冬の烏と夏の朱鷺――おとき柳助物語

三章企画

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おとき

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 明け方には止んだ雪に、最初の踏み跡を付けながら、その日、ひとり目の客が来た。
 通りを往来する誰彼かまわず、声をかけ、袖をつかみ、場合によっては背中から蹴りつけてでも客にしてしまう強引さが、上野の山下界隈のけころ屋の売りでもある。
 が、さすがにその日は静かだった。
 そのけころ屋【ひたちや】の妓のひとり、おときが酒肴を調えて二階へあがって行く。
 おときは、まだ、二十前で、透き通るような色白のぽっちゃりと丸い顔をしていて、小柄で手足がこじんまりと品よくまとまっている。十六、七だと言ってもじゅうぶん通ったろう。少し目尻が下がっているが、大きな眼がくるくると表情豊かにものを言う妓だった。
 客は、おときを見ると、小屋根に積もった雪で雪兎を作り盆に載せた。両の目にはそれぞれ一朱銀がはめ込まれている。客は雪兎を載せた盆を、おときの方に押しやった。
「少ないが、好きに使いな」
「ありがとうございます」
 少し掠れた声で、おときは礼を言った。
 客が帰った後、おときはぼんやりと盆の中を見つめている。
  雪兎はすっかり溶け、盆に溜まった水の中に一朱銀二枚が沈んでいた。
「雪兎はどこへも行けず、そこで溶けて流れて消えるだけ。それでもまだいい。あたしは、あと、どんだけ稼げばいいんだろう」
 おときは、一朱銀を摘み上げて締め切った部屋のほの暗い行灯の火にかざした。一瞬きらめいた銀貨の鈍い光は、すぐにおときの小さな手のひらの中に消えた。
 深いため息をついて、おときは出窓の雨戸を開けた。
  午過ぎから再び降り出した雪は、半ば溶けかけていた屋根の雪に新しい層を重ね、切りつけるような冷気となって部屋に吹き込んできた。おときは小さく身震いをして、盆の中の水を空けた。
「来たところへ、お帰り」
 水は、薄く積んだ雪を溶かしながら屋根を流れ軒下に落ちていった。
「こんなところに来てしまったんじゃ、もう土に落ちるしかない。もと来たところ、元の姿には戻れやしないか」
 おときは大きなため息をついた。
「あたしも同じだ。出たくても、あたしは出窓の外には出られない。死ぬまでこうして、ここにいる」

 次の客を待つ間、ひとつ、ふたつと、おときは雪玉を作って小屋根に並べていた。
 いくつ並べた頃だろう。おときのかじかんだ手からこぼれた雪玉のひとつが屋根から転げ落ちた。二つ、三つと続けて落ちていく雪玉を追いかけたおときの視線の先で、
「ったく、なんてこったい」
 大きな舌打ちの音がしたが、声の主は見えない。謝ろうとして手すりから身を乗り出したそのはずみで、小屋根の上に残っていたいくつもの雪玉が次々に転がり落ちていった。
 あ、しまった。おときは頬が熱くなった。
 雪玉が落ちていったその先には、雪だらけになった四十絡みの職人風の男が立っている。
 おときとその男の視線が絡み合った。解けない。男は、おときを見据えたまま目をそらさない。
 おときの胸の奥底の、ずっと深いところで、なにかの小さな火花がひとつ。なに?
 だめだ。いけない。この人はいけない。おときは不意に不安にかられた。
「堪忍してください。わざとじゃないんです」
 おときは赤くなったままの顔を逸らして頭を深く下げ、障子を閉めた。
 と、外で男の大声が響きはじめた。
「てめぇ、どういう了見だ。男に雪をぶつけるなんざ。ただじゃおかねえ。出てこい。出てこねえんなら、おれが引きずり出してやらぁ」
 おときは、頭を抱えて、静かに唇をかんだ。
「あたしは悪くない。わざとじゃないし、ちゃんと謝った。なのになんで」
 遣り手婆のおしずや店主藤四郎とやりあっている男の大声と足音が、だんだんとおときの部屋に近づいて来る。
「てめぇか」
 音高く開いた襖の向こうに六尺近い色黒の大男が立っていた。
「雪ぃ、ぶつけやがったのは」
 おときが眼を見開いて見やった色黒大男の、声は大きいが何故か怒気はない。
 鴨居を避けるように頭を下げて部屋に入って来た姿にも、憤りは見えない。
 おときは少しほっとした。ああ、よかった。そこまで心配することはなかった。おときの気持ちが、顔に、眼に出た。くるくると色黒大男を見つめる。
「はい。おときと申します。先ほどは粗相いたしました。堪忍して下さい」
 手をついて頭を下げた。
 ああ、と言って色黒大男は座り込むと、おときをぎゅっと見つめたまま黙り込んでいる。
色黒大男は怒ってはいないが、どこか不機嫌さが漂っていた。
「お詫びのしるしに、ぜひ遊んでいってください。お足は…」
 あたしが出す、とおときは言った。
「旦那さん。もう、この人はあたしの客だから、そのつもりで。ねえ、おしずさん。あとは、お願い」
 おときは、色黒大男の客にも、自分の粗相だ。揚げ代はあたし持ちだ。そう告げた。
「そりゃ、別の話だ」
 色黒大男は即座に手を振り、首も振った。  
「詫びは詫び。遊びは遊び。一緒にされたんじゃあ、筋は通らねえ。おめえには……。おときさんには、ちゃんと詫びてもらった。おれも騒ぎすぎた。この件は、それで仕舞いだ。こっからは客だ。よろしく頼む」
 頭を下げた色黒大男から、不機嫌さがするりと消え、何か甘い匂いが漂ってきて、おときを包んだ。
「ねえ。お客さん、この匂いって?」
「ああ、これか。俺は美作屋柳助。菓子屋、いや。しがねえ饅頭屋の匂いだろうさ」
 男は、柳助は照れくさそうに笑った。また、あまいやさしげなにおいが漂ってきた。
 においは、おときの胸の底でふたつ目の火花になった。
 この人、うちに来なきゃよかったのに……。
 おときに小さな棘が刺さった。
 
