冬の烏と夏の朱鷺――おとき柳助物語

三章企画

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おたか――縁杯とどぶねずみ(その1)

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「いやな雨……」
 上野山下に朝方から降り出した煙るような雨を見やりながら、けころや【ひたちや】の"たか"は、ぼんやりと考えていた。
『今日もお茶を挽くんだろうか』
 ひとり二朱の揚げ代で、一日何人の男と寝れば、たかの手元に一朱のお足が残ることか。
  飯を食い、着物を着る。その金は誰も払ってはくれない。
  ここ数日のように茶を挽けば、日々の掛を引かれ続け、逆に借金が嵩むばかりだ。
 たかは二年前、三十両五年の約束で【ひたちや】に売られてきた。
 五年勤めるか、三十両作れれば、たかはひたちやを出てゆける。一日一朱の銭でも、月に二両になる。一年もあれば、身を軽くするだけの金ができるつもりだった。
 だが、そうはいかなかった。
 先月、おたきとおすえが住替えをした。
 年期は明けたものの、ひたちやで拵えた借金が嵩んだ上、常連の上客もない。これ以上ひたちやでは面倒は見れないということで、借金の肩代りをした千住の売女屋に、売られたのである。
 だんだんと場末に住替えをしながら、最後は夜鷹か船饅頭にまで落ちていく。それがほとんどの女の行く末である。
 この二年で、おたかは、自分で稼ぎ上げて、自分で身を軽くできる者は稀で、身請されて所帯を持てる女など、噂話にすぎないと思うようになっていた。
 よほど阿漕なまねをして客から巻き上げるか、気付かれぬように枕探しでもして、客の財布から小銭を抜き取るか。そうでもしなければ、金なんか貯らない世界だと。
 おたかは、深いため息をついた。
『あと三年……』
 「なにか、間違ってました?」
 壁の向こうから、本所だったか下谷だったかの菓子職人に身請されることになっている、おときの掠れた笑い声が聞こえてきた。
「なんだ、それなら安心だ」
『おときさんみたようなのは、あんなことは……』
 おたかは耳をふさいでうずくまった。
『あたしなんかにあるもんか』

 おたかに客が付いた。
  泊まりだという客を引き込んだ遣り手婆のおしずが、
「おたか。白ねずみだよ。大事にしな」
 そう囁いた。
  おしずが言うように、客のもの柔らかい口調と身ごなしは、何の商いか窺いしれなかったが、中店(ちゅうだな)の実直な番頭、白ねずみそのものに見えた。おたかは、客の商人には似合わぬ日に焼けたがっしりした体躯と、時折眼に浮かぶ言いしれぬ鋭さがふと怖くなりはしたが、
『客は金。金はどこから出ようと金』
 おたかは、割り切ってもてなした。もちろん素振りには出さない。
 男は、小金を持っていた風で金払いはしごく良かった。
「好嫌いがひどくてな」
 そう言いながら、酒食をひたちやとは別な仕出し屋に誂えさせたが、古更紗の使い込んだ紙入れから即座に払うばかりか、使いの者に駄賃までくれてやった。
 おたかの気持ちが揺らいだ。
 この二年ばかり苦界の泥水に馴染み、アコギになると心に決めたところで、まだ十八になったばかりのたかには無理だったかもしれない。
 結局おたかには、空勘定を付けることも、駄賃をせびることもできなかった。
 夜中、添い寝をしていたおたかは、眠れぬまま、客の枕元を照らす行灯の明かりをぼんやりと見つめて何度も浅いため息をついた。
  客は軽い鼾(いびき)をかき、何度か寝返りを打った。
 何度目かの寝返りの時、枕下に隠していた古更紗の紙入れが転がり落ちて、口が開いた。行灯のほのかな明かりに、紙入れからのぞいた小判や小粒銀貨が鈍く光っている。
「不用心なこと。盗ってくれとでも言わんばかり」
  おたかは、手を伸ばして紙入れの口を閉じ、そっと枕元に押しやった。
 そのとき、かちり、と小粒の鳴る音がした。
  おたかの手が紙入れから離れない。乾ききった唇を湿そうとした舌が、渇いた口の中に張り付いている。おたかは、ゆっくりと乾いた生唾を飲み込んだ。
  ちらと見た客に起きる気配はない。
  おたかの手が紙入れの口を開き、おたかの指が紙入れの中に滑り込んでいく。
 指がひどく震えている。
「堪忍して……」
 おたかの震える指が、おそろしくゆっくりと紙入れの中の小粒をつまみ出した。
「ふてえ女だ」
 いきなり客の手が、おたかの細い手首を捕らえてねじり挙げた。
「じっと見てりゃあ、客の枕探したぁ、尋常じゃねえな」
 男の口調は、もの柔らかな白ねずみのそれではなかった。
「おい、誰か来てくんな。盗人だ」
 そう叫んでおたかを見据えた男の目は、行灯の明かりに鈍く冷たく光っていた。
 
