冬の烏と夏の朱鷺――おとき柳助物語

三章企画

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おたか――縁盃とどぶねずみ(その2)

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 おたかは、ゆっくりと紙入れの一件を話した。
 おときは、頷きも瞬きもしないで、ただじっとおたかを見つめている。
 最後に、おたかは遠慮がちに一言だけ付け加えた。
「こんなことをしといて、今さら言い訳にしかならないけど、あの人、あたしが財布に手に掛けるのを、わざと待ってた気がする」
 あぁ、とおしずが言った。
「やっぱり、なんか怪しいとは思ったんだよ。あんまり派手に騒ぎすぎてたし」
「それでも、おたかちゃんが悪いよね」
 おときは、ぽつりとつぶやいた。
 うん、とおたかもうなづいた。
「じゃあ、おたかちゃん。何が起きても、どんな結果になっても。あんたに受け入れる覚悟があるんなら、全部あたしに任せてくれる?」
 おときが、おたかの手をぎゅっと握って言った。おたかは、ただうなづいた。
「よし、と。じゃあ、おしずさん、お銚子一本か二本ちょうだい。冷やでいいから。だめよ、何にも聞かずに持ってきてちょうだい」
 おときに言われたまま、おしずが銚子二本と杯を持ってくると、おときはひとりでさっさと注いだ杯を空け、空けた杯をおたかに渡すとなみなみと注いだ。
「親が同じ縁で姉妹になる。夫が縁でも姉妹になる。だったら、ひとつ屋根の縁でも姉妹になれる。そのつもりの、その縁の杯なんだから、おたかちゃん、これであんたはあたしの妹になる。何があっても姉は妹を守る。いい?」
 おときがそう言うと、おたかは深く頷いて一気に杯を空けた。
「よし」
 と言ったおときの色白の肌は、すでに胸元まで朱に染まっている。おときは、銚子を掴んだまま、しばらくためらっていたが、
「えい」
 と気合いを入れると、銚子のまま一気に呷った。
 ふうっ。おときは、深く息を吐いて、へへっと笑った。
「だらしない姉ちゃんでね。酔わないと度胸が座らなくってさ」
 そんなこと、おたかは大きく首を振った。
 おたかには、おときが何をしようとしているかはわからない。
 でも、相手はたぶん堅気の人間ではない。何をされるか予想も付かなかない。怖くない方が嘘だ。
「さあて、行こうか。おたか、あんたはお姉ちゃんを信じてついておいで」
 おときはおたかの手を引いて廊下に出た。
 おしずが思わず大声を上げた。
「ちょっと、おときさん。なにをするつもりだえ。おたかを引っ張ってって……」
 大声が終わらぬうちに、おたかを引きずったままのおときが部屋に飛び込んた。

