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大人になった僕ら

39.もう居ない魂

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 智が眠ってしまうまで、なるべく穏やかに智を抱いた。
 甘やかして、優しくして、智の細くて皮ばかりの身体が柔らかくなるまで。
 そうして僕を咥えたまま寝入ってしまった智からそっと自分を引き抜いて、汗ばんだ額にキスを落とす。

(智)

 こんなときに、素直にこの儚く寂しく美しい男が好きだと思えれば、僕はきっとしあわせだった。
 それなのに、こんなときばかり、僕の僕へ対する疑念と失望があふれかえってくる。

(僕は、結局『可哀想』な智が好きなのか)

 そして可哀想な智を慰められる自分が、好きなのだろう。
 智が苦しんでいるのに、そんなことばかり頭に浮かぶ。
 でも、仕方がない。
 それに智だって、僕が好きで抱かれてくれている分けではないのだし。
 智にとって気持ち好いことを僕が与えられて、僕は哀れに鳴く智を貪れる。
 それだけの、ギブアンドテイクの関係に、僕らはいつの間にか成り下がった。

(僕の代わりは幾らでもいる)

 そうやって、智を愛おしいと思う僕を静める。
 僕の愛はまやかしだし、智は愛を知らない。
 いびつな形をした僕らの関係は、いつか破綻するだろう。
 それまで精々僕は、智を、智の形を満喫するまでだ。

    *

 雨漏りかな、と無意識に思って目が覚めた。
 雫がぽたぽたと、頬に落ちてきているのだ。
 夏の雨は熱い。だから、それだろうと思ったのに。
 目を開けたら、智が僕を見下ろして、声を詰まらせて泣いていた。
 嘘だろ、何でそんなに、悲しい顔してるの。

「何で泣いてるの、智」

 思わず抱き締めて慰めたくなった。泣いているのは僕ではないのに、胸が苦しくなるほどの、哀れな姿。
 僕は、本当にこんな『可哀想な智』が好きなのか?
 だって、泣き止んで欲しいし、笑って欲しい。そのためなら僕は何だって智に差し出せると思う、のに。

(──考えるな!)

 思考を冷やせ。この生き物を愛おしいなんて思うな。僕は。僕は智を憎んでいるはずだ。
 なのに、どうして僕は、智にキスをしてしまうんだろう。
 唇で涙を拭って。腕の中に抱いて。嗚咽で揺れる背を撫でて。

(泣かないで)

 僕を見て、笑って。

「智、大丈夫。泣かないで」
「だって……お前、起こしても起きないから、死んじまったかと思って」

 そんな、子供じゃないんだから。
 少し僕は戸惑う。そんな判断も付かないほど、智が弱っているということが。
 それに、母親の死では涙を堪えてきた智が、こんなに素直に泣くなんて。
 その事実が、僕をどうしようもなく息苦しくさせる。
 忘れろ、愛しさなんて。
 そんな感情、持っていたって僕が傷つくだけだ。

「息、してたろ。泣くことないじゃないか」
「うるせぇ、お前には分かんねえよ、俺の気持ちなんて」

(じゃあ、何を思ってるのか、教えてよ)

 知りたくもないことを考えてしまう。
 僕の思考はもうぐちゃぐちゃだ。
 智に乱されて、冷静な僕が何処にも居ない。

「と──」
「なあ早音、もう送り火したからさ、あいつ、この世には居ないよな」

 自分でも何を言おうとしたのか分からない僕を遮って、智が不思議なことを言った。
 死者はもう、何処にも居ない。
 彼岸なんてないし、死んだらそれで終わりだと、僕は思う。
 だが、智に『弔い』を押し付けたのは僕だ。
 まるで、まだ彼女の魂が何処かにあるみたいに。

「……そうだね。まあ、そもそもお盆時期にやってないから、送り火だったかどうかも分かんないけど」
「お前がけしかけといてそんなこと言うか!? もういいんだよ、送り火したってことで!」

 腕の中でくつくつと笑う智に安心する。僕の所為で泣いているなんて思いたくないし果てしない勘違いだから、智には笑っていて欲しい。

「何か、母親に聞かれたくないことでもあるの」
「……うん」

 智が珍しくとても素直だ。
 辛くても意地を張って、虚勢とともに生きているような智が。
 そんな姿を僕に晒してくれるな。愛しさが、あふれそうになる。

「俺さ、本当は、あの母親に愛してもらいたかったんだ」
「……そう」
「あいつの好きなキャンドル作ったら、こっちに振り向いてくれるかな、なんて思ってた」

 仏頂面での吐露は、僕の心をもひりひりさせた。
 僕にもその感情は覚えがある。──智に優しくし続ければ、いつか僕を愛してくれるかな、なんてずっと思い続けている僕がいるのを否定できない。

「俺は結局、あいつが死ぬまで、愛してもらえなかったな」

 乾いた笑い声。
 きっと誰からも愛されるだろう彼は、本当に欲したひとからの愛だけは、得られなかったのだ。
 可哀想な、可哀想な智。

(だったら僕を愛してよ)

 どろどろに溶けそうなくらいに愛するのに。僕なら。
 腕の力が勝手に強くなる。そういえば裸同士だと思い出す。智の涙が、肩にそのまま落ちたから。

「でもさ、俺も、あいつの不味い飯食って育ったのに、『ありがとう』のひとつも言えなかった」

 ──ああ、ひとは、こんな風に悔いるのか。
 そんなの智は悪くないと思うのに。

(でも智は、本当は言いたかったんだな)

 何て、素直で優しい魂だろう。
 これを愛さなかったあの母親は馬鹿だ。
 智の気持ちに気付いてやれたのは、彼女一人だったのに。

「どっちもどっちだよ。俺は他人に愛されることなんてないんだ」

 そう自嘲して、僕の肩に顔を埋めた智の、甚だしい思い違いを訂正したくなる。
 だが、今の彼はそんなもの求めていないのが分かったから。
 今、智が本当に抱きつきたいのは、あの母親なのだ。

「なあ早音」
「……何」
「お前だけはさ、俺の側に居てくれないか」

 勿論、と頷きたい。
 だけど、本当にその位置を占めるのが僕でいいのかという疑念、それから、本当は誰だっていいくせにという諦観が襲ってくる。
 どうして僕はこんなに智を信じられないのだろう。

「独りは嫌なんだ」
「……分かった。ずっと、側に居るよ」

 智の悲しみにかこつけて、智の横を独り占めした僕はきっと、醜い。
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