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学生時代を、田舎町で
1.敗者の子供
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この世には、勝者と敗者が存在して、敗者となればその存在は風の前の炎のように、あっけなくかき消えてしまう。
それが、僕が小学二年の時に死んだ母の、口癖だった。
正確には、若くして冒された進行性のがんで、闘病の甲斐もなく死ぬ前の母さんの、愚痴のようなものだったのだろう。
果樹園ばかりの田舎町で生まれ育った母さんは、遠くの街の病院で独り死んでいくより、慣れた自宅で苦しみながら息を引き取ることを選んだ。だから、まだ小さかった僕を側に呼んで、勉強を教えてくれたり、調子のいい日には夕飯を作ってくれたりした。
母さんなりに、きっと、戦っていたのだと思う。
だが母さんの命の灯も、消えてしまった。
僕と父を残して、モルヒネに作られた眠りの中、母さんは死んだ。
僕の心に『敗者は炎のように消えてしまう』という言葉だけを遺して。
母さんの言葉は正しかったのだと理解したのは、小学四年になってすぐだった。
たった十人しかいない、同学年のクラスの中で、いじめがはじまったのだ。
標的は、母さんの言葉通りの『弱い者』だった。
阪本智。
学年で一番貧弱で、一番立場の弱い、子供だった。
骨と皮だけなんじゃないかというくらいに身体が細い。そのせいなのか、男なのに、女の子よりも腕相撲が弱い。
彼の両親は離婚していて、母親と二人暮らしだそうだが、この町で一軒だけのスナックを営んでいる母親は、ほとんど家におらず、阪本は一人暮らしをしているようなものだと父さんから聞いていた。父さんは町の職員で、児童課に所属している。片親の家庭は、この町じゃ僕の家と阪本の家だけだった。だから、要注意対象らしい。
つまり、刃向かってきたとしても力で押し込めることができ、親に報告されるおそれのない『安全ないじめの対象』がまさに阪本智という存在だった。
父さんは、僕と阪本が同学年であるのがせめてもの安心だと思っているらしかった。彼に何かあったら、僕に報告して欲しいそうだ。
「阪本のことなんか、知らないよ」
それが僕の正直な気持ちだった。
同級生がいじめを受けたとしても、僕は知らん顔をすることを決めていたのだ。
上の学年で同じ事があって、先生に報告した正義感の強い女の子は、次の標的となったと聞いている。
僕は、そんなのはごめんだった。
怖いというよりも、いつ死ぬかも分からないこの人生で、そんな無駄なことに時間や体力を取られるのが嫌だった。
僕は本を読むのが好きだから、それを邪魔されるくらいなら、誰かが生け贄になるのを横目で見ない振りをする方がましだと思ったのだ。
「早音。阪本君のことを頼むな」
父さんがそうして頭を撫でてくれるから、そうするつもりがないのは後ろめたかった。
だけれど、僕は『弱者』に振り回されるのはごめんだった。
だから阪本が、身体の大きく体育の授業で活躍するしか能のない豊田という子のグループに教室の隅まで引っ張って良かれ、胸をどつかれて尻もちをつき、大笑いされていることを、父さんにも先生にも報告しなかった。
小学校を卒業するまでの三年間、ずっとだ。
だが。
僕は阪本に、興味を持った。
床に転がされてうめいた阪本が、まるで、豊田たちを焼き殺しでもしそうなほどに強い目で、彼らを睨むから。
炎みたいな目だ、と、そう思った。
母さんは「弱い炎は消える」と言った。
きっとそれは事実だろう。
なのに、僕はその目に、ぞっとしたのだ。
この弱い、阪本智という子供は、泣かされても笑われても痛い目に遭っても、その目だけはまるで強者だった。
豊田もいつもその目を鬱陶しがっていた。
「その目、生意気なんだよ。潰してやろうか」
豊田はきっと、そういえば阪本が怖がると思ったのだろう。
だけど阪本は、腹を靴で踏まれながらも、不敵に笑ったのだ。
「やってみろよ。本当にできるならな」
そのどんぐり眼が細められた瞬間、僕の心臓が逸りだした。
まるでこの子供は、消えない炎だ。
母さんの命は、病気という強風の前に、儚く消えたのに。
阪本智は。
風が吹いても、水を掛けられても、消えない炎のような目を持っていた。
「阪本」
気が付いたら僕は、声を掛けていた。
小学五年の夏、ヒグラシが初めて鳴いた日、掃除の時間。
教室中が、僕の一言に静まりかえるのさえ気にせず、僕は阪本に腕を伸ばした。
「一緒に帰る?」
それから僕たちは友達になった。
阪本は相変わらずいじめられっぱなしで、僕は『町の職員の子供』という立場があるから無視はされども痛い目には遭わず、そんないびつな関係だったけれど、
