キセキ

吉野 那生

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錯覚

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彼女の存在に気付いてから2駅目で大勢の人が降り、幾分空いた電車に2人は揺られていた。


 ——どことなく疲れた顔をしている。

思い詰めたような様子が気になり、ダニエルは彼女に気付かれぬよう密かに窓に映るソフィアを観察していた。

よくよく見なければ分からない程度ではあるが、目元が僅かに腫れているのは…泣いたからなのだろうか。 

そう気付いた瞬間、ソフィアはびくりと身体を震わせた。
それは隣に立つダニエルにもはっきりと伝わるほどだった。

頬を真っ赤に染めきゅっと目を瞑る様子を不審に思い、ソフィアの背後に視線を巡らせ…唐突に彼は理解した。

不埒なその手を怒りに任せて掴みあげる。
ぎょっとした顔つきになった若者に、彼にしか聞こえぬよう低くダニエルは囁いた。

「お前が触れていい相手ではない」

冷ややかな声色に気圧され立ち竦む若者を尻目に、守るようにソフィアの肩を抱きダニエルは車両を移動した。
その細さに内心驚きながら…。 


「もう大丈夫だ」

気遣いのこもった声に、彼女は思わず耳を疑った。
ソフィアの中で眠っていた記憶が、瞬時に蘇る。

気がつけば、いつも捜し求めている声とうり2つのような気がして、心配そうに見つめるダニエルをソフィアは凝視した。

記憶の中の彼は…目の前に立つ彼同様、くすんだ金の髪に空色の瞳をしていた。


思わぬ共通点にソフィアの心拍数が跳ね上がる。


 ——けれど…彼は、ヒトではなかった。

 そう気付いた瞬間、微かな希望は粉々に砕け散った。

羞恥と恐怖を伴う不快な状況から助けてもらった安堵が、不安定な心に微妙に作用する。
目の奥がつんとして、みるまに涙で視界がぼやけた。


 ——助けてもらったのに、顔を見るなり泣き出すなんて…なんて失礼な事を。

自分がひどく恩知らずのような気がして、少しでも気を抜けば漏れそうになる嗚咽を、ソフィアは歯を食い縛って堪えた。 

一方、零れ落ちそうなほど涙をいっぱい湛えたまま、自分を見つめるソフィアにダニエルは息を呑んだ。


「す…みま、せ…」

震える声で詫びるソフィアの両目から、とうとう溢れてしまった涙が、一筋頬を伝って落ちる。
慌ててハンカチを差し出すと、ソフィアはビックリしたようにダニエルを見上げ、恥ずかしそうにごしごしと目を擦った。

 そんなに擦ったら真っ赤に腫れ上がって、後で痛くなるのに。 
痛々しい姿を想像しただけで胸が痛み、ダニエルは咄嗟にソフィアの手を自らの手で押さえていた。


「…え?」

「あ、と…」

気の利いた言葉が出てこなくて、バツの悪い思いをしながら手を離したダニエルに、ソフィアはぎこちなく首を傾げた。

「悪い……。
でもそんなに、擦ったら、腫れて痛くなる…から」

つっかえつっかえ発せられた言葉は、自分を気遣うもので。

「ありがとうござい…ます」 

語尾が明らかに震え、俯いたソフィアの頬を再び涙が伝って落ちる。


唇を噛みしめ、懸命に嗚咽を噛み殺そうとするソフィアを黙って見ている事など、ダニエルに出来る訳がなかった。

ソフィアの肩を抱くように頭を胸に押し付けると、ダニエルはポンポンと彼女の背をもう片方の手で優しく叩いた。 
そのまま強張っていた身体から少しずつ力が抜けるまで、包み込むようにソフィアを抱きしめていた。 

 *

「私なりに、一生懸命やっているつもりなんです。
でもまだ足りないっていうか、結果を出せないっていうか…。
それに悪意とか嫉妬とか、そういう生の感情を向けられる事もあるんですけど。
ダメなんですよね、上手に躱せなくてつい固まってしまうんです」


 ——確かに。

優しさや清らかさに触れる機会はあっても、悪意や嫉妬なんてモノには今まで縁がなかった筈。

そういう醜い感情を目の当たりにし、直接ぶつけられるという事は、自分の思う以上に耐え難い事なのだろう。

優しげなソフィアの顔に浮かぶ疲労の影に、ダニエルはそんな事を考えた。
 もしかしたら人間界に来て、まだ日が浅いのかもしれない。
そう要領が悪そうには見えないが、失敗続きでとうとう仕事をクビになったというソフィアを、少し迷ってダニエルは自分の店に連れてきた。

