埋(うずみふ)風――風が吹いたら死体が見つかり、ぼくは少女を殺す夢を見る

三章企画

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少女を殺す夢を見ないために(その2)

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 発酵熟成が順調に進めば、完熟に近い日数の堆肥には手がかからなくなる。
 工場長が休みに入る明日(五月三日)からの連休の後半に向けて、ぼくの作業は連休明けにやってくる機械メーカーの技術員の作業環境を整えていくこと。つまりは機械周りの清掃が、主体になっていく。清掃と言っても、エアガンを使って高圧空気を吹き付けて、機械に付着したゴミや埃を吹き飛ばし、工業用の掃除機で吸い取っていくのが主な作業だ。ありがたいことに、エアガンの調子を見てくれていた工場長から声が掛かった。
「木塚。エアガンの圧力が上がらないみたいだから、コンプレッサーの調子が悪いか、配管に破損があるのかもしれん。時間をみて、確認しといてくれ」
『それもかよ。最後まで見ればいいだろうに』
 一瞬不満が過ぎり、いや、集中できる仕事が増えた方が今のぼくにはいいのかもしれない。と思い直した。
「配管の方は、予備部品の在庫がないときは適当に調達していいですか? 部品屋には仕事帰りに寄れますから。コンプレッサーの方は、取りあえず昼一番ひるいちで見ておきます。支障があれば、連休明けにすぐ対処できるようにしておくということで」
「ああ、そういうことで、今日一日頑張ることにしようか」
 有島工場長はそう言うと、ゆっくりと応接用のソファーに腰掛け、テレビのスイッチを入れた。頑張ろうか、と言っても工場長は電話番で、仕事をするのはぼくひとりだったが……。
 十時前だったろう。ぼくが堆肥の上に登って含水比を取っているところに、工場長が声を掛けてきた。
「新規の注文が入った。荷下ろし場所の確認に出てくる。下福元町だから、昼には戻る」
 工場長は、そう言ったが当てにはしていない。ついでにあの近辺のお得意さん回りをしてくるに違いなかった。だいいち弁当を入れているバッグが、今朝置いた場所にない。案の定、昼休みが終わっても帰って来る気配もなかった。 

 昼一番ひるいちで見たコンプレッサーの本体は、正常に作動していた。
 工場内の配管に破損があって破損個所から空気が漏れていれば、稼働中のコンプレッサーは、圧縮空気を送り続けるが、全配管に一斉送気してもすぐに、停止状態スリープになった。工場内配管に繋げていないエアガン本体か、配管にエアガンを繋ぐホースに異常がある。
 と考えた方が良かった。それならエアガンかホースを交換するだけですむ。
 さらに曝気ブロワの作動状況まで確認し終え、切り返し作業に入ろうとする午後三時頃、やっと工場長が帰ってきた。
「いやあ、話し込んでしまって。ほれ、茶にしよう」
 工場長は、机に置いたバッグから新茶・知覧茶と書かれたパッケージを取り出して封を切り、茶をれ始めた。新茶の香りが部屋中に広がっていく。工場長は、
「気がついたら知覧町の茶畑の中を走ってた」
 言い訳がましく言った。だが、確かに走らせても手に入れてくる価値のお茶だった。
「それで、下福元町の件はどうでした?」
「できれば週末までに欲しいと言うから、四日か五日に天気を見て、俺が運んでおく。バラで三トン。下ろすのもわけない場所だったし、四トンダンプが都合つけば一度ですむ」
 わかりました、とぼくは答えた。続けてコンプレッサーの件を話すと、
「適当にやっておいてくれ。金のかからない程度にな」
 とだけ返ってきた。
「世間は休みだし、今日も早めでいい」
 工場長は続けた言ったが、ぼくは断った。
「遅くなっても、エアガンとホースの確認をしておきます。確か予備もあったはずだし、今日終わらせておけば、明日以降ばたつかずにすみますから」

 予備のエアガンとホースに替えると問題なく作動した。ぼくは、交換した稼働不良のエアガンとホースを段ボール箱に入れて、【稼働不良・要整備】と大書きして備品倉庫に放り込んだ。終業時間までは、少し間がある。
 ついでに備品倉庫の棚の確認もしてみた。
 しばしば覗く棚はきれいだが、そうでない棚は芥溜めと化している。
 時間的にも気分的にも、いま掃除をやる気はない。
 明日から掃除、整理をやるとして、手順の確認。その程度のことだ。設備点検の連中がやってくれば、どのみち備品倉庫にも手が入ることになる。
 ざっと棚に眼を通していくうち、最上段の奥に懐かしい段ボール箱を見つけた。
 とっくに処分したつもりだった堆肥のサンプル。幾箱分あるだろう。
――木塚用堆肥サンプルと大書してある。箱の中にはビニール袋やプラスチックケース、コーヒーやワンカップ酒のガラス小瓶がぎっしり詰め込んである。袋や瓶の中には、いろんな場所、いろんな状態で採取した堆肥が詰めてあるはずだった。
 この堆肥センターに勤め始めた七年ほど前から数年の間、勉強用に採取しまくったものの一部だ。処分したつもりだったが、数が多かったから、棄て残した分らしい。
 開けてみると、一次発酵の途中のもの、二次発酵の途中のもの、完成したもの、施肥後のもの、施肥後土壌と攪拌したもの……。
 と上書きに書いてあったが、年数が経ってしまうと発酵が進んで同じように見え、その多くには、白く黴《かび》が吹いていた。この黴は素性の良い土壌細菌が凝縮したもの、つまりは、有機物を分解、堆肥化(肥料化)する有用な発酵材が成長したものだ。かび臭さの中に、甘いエーテル臭――仄かにオレンジのような甘い発酵臭が含まれているのが最大の特徴だ。
 せっかく高い棚の上から下ろしたのだし、すぐに棄てるのも勿体もったいない。家に持って帰ってじっくり眺め、今の自分の眼にどう映るか確かめてみたい気もしてきた。
 サンプルの幾つかには、七年前の五、六月の日付が書かれたものもある。ぼくは、つい鼻を近づけサンプルの匂いを嗅いだ。これは職業病と言っていい。気付かずやってしまう。結果、――黴の匂いが鼻の奥を突き、目頭を刺激した。ぼくは何度もくしゃみをした。滅多にないことだが、くしゃみも鼻水もなかなか止まらなかった。
 工場長が居れば、さんざん皮肉られるところだったが、もう帰っていた。

