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大学を、東京で

27.無知

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 智のスマートフォンが幾度も振動している。大学の友人からでも連絡が来ているのだろう。
 財布も鍵も置いていった智は、僕がここにいると、帰って来にくいだろうと思う。智を傷つけた僕を、許さないだろうし。
 シャワーだけ浴び、灯りを消して、智が使っていたIHヒーターも電源を落とし、明日の着替え持って家を出た。智の鍵はダイアル式のポストに入れておく。
 僕は慣れた足で駅まで向かい、大学へ向かう。研究室は24時間年中無休で誰かいるし、実験やレポートで家に帰れないひとなんて、ザラだ。会議用テーブルの椅子を並べて寝床にするのも、忙しい時期にはありふれた光景らしい。だからそこに僕が増えたって、誰も気にしない。

(しばらく、智と顔を合わせないようにしよう)

 ほとぼりが冷めるまで待って有耶無耶にする、しかない気がした。
 智を傷つけたのは後悔しているし、できることなら時間を巻き戻してあんなことを言った僕を殺してやりたい。
 だが、智の選択を認められない気持ちは、まだ確かにあるのだ。
 この街も社会も思ったより容易ではないこと、ぼくはこの3年余りで嫌というほど経験した。それを分かっていない智が、何の準備もないまま店を始めたって、うまく行くはずがない。

(会うときっとまた喧嘩になる)

 それはもうごめんだった。
 智が少し、思い知るまで。
 自分で、今の選択が誤りで、やり直しの利くうちに正しい道を歩き直さなければならないことを、自分で感じるまで。
 僕は智とは会わないことにした。

    *

 実験室から自分のデスクに戻る。
 白衣を脱ぐのとほぼ同時に、僕はスマートフォンに確認する。長時間籠もった後だと、誰かしらか連絡が入っているからだ。

(あ、また智)

 メッセージアプリの通知には、キャンドルの絵文字が表示されている。
 僕は溜息を吐く。
 智のこのメッセージが『キャンドルの注文が入った』という知らせなのだと気付いたのは、智と喧嘩して2、3日経った後だった。
 それ以来、ちょくちょく届く、絵文字だけの連絡。時には5個分の絵文字が並んでいるときすらあり、複数を一気に買う注文が入っているのだろうと分かる。

(何で、だよ)

 智のオンラインショップは、そこそこ売れている、気がする。
 勿論、一つが何万円とするものではないので、何十個と売ろうと、それだけで暮らして行くのは困難だろう。
 だが、ショップを開いたばかりで、これほど上手くいくものなのだろうか。
 からくりが分からなくて。
 いつもは絵文字に返信しないのだが、思い切って尋ねてみることにした。

『おめでとう。どこかで広告でもしてるの。新規の割には売れてるように見えるけど』

 それに対する返事は、画像投稿SNSのアカウント名だった。
 SNSでプロモーションをするクリエイターは多いと、確かに聞く。
 智のアカウントを開いてみると、そこには、僕の知らない『智の世界』が広がっていた。
 智のキャンドルだというそれは、僕が想像していたものの何倍も。いや、桁が違うというほどに、きれいだった。
 花の埋め込まれたキャンドル。果実や赤い実の入った、グミみたいなキャンドル。果てには、薔薇の形をかたどった、これが本当にキャンドルなのかと思うものすらあった。

「すごい……」

 薔薇のキャンドル画像につけられているコメントには『花びら一枚一枚手作りしてます』とあった。智は、いつの間に、こんな。
 呆然と見ていると、肩が叩かれた。振り向けば、比較的仲の良い同期の唯川だった。

「糸島がSNS見てるの珍しいな。キャンドル? 皆、好きだよな」
「皆?」
「俺の彼女も、SNSのイケメンキャンドル作家にはまってんの。何て言ったかな……えーと、トモ、だ。トモサカモト」

 僕は、椅子をひっくり返しそうに驚いた。
 それは、阪本智のことか。
 慌てて、SNSの名前欄を確認する。
『トモサカモト』、そのフォロワー数に、目眩がした。
 このSNSは普段見ない僕にでも分かる。あまりに膨大だ。6桁の人間が、智のキャンドルと、智の笑顔の写真を見ている。

「あ、そうそう、その作家だよ。糸島、キャンドルなんて見てる時間あんの」
「いや、これは僕の……幼馴染みで」
「マジで!? すごいな! 紹介してくれよ、彼女に握手させてやりたいんだ」

 頼んだぞ、と僕の両肩を叩いて、唯川は行ってしまった。
 僕は。
 僕は画面を見たまま、動けない。

 何だ。
 何も知らないのも、現実を見てないのも、僕の方じゃないか。
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