 「ミルクでいいか?」

「ありがとうございます。
でも…ここは?喫茶店か何かですか?」

「俺の店なんだけど…一応パブなんだ」

こじんまりとした店は昼間は軽食も出しているせいか、彼女の目には喫茶店と映ったらしい。 

「パ…ブ、ですか?」

「飲食店には違いないけどな、一応アルコールを提供する所」

「はぁ…」

理解できたのかできなかったのか、分からない曖昧な顔で頷くと、彼女は差し出されたカップを両手で受け取った。

猫舌なのだろうか。
湯気の立ち上るカップに息を吹きかけるソフィアの表情は、依然曇ったままだった

そんなソフィアの気を引きたくて、ダニエルは

「そういえばまだ自己紹介もしてなかったな。
俺はダニエル。ダンって呼んでくれ」

と人間界でも使っている名前を名乗った。 

「ソフィアです。
助けていただき、ありがとうございました。
それにご迷惑をおかけして…」

またしても俯くソフィアに、ふとした思い付きで

「あんた、料理は?」

と訊ねてみるダニエル。

「料理…ですか?まぁ、多少は」

面食らった様子でパチパチと瞬きをしながら答えるソフィアに、にこりと笑いかけ

「んじゃ悪いけど、ここにあるモノ好きに使っていいから何か作ってみてくれないか?」

半ば強引に厨房に案内する。 


戸惑いながらも冷蔵庫を開け、使えそうな食材を取り出し調味料を確認すると、ソフィアは手早く野菜たっぷりのスープをこしらえた。

「どう…ですか?」

「ん…ウマい。これなら合格だな」

おそるおそる尋ねるソフィアに、ダニエルは綺麗に片目を瞑ってみせた。

キザっぽい仕草なのに、彼がやると嫌味がなくてやたら決まっていてソフィアの心臓がドクンと大きく跳ねる。

自分の頬が真っ赤に染まるのを自覚しながら、ソフィアは

「ご、合格?」

と問い返す。


「そ、あんたうちで働かないか?」

「……は?」

思いもよらない言葉に、ソフィアは目を丸くした。


 ——見ず知らずの他人に、何故こんなに優しくしてくれるのだろう? 

天界にいた頃には、そんな事考えもしなかったけれど…。

ヒトの間で様々な思惑や嘘を垣間見てきたソフィアにとって、ダニエルの申し出は唐突過ぎるもので。
困惑から眉を顰めるソフィアに、急ぎすぎたか?とダニエルは自分自身に苦笑しながら、言葉を選びつつ話しはじめた。


 今まで1人でこの店を切り盛りしてきた事。

客の少ない日中はともかく、本業であるパブとして客の望むサービスが、満足に行えていない事。

軽いつまみ程度の食事を提供したいと前から考えていて、その為に調理のできる者を雇おうと思っていた事。


 「それって…」

途中で躊躇ったように口を噤むソフィアの様子に、何となく彼女の言いたかった内容を察し

「アルコールの提供およびフロアでの接客は今まで通り俺がやる。
君には裏方として、食事や賄いを作ったり食器を洗ったりしてもらいたいんだ」

とダニエルは説明した。
その言葉に、ソフィアは明らかにホッとした笑顔になった。 

「沢山は無理だけどちゃんと給料も出すし、住む所も提供できる。
といってもここの2階なんだけどな。
もちろん部屋には鍵もかかるし、何なら食事も洗濯も別にしてくれて構わない」


「え…?それって…一緒に暮らすって事、ですか?」

「そういう事になるかな?」 

少しでもソフィアが嫌がったり困ったりするそぶりを見せたら、ここは大人しく引いておこう。

もちろん、今更彼女を逃がすつもりなどない。
が、強引に押し切るのは得策ではないように思え、そんな殊勝な事を考えたダニエルだったが…。

嬉しそうににっこり微笑むとソフィアは

「じゃあこれからよろしくお願いします」

とダニエルに右手を差し出した。 


あまりにも無防備というか簡単に信用され、多少拍子抜けする思いでダニエルはその手を取った。


「そんな簡単の俺の事、信じちゃっていいの?
俺がオオカミだったら今頃、頭っから食べられちゃってるぜ?」

手を握ったままイタズラっぽく笑うダニエルに、ソフィアもにっこり微笑みながら

「あなたは悪いオオカミですか?
私にはそうは見えませんし、そんな心配もしていません」

と手を握り返した。

 ソフィアの言葉に、ダニエルは虚を衝かれたように目を見張った。



——ここが人間界で良かった。

真の姿を晒していたら、間違いなく翼が彼の動揺を伝えてしまった筈だから…と思いながら。 

そして…異なる世界で、天使と悪魔の奇妙な共同生活がはじまった。 
     
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