キセキ

吉野 那生

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真実

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天界と冥界は元々1つの世界で、そこに暮らす者は「神の手」と呼ばれていた。

けれど、いつしか聖なる気を纏う者は天使と呼ばれ、対照的に退廃した気を纏う者は悪魔と呼ばれるようになった。
元は同じ種であった両者はやがて異なる種へと変化していき、それぞれが住む地を天界と冥界に呼び区別するようになった。 


そしてまだ天界と冥界の境目が曖昧だった頃、天使と悪魔の戦いは今よりも熾烈なものだった。 
悪魔は天使を誘惑する事を好み、堕落させようといつしか天使狩りと称して襲い掛かるようになった。

天使はそんな悪魔を忌み嫌い、やがて力でもって悪魔をはねつけるようになった。 


ソフィアが、まだ美しい純白の翼を持つ天界の住人だった頃の話だ。 

  *

不穏な気配を察した時にはすでに遅かった。
あっという間に取り囲まれ、ソフィアは退路を断たれてしまった。
翼が不安で小さく震えるのを懸命に押さえ、ソフィアは顔を上げ静かに言葉を発した。

「お願いですからそこを通してください」 

けれど、その願いは冷ややかに微笑む3人の悪魔達に聞き入れられる事はなかった。


小さな翼を懸命に動かし逃げるソフィア。
そんな彼女を嘲笑うかのように追い回し、少しずつ羽根を毟り取る悪魔達の非道さに、ソフィアは痛みと屈辱で唇を噛み締めた。 


そんな彼らを、冷めた目で見つめる1人の悪魔がいた。

その異名のごとく悠々と大空をかけていたヴォルクは、仲間達が1人のうら若き純白の乙女を追い回している所に出くわした。

天使を、仲間達が戯れに弄ぶのはいつもの事。
別段進んで仲間に加わりたいとは思わなかったが、かといって天使を助けたいとも思わなかった彼は、その場を離れようとした。 

しかし…数人がかりでいたぶられ、いよいよ逃げ場を失った天使と目があった瞬間、彼の動きが止まった。


内心生きた心地もしないだろうに、それでも彼女は怯えた素振りも見せず、まっすぐ彼らを見据えていた。

理不尽さも悲しみも見出す事の出来ない澄んだ眼差しに、その凛とした姿に何故かのヴォルクの心が震えた。

どうしてかわからないけれど…彼女をここで汚してはいけない気がして。


咄嗟にヴォルクは腕を伸ばすと天使を抱え、全力でその場を離れていた。

 「鷹」の名は伊達ではない。
ソフィアを抱えていてもヴォルクのスピードは素晴らしく、あっという間に他の悪魔達は引き離されてしまった。

それでもソフィアを抱きしめたまま用心深く周囲を窺いながら、人目につかない冥界の端までヴォルクは飛び続けた。



 「もう大丈夫だ」

そこは、天界の気が強く流れ込む、いわば聖なる地。

天使であるソフィアには安らげる場所であったが、悪魔であるヴォルクにとっては些か辛い場所であった。

 震えの止まらないソフィアを、細心の注意を払って地面に下ろし、怪我がないかさり気なく確認する。


羽先が乱れ、恐怖の為か絶えず翼が震えていたけれど、それでも本人には怪我のない様子に、ヴォルクはホッと胸を撫で下ろした。

そんな彼をソフィアは怯えた目で見上げていた。 


「悪かったな、嫌な思いをさせて」

「……どうして?」 



——一体どんな気まぐれで自分を助けたのか。

何故、彼が謝るのか。

本当に逃がしてくれるつもりなのか。 


混乱を極めたソフィアが口に出来たのは、簡潔な問いだけ。

しかし問いには答えず

「早く戻った方がいい」

とだけ告げると、ヴォルクは翼を翻した。  

 * 

ソフィアの尋常でない悲鳴が聞こえてきたのは、シャワーを浴び2人の共通スペースであるリビングに戻った時の事だった。 

いつの間にか眠ってしまったのだろう。
ソファに横になり苦しげにうなされているソフィアの傍らに、ダニエルは慌てて駆け寄る。

「ソフィア!」

名を呼びながら両肩を掴んで揺さぶると、ソフィアの焦点の合わぬ瞳に怯えの色が走った。

「大丈夫だ、もう大丈夫だから」

抱き起こし、優しく声をかけながら何度も髪を撫ぜると、ソフィアはふと息を吐き

「…ダン?」

か細い声で彼の名を呼び、縋りついてきた。 

こういう時、自分でも説明のつかない感情に支配されダニエルはソフィアを強く、強く抱きしめる。

ソフィアが他の誰よりも、自分を頼りとし全てを預けてくれているような。
彼女を苦しめる全ての物から守りたいような。
いつまでも、ソフィアを抱きしめていたいような。 


そんな感情をなんて呼べばいいのか、彼はまだ知らなかった。
けれど…それが特別な感情であるという事だけは知っていた。


 「怖い夢でも見た?」

「……えぇ」

いつもの問いにいつもの答え。
ソフィアがうなされる事は、これが初めてではなかった。 

人間界と2人が属する世界とでは、時の流れ方が違う。
天界と冥界ではまだ2ヶ月しかたってないのだが、人間界では既に2年という時間が過ぎていた。 

「…どんな夢?」

いつもなら、それ以上踏み込もうとはせず、ただソフィアを抱きしめるだけだった。
しかし今日に限ってそんな質問をするダニエルに、ソフィアは目を瞬かせ戸惑ったように顔を伏せた。