「お客さん。柳さんは、お酒は大丈夫なんですか」
「ああ、饅頭肴に飲める口さ」
 じゃあ、まず一杯あがれ、とおときが勧め、柳助は一気に呷って、
 今度は、おときさんだ。おときから眼を離さずに杯を返した。
 その一杯をゆうっくりと飲み干して、柳助に杯を返すころには、おときの白い肌には、顔から肩から、赤みがさし始めている。
 それから、ふたりして向き合ったまま何も言わず、何度杯を重ねたろう。
 やっと、柳助が口を開いた。
「おめえ、ずいぶん赤くなるんだな」
「えへへ。正直者ンらってばれました?」
「正直者ンて、どういう……」
「さあさ、飲んれ」
 おときは、柳助の二の句を遮るように杯を満たした。
 柳助にことばを継がれると、おときは自分の中の何かが弾けそうだった。
 だから、何も言わず、何も言わせず、日頃飲まない酒もずいぶん飲んだ。飲まないといられなかった。
 柳助が手にした何杯目かの杯は、おときの荒くなった呼吸で二つか三つ止まって、飲まれることなく、ゆっくりと盆の上に置かれた。
 ここから先は、いつもほかの客にしているのと同じ。
 口切りの酒が止っだら客と寝る。
 そのためのことばを、確認のことばを口にすればいい。
 それだけのことだった。それだけのことだったが、
「もう、飲まらいのかい」
 それなら……、おときの声がいつもにまして掠れている。
 あとは、酒器の載った盆を片付けながら、こう言えばいい。
「すぐに準備するから」と。だが、
 じゃあ、このお酒もらってかまわらいかい。
 おときは、それまで振り解けないでいた柳助の視線を、やっとのことで切り離して、残りの酒を呷った。
 おい、おめえ、飲み過ぎだ。柳助がおときの肩に手をかけた。
 おときはすぐに振り払おうとして、できず、うつむいた。
 なんで、とおときは、うめくように言った。もう、胸の底の火花がいくつも弾け散って、真っ赤に染まっている。
「なんで、うちの店に来たんです……」
 そりゃあ、柳助は絞り出すようにつぶやいた。
「おめえが、雪をぶつけたからだろう」
「じゃあ、あたしが……。あたしのせいですか?」
「そういうわけじゃねえ」
 悪いのは……だ。柳助がつぶやくように何か言ったが、おときには聞こえなかった。
「じゃあ、なんれすか」
 おときが、たたみかけた。
 最初は、と柳助がしゃべり出した。
「最初に雪が落ちてきたときは、夕べから降り積もってたんだ。しようがねえ、運がわりいって、思っただけだ。ったく、どこから落ちたんだってな。見上げたら、おとき、おまえの顔を真っ赤にした姿が眼に入った」
「…………」
「ここは、ここの通りは【けころ屋】の並びだ。新手の引き込みかなんかだと思ったさ。雪ぃぶつけて男の気を引いて、店に引き込む算段かってな。でも違った。だろ」
「…………」
「お前ぇは、うっかりドジを踏んだってだけだ。俺を客に引こうなんて気があったわけじゃねえ、ただしくじっただけだから、すぐ顔ぉ真っ赤にして謝って、障子の向こうに逃げやがった。正直ほっとした。もともと、遊ぶつもりもねぇし、客引きなんぞに関わるつもりもなかったからな」
 じゃあ、なんで。不思議に思ったおときの眼が、柳助に絡みついた。
「それが、急におめえの真っ赤な顔が浮かんできて、なぜか腹が立った。わざと当てられるのも腹が立つが、避けられるって言うのも一倍気にくわねえ。おめえに一言言わなきゃ腹の虫が収まらねえ。気がついたら大声出してた。馬鹿な話さ。おめえのせいでも何でもねえし、言うことなんか何もなかったのにな」
 よかった。おときは大きく息をして笑った。
「ああ、どこぞの神さんが悪さか嫌がらせって話さ」
 言いながら、柳助は胸の中で首を振った。
 まんざら悪さってわけでもないか、と。
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