 お客さん、と客の前に詰め寄ったおときが言った。
「この子が、あたしの妹がお客さんの紙入れに手をかけたんだってね。申し訳ないことをしました。人様のもんに手をかける以上は、この子にも覚悟ってものがあったはず。このまま、番所へでもどこでも突き出して、きちんとお上の裁きを受けさせてやっておくんなさいまし。つまんないところで、うやむやにしちまったんじゃあ、この子のためにもお客さんのためにもなりませんから」
 おとき、よさないか、と藤四郎がたしなめた。
 おときはきかない。
「そうですよね、お客さん」
 おときは、正面から瞬きもしないで客を見つめている。
「あ、いや、たかだか五両十両の端金《はしたがね》だ。ことを荒立てるつもりはねえ。こっちは、詫びの気持ちさえ示してもらえりゃいいんだからな」
「ちょいと」
 おときの語気が強くなった。
「お客さん。たかが五両の端金とおっしゃいましたね」
 おときの呼吸で二つか三つ、おときは、じっと眼を閉じ、きゅっと唇を噛んだ。それから、ゆっくりとことばを選びながら言った。
「この世界に暮らす女はね、その端金《はしたがね》の五両どころか、一分一朱、いえ鐚銭一文だって、喉から手が出るほど欲しいんだ。苦界の泥水を洗い流して、この身をきれいにするための御足がね。でもね、人様のものに手をかけた、そんな汚れた御足じゃ、きれいになんてなれっこない。お天道様の下をまっすぐ立って歩かれやしない。だからこそ、この子の、おたかのしたことは、おたかが自分で責めを負わなくちゃあいけない、出るところへ出て、きちん裁かれる。それが、おたかが、この子が見せる詫びの気持ちなんです」
 それが、と客があざ笑った。
「詫びを入れるってことかい。詫びを入れるってのは、おたかってえ女が、盗んだ詫びの、例えば十両と、それに興ざめにしちまった遊びの金に色でも付けて、すっぱり出すって言うのが、詫びの相場ってもんだ。違うかい」
 聞いたおときが、ついとにじり寄った。
 おとき、と藤四郎がおときの袖を引いた。
  いや、大きく首を振って藤四郎を制したおときが、客を見据えて鼻で笑った。
「お客さん、全然わかってないんだね。お金じゃないんだ。ここ……」
 おときは胸に手を当てた。
「ここんとこに恥ずかしくないってことが大事なんだって言ってんだ。出るとこ出て、そこで、詫び金いくら出せってお裁きが下ったんなら、その時になったら、言われただけじゃあない、色付けて出しましょうよ」
「そいつは、違うぜ、姐さん」
 客が口をはさんだ。
「金ってえのは、姐さんらにとっちゃあ、その身体をきれいにする大事なもんなんだろ。のどから手が出るほどほしい大事なもんなんだろ。なあ、詫びってえのは、一番大事なもんを、迷惑かけた相手に、すぐさま差し出すから通じるってもんだ。違うかい?」
 穏やかだが、粘着くような口調の中に、凄みの翳が見え隠れしている。
「ああ、違っちゃいないよ。お客さんの言う通りだ。でもね、この子やうちの旦那さんが、今、お金を出すのは違うんだよ」
「何ぃ? 金は出さねえ。そいつは、人様の金ぇ盗んどいて、詫びる気は金輪際ねえってことか。いいや、いい。素寒貧のてめえらから貰うつもりはねえ。そっちの旦那なら、世間の道理ってもん、知ってなさるはず。どうです、もうこの辺で、限りにして、丸く納めてみちゃあ。でないと、この先ろくでもねえことになるかもしれませんぜ」
 客は、凄んだ台詞を押し殺すような声音で吐き出した。
 藤四郎がひるんでも、おときは一切構わない。まっすぐに口走っている。
「おや、女どもに金がないと知ってて凄んで吹っかけるなんざ、日頃から、よほど阿漕な商売に慣れてなさるんでしょうかね。お客さんの物言い、お天道様に向かってまっすぐ立ってる商人《あきんど》というより、お天道様に背を向けてる強請たかり専門の小悪党のようで……」
「てめえ、このあま……」
 おときは、言いかけた客の唇に人差し指で触れて、軽く押し返した。う、と言ったきり、客は二の声が出なくなった。その客に、おときはさらにことばを被せていった。
「あたしがしゃしゃり出て、お客さんの遊びを台無しにしたんだ。店のお代はあたしが持つよ。でもね、おたかの落とし前は、おたかにつけさせる。人様のものに手をかけたんだ。出るところへ出て、きっちり白黒つけさせる。金で、あいまいに納めちまっちゃ、いけない。このけじめを、今ここでし損じると、おたかは転んだまま、まっすぐ立てなくなっちまうんだよ。大事なことなんだ。わかるかい」
 おときは、藤四郎に向き直って言った。
「旦那さん。町役人の良蔵さんを呼んで、事情を全部話しておくんなさい。おたか、それでいいね」
 おたかは静かに頷いた。おときは、
「お客さんもそれで……」
 客に向き直ると最後まで言わずじっと見つめている。たまりかねてか、客はぼそりと絞りだすように言った。
「おめえ、おときとか言ったな。酒は飲めるか」
 おときは笑った。
「話が付いて、酔っ払っていいんならね」
「そうか。亭主、酒を出してくれ。酒代は俺が出す。紙入れのこたぁ、俺の思い違いだ。何もなかった。えらく迷惑かけた」
 なんだってさ、とおときが掠れた声で笑った。
「それなら、安心だ」
  おたかは、手をついて深く頭を下げた。
 そのとき、
「かなわねえな。おときさんには……」
 誰かがそう言った声が、おたかには自分が言ったように聞こえていた。
――かなわねえな、おときさんには、姉さんには、と。
 おたかは、もう一度口に出して言ってみた。
 
 数日後、隣の部屋から、おときの馴染み客の柳助の声が聞こえてきた。
「そいつは、あれかい。三国志の桃園の契りってやつの真似かい」
「そうそう、桃の木の下でみんなで冠を脱いで、お酒を飲んで義兄弟になるって、あれ」
 おとき、と言ったきり柳助の声が聞こえなくなった。かわりに、
「あら、なにか違ったっけ……」
 おときの困ったような、そのくせ妙に明るい笑い声が聞こえてくる。
「なんだ、それなら安心だ。えへへ」
 もう、姉さんたら……。
 おたかは、あの時のことを、おときに手を引かれて、どぶねずみの客のところに連れていかれた時のことを思い出して苦笑した。
 怖くはなかったんですか?
 何が?
 どぶねずみのお客さんのこと。
 えへへ、覚えてないんだよ。お酒飲んで、おたかちゃん妹になって、お姉ちゃんになったから妹守らなくちゃって……。えっと、まっすぐ歩いてって、まっすぐ言いたいこと言って、そのあと、なにか違ったっけ。
 いえ、なんにも。姉さんのおかげで、さいごは皆笑ってましたよ。
 そっか、それなら安心だ。
 ええ、おたかは、ゆっくりとうなづいたことを。
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