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幕間第一弾 静弥side
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田舎と違って、東京の人は他人に興味がない。なんて言うけれど、それは嘘だとすぐ気が付いた。
「初めまして。本日から、着任しました。沼黒です。マネージャー経験はありませんが、精一杯努めますので、よろしくお願い致します」
朝十時半。開店して一段落した時間に、店に到着してスタッフ全員に挨拶をした。
喜善堂(きぜんどう)書店は、関東を中心に全国展開している大手本屋チェーンだ。
近畿地方にも、大阪と兵庫に数店舗ずつ支店がある。
アルバイトスタッフは制服の黒と白のストライプのワイシャツにグレーのズボンを履き、その上に北欧風の深緑のエプロンをつける。靴も規定の真っ黒なスニーカーで、一目見てスタッフだと分かる制服をしている。
対する社員は、自前のスーツと靴に北欧風のエプロンを着用する決まりだ。
エプロンの胸ポケットにつけている名札はイニシャルで、高校時代の本屋は苗字をそのまんまつけていたから時代を感じてしまう。
スタッフみんなから朗らかな笑顔や歓迎の言葉を向けられたが、腹の奥底には「コイツは、使えるのか?」と言う品定めの疑問をグツグツと煮ているのが伝わって来る。
平日の朝と言うこともあり、店内のお客様の数はまばらだ。
とっくに定年退職を迎えたであろう、お爺さんが本棚に背を預けながらスツールに座って競馬雑誌を立ち読みしている。
五十路くらいのエルメス柄のスカーフを首に巻いたマダムは、雑誌コーナーで料理雑誌を立ち読みしながら
「こんな呪文みたいな調味料が、一般家庭にある訳ないじゃないの……」なんてボヤいていた。
店内を案内してくれているのは、僕より数年先輩の九さん。
彼の印象は、一言で言うならば丁寧な人。寝癖一つ、ついてない髪の毛。シャツやスラックスも当然のように、皺一つついていない。
お客様のご希望でつけるブックカバーを本に合わせて折る所作は、まるで舞踊を舞う芸者のようだ。
出身は京都だけど、大学進学を機に上京して来たらしい。
九さんに差し出された名刺を受け取った僕は、目を瞬いた。
知識でしかなかった難読苗字の人が、目の前に現れた感動を言葉に出来なかったからだ。
九さんは慣れた口調で「一文字で九だから、いちじく」と、説明してくれた。
「初めて、会いました」
「自分で言うのもですけど、珍しいですよね。沼黒さん、驚いてらっしゃらない……?」
「友達が居なくて、中学時代に国語便覧に載っていた難読苗字を暗記していたんです」
同じような理由で、地図帳に載っていた難読地名も暗記していた。
九さんは「根っからの文字好きかぁ……」と言いながら、歯を見せて笑っていた。
この人の落ち着いた声、好きだな。晄君の、次に。
そんなことを言ったら、きっと困らせるだろうな。
だって、九さんはノンケだろうから。
*
小学五年生の頃。アライブの本屋の雑誌コーナーで、女性向けファッション誌の表紙に釘付けになった。
表紙は当時流行っていた男性アイドルのヌード写真で、雰囲気が晄君に似ていたのだ。
女の人の裸より男の人の裸が好きなんだと、知ってしまった。
自分自身に、恐怖を感じたのだ。
率直に言うなら「怖い」と、思った。
入園式の晄君の一言が、僕のトリガーだった。
きっと晄君は自分が泣いていた記憶はぼんやりとはあっても、僕に言った言葉なんて覚えてすらいないだろう。
だって覚えていたら、僕とお付き合いしてくれるもん。
当時の僕は、晄君と手を繋いで帰りたい。とか、みんなが帰った後に接吻出来たら。とか、考えていた。
我ながら、無垢で無知で笑える。
僕達ゲイにとって、ノンケは異性くらいの相手だ。
晄君が配信者だからとか関係なく、必ず何処かで現実と言う壁が立ちはだかる。
パートナーシップを結ぶのは、早くても晄君が大学を卒業しないと無理だろう。
真面目な晄君のことだから、稼ぎが安定するまでは……とか言いそうだし。