「嫌ならいいんだ、無理に聞き出そうとは思ってないから」

「……いえ、大丈夫です」 

初対面の頃であれば、おそらく話してはくれなかっただろうとダニエルは思う。
しかし2年という時間が2人の絆を確かな物とし、互いにいつしかなくてはならない存在となっていた。

少なくとも…ダニエルははっきりとそう自覚していた。 
躊躇うように口を開いては、言葉を探すように噤むソフィアをダニエルは黙って見守った。

「あの…ですね」

口篭り言葉に詰まりながらも、ソフィアはかいつまんで夢の内容を説明し、その時の恐怖を打ち明けた。 
その告白に今更ながら、ダニエルは衝撃を受けていた。 

ソフィアの心に残った傷は…予想以上に深かった。
目に見える傷はいずれ治るし、治った事も確かめられるけれど。

心の傷がトラウマとなって、いつまでも彼女を苦しめていたのだ。
自分が早く助けに行かなかったばっかりに…。 

激しい自責の念と後悔とに苛まれたダニエルは、両手を髪に差し入れてきつく握り締めた。

そんなダニエルの様子をどう誤解したのか

「でもっ!…夢ですから、大丈夫です」

慌てて何でもないように手を振るソフィアを、ダニエルは咄嗟に怒鳴りつけていた。


「大丈夫なもんか!
今迄だって何度うなされていた事か」

「…」

「あ、いや……すまん、つい」

「いえ」 

気まずい空気が2人の間を流れる。
よりにもよってソフィアを怒鳴りつけてしまった事を悔い、ダニエルは肩を落とした。

そんな彼の頬に、手を伸ばしソフィアはそっと触れた。


「心配してくれてありがとう、ダン」

「…怒鳴ったりして悪かった」

「それだけ心配してくれたという事でしょう?」 

ダニエルのうな垂れた姿が、飼い主に叱られてしょげた大型犬のように見え、ソフィアはくすくす笑いながら彼の頬に唇で触れた。

深い意味などない、ただの慰めのつもりだった。

「っ!…」

しかしその途端、耳まで真っ赤に染めてダニエルは身体を強張らせた。



 ——あら…ちょっとだけカワイイかも。 
意外に純な反応に気をよくして、ソフィアはダニエルの頬を両手で挟みこむと、額に、鼻先に、髪に唇を落とした。


「ちょっ…!ソフィア」

慌てるダニエルの様子がおかしくて、ソフィアはますます調子に乗ってキスの雨を降らせる。


「~~~!」

ダニエルが低く唸った次の瞬間、ソフィアの視界が逆転した。

 「いい加減にしないと本当に襲うぞ」
目を細めたまま言い放つダニエルの瞳の奥には、隠しきれない「男」の色が滲み出ていて。

どことなくいつもとは違うダニエルの様子に、ソフィアはパチパチと瞬きをした。
そんなソフィアの華奢な肩をソファに押し付け、その上に圧し掛かるようにしてダニエルは殊更ゆっくり顔を近づけた。 

とはいえ、ダニエルにはソフィアが嫌がる事を強制するつもりはなかった。
少しでもそんな素振りを彼女が見せたら、いつでも止める。
ソフィアを傷つけるくらいなら、己の感情などいくらでも押し殺してみせる。

そう思っていたのだが…彼の予想に反して、ソフィアはスッと目を伏せた。

了承とも取れる仕草に思わずソフィアの表情を窺ったダニエルは、微かに目元を綻ばせ唇を重ねた。 

軽く触れるだけの、羽のようなキス。 

けれど触れた箇所から、ジンワリと温かい何かが広がっていくような気がして、満ち足りた気持ちでダニエルはソフィアを抱きしめた。

ソフィアもまた、うっとりと目を瞑りダニエルの逞しい胸に頬を押し当て、彼のぬくもりを感じていた。 


「ねぇ」

しばらくして、顔を上げたソフィアの瞳から不安の影が払拭されている事に、ダニエルは安堵した。

「いい事を思いついたのだけど」

「何?」

「ダンが隣にいてくれたら、きっと怖い夢を見る事もないと思うの」 

目を輝かせながら、自分の思い付きを自慢げに語るソフィアは、まるで子供のようで。
彼女が次に何を言い出すのか、正確に察したダニエルは内心頭を抱えながらも続きを促した。


「だからね、今晩から一緒に寝て欲しいのだけど…ダメかしら?」

「…」 

男は基本的にオオカミなのだと、一遍思い知らせた方がいいのではないか。

そんな気分になりながらも、小首をかしげて自分を見つめるソフィアの「お願い」を断る事など、ダニエルには出来ないのであった。 


そして…ダニエルの長く不毛な夜が始まった。 
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