冬の烏と夏の朱鷺――おとき柳助物語

三章企画

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おとき卵

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「卵焼き、食うかえ」
 上野山下のひたち屋のけころ、おときが馴染み客の男に尋ねた。男があいまいに頷くと、おときは照れくさそうに笑った。
「あたしが焼いたからね、味は補償しないよ」
 それなら頂くとするか、と男が呟いた。
 剥いたゆで卵のように白く艶やかな肌に、濃いめの紅をちょいと掃いたおときが、卵焼きを持って来た。皿に載っていたのは、淡い黄でも白と黄色の段だらでもなく、真っ白と濃い黄色の卵焼きふたつだった。男は、白い方をつまみながら言った。
「ほう。こいつは、おとき。お前の色だな」
 おときは、真っ白なはずの剥き身卵の顔が、掃いた紅が見えなくなるほど真っ赤に染めてふくれた。
「卵があたしの情夫《いろ》だなんて……。あたしが、そんなに男日照りに見えますかえ。それに、卵に男も女もあるもんですか」
「馬鹿。卵焼きの色が、お前と同じで綺麗な色白だから、お前の色だと言ったまでよ」
 あ、と言ったきり黙ってしまったおときの顔の色が、どれだけ紅く変わったかは、ここでは言うまい。おときに気の毒すぎる。やっと気を取り直しておときが言った。
「あたし、黄身が苦手だから。それで、白身と黄身と分けて焼くのだけど……。どうかえ」
「卵の白身を焼いたにしては柔らけえし、しっとりとしていて、しかもふわふわだな」
 男は、箸を置き、柔らかさを確かめるために直につまみなおした指で、ゆっくりと口の中に入れた。男の予想を越えた、溶けるような柔らかさが舌先で消えていく。
「うん。砂糖を奢《おご》っ……」 
 おときのことばを全部聞かず、おい、と男はいきなりおときの肩を掴んで揺すぶった。
「てめえ、どうやって焼いた? 砂糖を入れてどうやった?」
「砂糖を入れて、よく混ざるように何度もかき混ぜただけ……」
 わかった、と言うより早く、男は血相を変えて部屋を飛び出していった。
 おときの、男を呼ぶ声が店中に響き渡って人が集まってきたが、男が飛び出していった理由を知る由もなかった。

 男は、菓子職人の美作屋柳助《みまさかやりゅうすけ》は、裏店の名ばかりの店に閉じこもると白身と格闘し始めた。卵の白身に砂糖を入れ、かき混ぜて焼く。だが、柳助の朧気な理想にはほど遠かった。
 柳助は、【うすゆき】という練り羊羹を作ろうとしている。小豆羊羹の土台に富士の白嶺を模した白く溶けるような餡……。口に入れると、羊羹の堅さとうすゆき餡の柔らかさが、舌先で溶け合っていく。それが柳助の目指す【うすゆき】だった。
 おときの「白焼き卵」を見て口に入れたとき、柳助は、これでいけると直感したのだが、目指す形になるには、まだ何かが足りなかった。
「どうしても、おれの色にならねえ」
 結局、何日籠もっていたかわからない。折から鈴木銕蔵《すずきてつぞう》と言う、麻布の冷や飯食いが訪ねてきた。柳助は茶を出した。
「柳《りゅう》さん。お茶けのほうがいいんだが。あては羊羹でも」
 出された渋茶をすすりながら、銕蔵がごねた。一瞬茶より渋い顔をした柳助は、茶道具を出して、茶を点て始めた。
 柳営(りゅうえい・江戸城)の菓子司大久保主水を辞するとき拝領した茶道具である。
 美作屋の羊羹を要求するなら、それなりの筋を通せと言うつもりなのだろう。渋い顔をするのは、今度は銕蔵の方だった。
 銕蔵が美作屋の羊羹にありつくには、柳助の動かす茶筅が、細かくやわらかな茶の泡を生み出すのを、今は黙って眺めているしかない。と……。
 むう、こいつは、と突然奇妙な声を出して柳助の茶筅の動きが止まった。
「銕さん、帰《けえ》れ。帰《けえ》ってくんな」
 茶筅を握りしめて銕蔵を追い出した柳助は、家中の戸という戸を全て締切り、ある限りの鍵かんぬきを掛けて再び閉じこもった。

 それから何日後であったか、ひたち屋でおときに、
「食ってみろ」
 と柳助が【うすゆき】を差し出して、小さく呟いた。 
「おめえ、いや、おとき。やっと、オレの色になれた。ありがとうよ」
 聞き咎めたおときの、真っ白なはずの剥き身卵の顔が真っ赤に染まった。
「あたしが、あんたの情婦《いろ》だなんて……」
 今度は何も言わずただ笑っている柳助に、拍子抜けしたのか、またどじを組んだと思い当たったのか、それとも、隠していた気持ちがばれたと思ったのか。おときは紅卵になったまま【うすゆき】を口に入れた。
「おいしい」
「だろう。これで俺も所帯が持てそうだ」
 柳助は小さく呟いたが、おときに聞こえたかどうかはわからない。

 余談だが、卵白に砂糖を加え、茶筅で混ぜてふわふわにしたうすゆきの餡のことを、柳助は密かに女房の名を取って「おとき卵」と呼んでいたと言う。
 ちなみに、同じ物を西洋ではメレンゲと呼ぶが、実は日本語での呼び名はない。これは内緒だが、実は筆者も密かに「おとき卵」と呼んでいるのである
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