  客の大声に、ばたばたと足音高く、店主の藤四郎とおしずが走り込んできた。
 客は、おたかの手首をねじ上げたまま、低い声でぼそりと藤四郎に言い放った。 
「見ての通りよ。お前さんとこの女が、人の紙入れに手をかけやがった。表沙汰にしてもいいが、しなくてもいい。お前さんの了見次第だ」  
「あいすみませぬ}
藤四郎は手をついて頭を下げた。
「おたか、お客様のおっしゃる通りかい?」
 藤四郎が頭を下げたまま聞いた。おたかは答えず、じっと下を向いたままでいる。 
「店の女の不始末は、手前に免じまして、どうかご内聞に願います」
 まずは、と頭を下げたまま続けた。
「女の手をお放しださいませ。その上で、ご相談させていただきたいのですが」
「そうかい」
 男は手を離した。おしずがおたかを連れて出、後には藤四郎だけが残った。
「たかだか五両ほどの金だ。盗られたわけでもねえ。盗ったところで首が飛ぶ額でもねえ。ただねえ、首が飛んだほどに気分が悪いのでね。この気分の悪さは、そうそう単簡《たんかん》には収まらねえだろうな」
 男は淡々としゃべっているが、中身は恫喝そのものだ。
『これは、やられたな』
 と藤四郎は思った。
  男は、暗に十両以上で詫びをしろと言っている。出さねばやっかいなことになるだろう。
 茶汲み女に客を取らせている、いかがわしい商売をしていることが公になれば、他の女も藤四郎もただではすまなくなる。
 この客、律儀に金を運んでくれる白ねずみどころか、倉を洗いざらい食い尽くしてしまうドブねずみだったという訳か。おしずの眼も落ちたな。
  藤四郎はくるくると頭を巡らせ、やがて深いため息をついた。
 何にせよ、客の金に手を出したおたかが悪い。おたかを飼っている藤四郎にも非がある。それは間違いなかった。精々こじれぬように、藤四郎の懐が痛まぬように、うまい落としどころの金額を切り出すしかないのである。
 
 おたかが、おしずに引っ張られるように廊下に出ると、隣の部屋のおときが顔を出している。おしずと眼が合うと、眼が部屋に入れと訴えている。
「おときさん、すまないが、ちょっと厄介になるよ」
 おしずはおたかの背中に手を当てると、そのままおときの部屋に押し込んで、後手に間仕切りを閉めた。
「おときさん、実はね……」
 おしずが切り出そうとすると、おときは大きく首を振った。
「だめよ、おしずさん。おたかちゃん、あんたから、ちゃんと話して聞かせて」
  おたかは唇を噛んだ。
『なんで、あんたなんかに話さなくちゃいけないんだ。あんたみたいに、ただ運がいいだけの女に』
「おたか、黙ってないで何とか言ったらどうなんだい。大体あんたがしでかしたことだろう。お客様のものに手をかけるなんて。まったく、なんてことをしてくれたんだい。申し訳がないったら……」
 ――どこかずっと遠くの方で、おしずが怒鳴っている声がしている。なんであんなに遠いところにいるんだろう。とおたかはぼんやりと考えていた。
 うつむいているおたかの視界の真ん中におたかの膝、上の端の方にほんの少しだけおときの膝頭が見えている。
『おときさんだって、綺麗な顔をしてても腹の中じゃ、何を考えているかわからない。どんだけ汚いことをしてきたんだか、どんな手管をつかって男を騙したんだか。わかるもんか。そうでなきゃ、ここからまともに出てけるはずなんかないんだ』
 おたかは、膝の上のこぶしをさらに固く握りしめた。そのとき、ゆっくり伸びてきたおときの、白くてぽっちゃりとした小さな両の手が、おたかの握りこぶしに触れ、ぎゅっと包み込んだ。ひどく柔らかくてあったかい手だった。
「こんなに冷たくなってる。おたかちゃん、怖かったろう」
 おときの手が、客に掴まれたおたかの手首に触れた。まだ、おたかの手首には、握りしめた客の手の跡が薄赤く残っている。冷たく残っている客の手の跡の上から、おときの手の温かさがゆっくりと忍び込んでくる。
「痕がこんなに赤くなってる。痛かったろう、おたかちゃん」
 ふと見上げると、おときの眼から涙が溢れている。おたかの心が揺らいだ。
――いやだ。こんなの、いやだ。
 おたかは、咄嗟に手を引いて、おときの手をふりほどこうとした。しかし、おときはぎゅと掴んだまま離さなかった。いや……。振り解こうとして、引いたおたかの手に力が入らなかったというのが、ほんとうだったかもしれない。どこにも力が入らない。
――あれっ? なんで?
 気づいたとき、おたかは涙が溢れ出して止まらなくなっていた。頬を、顎を、ぼろぼろと流れ落ちて止まらない。おときが抱きすくめた。おたかの頬に押しつけられた肌襦袢が、涙でぐしょ濡れになっていく。おときが、また、おたかをぎゅっと抱きしめた。
――あったかい。
 とおたかは思った。おたかが頬を押し当てているおときの肌襦袢は、涙に濡れた冷たかった。だが、その肌襦袢越しにおときの肌の暖かみが伝わってくる。
――あったかい。
 おたかは、もう一度そう思った。(その2へ)
 
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