『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第四十章

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記されざる者

帳の間が揺れていた。

魏燕の筆から走った一閃は、現実を直接穿ち、筆録庁の南棟を崩落させていた。
瓦礫の煙が空を覆い、人々が声にならない悲鳴を上げて逃げ惑う。

その中心に立つ杜若の手には、なおも震えながら光を放つ筆があった。

「……これが、わたしの書いた現実……?」

けれど彼女の意志は、揺らがない。

魏燕の筆が再び動く。

今度は空に大きな帳が広がり、まるで天幕のように街の上空に覆いかぶさった。

『天上帳、すべての記録を上書きせしもの。
過去・現在・未来、いずれも逃れぬ。』

「これが、“筆の一族”の真の力……か」

杜若がそう呟いたその時――

「……そうでもないさ」

背後から、落ち着いた声が響いた。

振り返ると、そこには景融が立っていた。
衣の裾は煤に汚れ、右腕には血が滲んでいる。けれど、その瞳はまっすぐに杜若を見ていた。

「景融……!」

「俺の名、帳にあったか?」

杜若は一瞬、言葉を失う。

景融の記録――彼の帳を、彼女はまだ一度も見たことがなかった。

「……どうして……?」

「俺は、“帳に記されない者”だ。筆録庁に身分もないし、誰も俺のことを記してこなかった」

「でも、わたしは……記したはず……」

「いや、君が書いたのは“記録”じゃない。“願い”だったろ?」

景融はそう言って微笑む。

「俺は、お前の筆から“零れた”者。
帳の中にはいないが、君の記憶には残ってる。
だからこそ――帳の力に左右されない。
魏燕の筆が現実を歪めても、俺だけは“変えられない”」

「……記されない者が、帳の力に抗える……?」

「そうだ。そして、それが今の君にとって――唯一の“救い”になる」

そう言いながら、景融は杜若に一枚の破れた帳頁を差し出した。

そこには、杜若が書いたはずのない一文が記されていた。

『杜若、選ばれし時、記されざる者と手を取り、筆に抗う。
その時、帳は沈黙し、世界は静まる』

「……これは……?」

「魏燕の筆が書き換えた“未来帳”から、唯一消せなかった頁らしい。
君が俺と共に歩む未来だけは、帳にも制御できなかった」

杜若はその頁を手に取り、景融を見つめる。

「……景融、わたし……」

「いいさ。言葉はいらない。お前の筆が選ぶなら、俺はそれを支えるだけだ」

そう言って、景融は杜若の手を取った。

次の瞬間、杜若の筆が眩しく光を放った。

帳の頁が風に舞い上がり、魏燕の筆が描いた天幕を一枚ずつ焼き払っていく。

魏燕が驚愕の表情を見せた。

「ば、馬鹿な……“記録されない者”が、帳を破るなど……!」

「帳がすべてじゃない……!
人は、記されなくとも“生きて”いる……!」

杜若が叫ぶ。

そして――筆が一閃し、天幕帳が崩れ落ちた。

光が弾けるように街を包み、魏燕の姿もまた、その帳と共に霧のように消えていった。

……帳は、静かになった。

杜若の手に残されたのは、燃え残った破片のような帳頁。
そこには、小さな文字でこう記されていた。

『帳は、ただ“書く”だけではない。
書かれぬことこそが、真の物語を紡ぐ。』

杜若は筆を見つめる。

景融の手を握りしめながら、彼女はそっと笑った。

「これが……わたしの、書きたかった“物語”」

(第四十章 了)
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