僕は今すぐにでも、予約を取っても良いのに。
パートナーシップを結ぶまでに、破局しないとは限らない。
そもそもパートナーシップを結べるか限らないし、結んで破局する可能性だって充分有り得る訳で……。
そんな不安を感じるのは、きっと僕が親に愛された実感を人生の中であんまり感じたことがないから。
大体どんな子育て本を読んでも「子供を褒めて、自己肯定感を高めてあげましょう」と、書いてあるだろう。
僕が物心ついた時には家庭は機能していなかったし、褒められた回数なんて両手の指の本数で足りるんじゃないだろうか。
晄君のおかげでお母さんの手紙を読めたことは、すごく感謝している。
だけど、それでも。
血を分けた親にすらちゃんと愛して貰えなかったのに、他人なんて何の保証もないじゃないか。
なんて、考えてしまうのだ。
晄君には、分からないと思う。
どれだけ晄君が僕に愛を囁いてくれても、僕を受け入れてくれても、身体を捧げてくれても、この不安は一生消えないと思う。
簡単に解けない、洗脳めいた思考。
普通にはなれないけど、せめて職場と恋人の前くらいは上手く取り繕わなきゃ。
*
お昼二時から、一時間休憩に行くことになった。
サービス業だけあって、休憩時間はその日の状況次第らしい。
早い時は出勤して一時間後に行く時もあれば、遅い時は退勤一時間少し前の時もあるようだ。
アライブの本屋と比較して、まず面積が圧倒的に広い。
面積が広いと言うことは、当然ながら取り扱う商品数も多いと言うことだ。
商品の検索機はあるけど、いざ本棚に行ってみても見つけられないお客さんも多いと聞いた。
僕もスーパーで目の前に探している商品があるのに、聞いてしまったことがあるから分からないでもない。
一番くじや、ブックカバーやブックマーカー等の本に関する小物や、人気アニメのグッズも取り扱いがある。
喜善堂書店の横には、喜善堂カフェが併設されている。
喜善堂書店が買った本を持ち込んでお茶することが可能で、読書好きにとってはホッと一息つきながら読書が出来るからたまらない。
僕も休日に、利用したいくらいだ。
喜善堂書店の感想を一言で言うなら、都会の本屋さんだろうか。
二階のバックヤードにある、ショッピングモールの全従業員が利用出来る休憩室のカウンターテーブルの隅に僕は座った。
中途半端な時間だからか、利用者は少ない。
同じカウンター席にはファーストフード店の制服を着た大学生くらいの子と、これから出勤なのか宿題をしている高校生が間隔を開けて座っている。
休憩室の真ん中の島にあたる四人掛けのテーブルには、主婦っぽい女の人二人が楽しそうに談笑している。
明るいフローリングの床に、びっしりと並べられたクッション付きのベントウッドチェア。
電子レンジ、冷蔵庫、複数メーカーの自販機、ポットを完備。無料で紅茶やお茶が飲める給茶器やコーヒーメーカー、マガジンラック、仮眠用の畳ベッドまで置いてある。
晄君お手製のお弁当を電子レンジに入れて、一分ほど温める。
その間に引越しの相談に乗って貰った、田中さんに近況報告のメッセージを送っておく。
田中さんと言うのはお母さんのお姉さんの夫妻のことで、父親が出て行った後に援助してくれていた家だ。
お母さんが亡くなった後にも色々と助けてもらって、足を向けて眠れない。
裕子(ゆうこ)さんから、fight! と、書かれた犬のスタンプが送られて来た。
何の器量もない僕を、雇ってくれたんだ。
頑張らないと。そう決意して小さく拳を握ったタイミングで、電子レンジが鳴った。
黒いお弁当箱を取り、カウンター席へと持って行く。
お弁当箱の蓋を開けると、優しい卵の匂いが鼻腔をくすぐった。
お弁当の中身は、ご飯に、ほうれん草のおひたしに、卵焼きに、きんぴらごぼうに、プチトマトが入っていた。
僕はスマホで、お弁当を撮影する。
いけない。嬉しさの余り口元が綻ぶだけじゃなくて、身体も震えて写真がブレてしまった。
もう一回、撮影しよう。
何回かリテイクを繰り返したけど、無事写真が撮れた。
晄君にお礼を言ってから、エンスタグラムにも投稿する。
いいねをくれる人は、決まっているけれど……。
