんが悪かったわ。優人にも言いたくないことくらいあるよね。しつこく聞いたお姉ちゃんが悪かった。ごめんね」
僕は声が出せないまま、激しく首を振った。
「ただ本当に心配だったの。優人は優しいから、何か面倒なことに巻き込まれて困ってるんじゃないかって」
僕は優しくなんてない。心配してくれる姉に暴力を振るうようなクズだ。
「そうじゃないならいいの。台所の片付け、やってくれたんでしょう。ありがとう」
頬の怪我は大丈夫かと問う声に頷きながら、僕は朝帰りした言い訳の言葉を探した。姉ちゃんを安心させるためではなく、僕が叱られないための嘘を。
けれど声は出ず、代わりに涙がこぼれた。この期に及んでも保身を考える自分が情けなくて。
こぼれた涙がポタポタと床に落ち、吐きながら泣いた美国を思い出した。ただ泣くだけでもこんなに苦しいのに、美国はもっと苦しかっただろう。可哀想にと言った広海の声が頭を過ぎった。
「おいで、優人」
姉ちゃんの呼ぶ声に僕は俯いて泣きながら、のたのたと歩み寄った。
「何も言わなくて良いよ。お姉ちゃんは優人を信じてるから」
姉ちゃんはティッシュペーパーを何枚も引き抜いて僕の顔に押しつけると、小さい頃よくしてくれたように僕の頭をなでた。
「姉ちゃん。ごめんなさい」
ようやく言えた謝罪を、姉ちゃんは頭をなでながら受け取ってくれた。
「いいの、いいの。大丈夫、大丈夫」
昔から僕が安心できる無敵の言葉。僕もできるなら美国にこの言葉をかけて頭をなでてやりたかった。労りたい相手に触れることができないのは、何て悲しいことなのだろう。
少し落ち着いた僕は、買ってきたプリンを姉ちゃんに差し出した。
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