 発酵と腐敗の大きな違いは、それが人間にとって有用であるか有害であるかだ。
――そう断言する学者もいる。
 人のことばも似たようなものだ。助言ととるか嫌味ととるか。名だたる鰯の缶詰シュールストレミングやくさやの例もある。結局、工場長のことばも受け取るぼく次第だとわかっているのだが、あれは腐敗としか思えない。
 鼻水をかみながら、最近は堆肥を食わなくなったことを思いだした。
 あの当時、ぼくは五感全部を使って、堆肥の成熟を、文字どおり肌で覚えようしていた。掌で温度や湿感、鼻で匂い、眼で色や形、耳で発酵する音、最後に舌で味……。腐食が進んでいても木の味しかしない木屑が、ほんのひと月で微かだが苦味と甘酸っぱ味を含んだ木の泥のようになっていく。
 これは、驚きだったが、おかげでずいぶん腹を下した。
 やがて耐性が付いたのか平気になったときには、以前からの従業員を差し置いて、工場長にこき使われるようになっていた。
 ちょうど、風に遇い始めた頃、一城美奈子という名前だけは知っている、あの少女の夢を見始めた頃と前後していたかもしれない。
 
 帰り際、誰もいなくなった事務所で、箱を抱えたまま、工場長が押し忘れていったタイムカードを押そうとして、ぼくはくらくらするような不安にかられた。
 箱の中から忍び上がってくる甘酸っぱ味を帯びた黴の匂いが、まるで不安そのものようにぼくを押し包む。
――ぼくは、本当に何もしていないのか? と。
 気がつくとぼくは事務所の受話器を握りしめていた。
「はい。中央警察署ですが、もしもし」
 耳元で音はしているのだが、なぜか人の声がおそろしく遠くに聞こえている。
「あ、人捜し……。家出人のことで尋ねたいことがあるのですが」
「家出人のことですね。少々お待ち下さい」
 受話器の向こうの声が途切れ、回線が切り替わり呼び出している音が聞こえる。
 呼び出し音を三つほど数えたはずだった。
 わずか二秒足らず。
 だがとてつもなく長く感じた。耳で聞く時間とぼくの心で捉える時間とに大きなずれが生じているのがよくわかった。
「電話替わりました。家出人のことでご相談とか? どんなご用件でしょうか?」 
「捜索願が出ているかどうか、確認したいのですが」
「失礼ですが、ご身内の方でしょうか? 違うのですか? それでしたらお教えできませんが」
 受話器の向こう側の声が、ふいに間近に聞こえた。ぼくは少しだけほっとした。
「それならいいです」
 ぼくは受話器を切った。
『なぜ電話なんか掛けたんだろう?』
 事務所の入り口の鍵を掛け、堆肥センター出入り口の門を施錠しながら、何度も思った。
 夢の中の少女が誰かに見つかることも、ぼく自身が見つけることも、確かに不安だった。ただその不安以前に、どうしても、彼女が存在したのだと確認したくなっていたのだ。
 彼女の存在が証明されれば、ぼくの記憶にはなくても、ぼくは彼女を殺害した可能性と向き合うことになる。
 証明できなければ、ぼくの不安はただの妄想に過ぎなくなる。
――存在しなければいい。いや……。違う。
『ぼくは彼女の存在を証明したがっている』
 矛盾していた。

 徐々に暗くなっていく部屋の中で、ぼくは必死に夢の細部を思い出そうとしていた。
 夢がどの場面から始まり、どのような経過を経て、目が覚めるのか。
 記憶の中で流れていく夢の一部分を強引に引き止めて、しっかりと思い出そうとすると、夢はすぐに曖昧にぼやけて記憶からすり抜けていった。あとにはぼんやりとした輪郭だけが薄闇の中で蠢《うごめ》いているばかりだった。
 ぼくは夢を思い出すことを諦めた。
 その代わり、どこからでもよかった。
 ぼくは自分の過去を思い出そうとした。
 このマンションに越す前からの、この十年前のこと。
 夢を見るようになった五年前のこと。
 そのどれもが、同時に思い出した幾つかの時間と混合し、曖昧な薄闇になって消えていった。
 ぼくは今日のことを思い出そうとした。
 時間とは無関係に断片的なシーンがいくつも浮かび、脈絡がなくなっていく。
 不意に眠気が差した。
『そう言えば、このところあまり寝ていなかったか。寝ないと歯車がかみ合わないものな』
 唐突に思い出し、そのまま気を失うように眠り込んでしまっていた。
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