確かに僕たちは、友達になったのだ。
「糸島、帰ろっか」
たった一人の僕の友達。
それが、阪本智だ。
それが、僕が小学二年の時に死んだ母の、口癖だった。
正確には、若くして冒された進行性のがんで、闘病の甲斐もなく死ぬ前の母さんの、愚痴のようなものだったのだろう。
果樹園ばかりの田舎町で生まれ育った母さんは、遠くの街の病院で独り死んでいくより、慣れた自宅で苦しみながら息を引き取ることを選んだ。だから、まだ小さかった僕を側に呼んで、勉強を教えてくれたり、調子のいい日には夕飯を作ってくれたりした。
母さんなりに、きっと、戦っていたのだと思う。
だが母さんの命の灯も、消えてしまった。
僕と父を残して、モルヒネに作られた眠りの中、母さんは死んだ。
僕の心に『敗者は炎のように消えてしまう』という言葉だけを遺して。
母さんの言葉は正しかったのだと理解したのは、小学四年になってすぐだった。
たった十人しかいない、同学年のクラスの中で、いじめがはじまったのだ。
標的は、母さんの言葉通りの『弱い者』だった。
阪本智。
学年で一番貧弱で、一番立場の弱い、子供だった。
骨と皮だけなんじゃないかというくらいに身体が細い。そのせいなのか、男なのに、女の子よりも腕相撲が弱い。
彼の両親は離婚していて、母親と二人暮らしだそうだが、この町で一軒だけのスナックを営んでいる母親は、ほとんど家におらず、阪本は一人暮らしをしているようなものだと父さんから聞いていた。父さんは町の職員で、児童課に所属している。片親の家庭は、この町じゃ僕の家と阪本の家だけだった。だから、要注意対象らしい。
つまり、刃向かってきたとしても力で押し込めることができ、親に報告されるおそれのない『安全ないじめの対象』がまさに阪本智という存在だった。
父さんは、僕と阪本が同学年であるのがせめてもの安心だと思っているらしかった。彼に何かあったら、僕に報告して欲しいそうだ。
「阪本のことなんか、知らないよ」
それが僕の正直な気持ちだった。
同級生がいじめを受けたとしても、僕は知らん顔をすることを決めていたのだ。
上の学年で同じ事があって、先生に報告した正義感の強い女の子は、次の標的となったと聞いている。
僕は、そんなのはごめんだった。
怖いというよりも、いつ死ぬかも分からないこの人生で、そんな無駄なことに時間や体力を取られるのが嫌だった。
僕は本を読むのが好きだから、それを邪魔されるくらいなら、誰かが生け贄になるのを横目で見ない振りをする方がましだと思ったのだ。
「早音。阪本君のことを頼むな」
父さんがそうして頭を撫でてくれるから、そうするつもりがないのは後ろめたかった。
だけれど、僕は『弱者』に振り回されるのはごめんだった。
だから阪本が、身体の大きく体育の授業で活躍するしか能のない豊田という子のグループに教室の隅まで引っ張って良かれ、胸をどつかれて尻もちをつき、大笑いされていることを、父さんにも先生にも報告しなかった。
小学校を卒業するまでの三年間、ずっとだ。
だが。
僕は阪本に、興味を持った。
床に転がされてうめいた阪本が、まるで、豊田たちを焼き殺しでもしそうなほどに強い目で、彼らを睨むから。
炎みたいな目だ、と、そう思った。
母さんは「弱い炎は消える」と言った。
きっとそれは事実だろう。
なのに、僕はその目に、ぞっとしたのだ。
この弱い、阪本智という子供は、泣かされても笑われても痛い目に遭っても、その目だけはまるで強者だった。
豊田もいつもその目を鬱陶しがっていた。
「その目、生意気なんだよ。潰してやろうか」
豊田はきっと、そういえば阪本が怖がると思ったのだろう。
だけど阪本は、腹を靴で踏まれながらも、不敵に笑ったのだ。
「やってみろよ。本当にできるならな」
そのどんぐり眼が細められた瞬間、僕の心臓が逸りだした。
まるでこの子供は、消えない炎だ。
母さんの命は、病気という強風の前に、儚く消えたのに。
阪本智は。
風が吹いても、水を掛けられても、消えない炎のような目を持っていた。
「阪本」
気が付いたら僕は、声を掛けていた。
小学五年の夏、ヒグラシが初めて鳴いた日、掃除の時間。
教室中が、僕の一言に静まりかえるのさえ気にせず、僕は阪本に腕を伸ばした。
「一緒に帰る?」
それから僕たちは友達になった。
阪本は相変わらずいじめられっぱなしで、僕は『町の職員の子供』という立場があるから無視はされども痛い目には遭わず、そんないびつな関係だったけれど、
確かに僕たちは、友達になったのだ。
「糸島、帰ろっか」
たった一人の僕の友達。
それが、阪本智だ。
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