職場の人とも、エンスタグラムを教えた方が良いんだろうか? 僕みたいな人間から「フォローしたい」とか言われたら、気持ち悪いかな……。
気持ち悪いだろうな……。
妖怪と人間の共存なんて、無理に決まっている。
世の中の人は、僕が思ってるよりもずっと何も考えていない。
少し前までは思考放棄を残酷だと思っていたけど、今はある意味優しさだと思うようになった。
所詮他人だから、責任を伴わないから、それっぽい相手が欲しそうな言葉を言えるのだ。
僕と、違って。
*
ベッドで、瞼を閉じている時間は地獄だ。
過去の僕と、未来の僕が、今ベッドで横たえている僕を蹂躙しに来る。
父親が二回も、家を出て行ったこと。父親に「狐憑き」だと、罵られたこと。母親を、ずっと苦しめていたこと。躑躅森さん達に、僕の下着を悪戯されたこと。勝本君達に、沢井君と身体を重ね合わせられたこと。閉鎖病棟で、僕のベッドに他の患者の紙オムツが置かれていたこと。大きな石を落とした時の、やまにゃんの苦しみの余り顔中の筋肉を強張らせた顔。パン屋のアルバイト先のバックヤードで、ヒソヒソと悪口を言われたこと。アライブの本屋で、まるで子の仇を見るような目で、春堂 詠一に見られたこと。
他にも、たくさん。数えるのも、挙げるのも、諦めたくらいにはたくさん辛いことがあった。
全部過去のことだと、僕は理解している。
全部過去のことだと認識した上で、今現在の僕は「辛い」「悲しい」「苦しい」と、感じている。
今現在の僕に、そんな危害を加える人は居ないと思っている。
それなのに、恋人すら疑ってかかる沼黒 静弥と言う人間が居る。
怖がる必要も、疑う必要も、構える必要もないと理解している。
こんな人間と新入社員歓迎会をして、楽しいんだろうか。
僕が話すと白い目で見られたり、鼻で笑われたりしないかな。
*
「へー。沼黒さん、稲沢 穂伸先生、好きなんだ。どの作品が、好き?」
正社員の高階(たかしな)さんが、僕にそう質問して来た。
高階さんは三十路前半くらいの男の人で、社員歴も長い。
顔の輪郭は細長いのに、背丈は小柄と言うアンバランスな見た目が特徴的な人だ。
細長い顔の横幅よりずっと広い大きなレンズの黒縁眼鏡をかけていて、高階さんのアンバランスさを強調している。
最近心配事が、起きないようになって来た。
新入社員歓迎会は盛り上がるまでは言わないけど、会話のラリーは無事続いている。
「追想六断章とか、好きです」
喉を鳴らしながら、ビールを飲みながらそう答える。
「初期の傑作だよねぇ」
みんなして、うんうんと首を縦に振っている。
当たり前に稲沢 穂伸先生が通じて、作家の話が出来るのは本屋の店員って感じがする。
「恋人に『追想六断章』を貸したんですけど、難しかったみたいで」
「さっき言ってた、配信者の子? 活字慣れしてないと、稲沢先生の本は難しいと思うよ。まずは『冷菓』あたりからさあ」
「あー……」
僕が碌な青春を送って来なかったから、いまいち刺さらなかったシリーズだ。
確かに晄君なら、部活動ものの方が刺さる気がする。
中学校時代は、陸上部でそこら中を駆け巡っていたし。
ハードルを易々と跳び越える、晄君のスラリと引き締まった脚はたまらなかった。
九さんが「トリニティ」の公式ホームページを見ながら、この緑担当の子? と、僕に聞いて来たので頷く。
「意外~! 全然、タイプ違いますね」
三十路一歩手前の松田さんは、赤い唇を開いた。
長い黒髪をぴっちりと後ろで一つに結び、前髪も顔にかからないように綺麗に分けている。
化粧は決して派手じゃなく松田さんの大人しい顔に合わせたナチュラルメイクで、ビジネスと言う場のTPOをしっかりと守っている。
松田さんは同じ契約社員だけど、正社員試験を受けると聞いた。
九さんは首を傾げながら
「タイプ、似てると思いますけど……」と、西のイントネーションでそう返事した。
ビールが喉で、ぐっと引っかかる。
水分でしかないのに、まるで異物を飲み込んだかのようにつっかえたのだ。
「え……」
それは、どういう意味で、なんだろうか。
自分で言うのもだけど、晄君と僕じゃ全然違うと思う。
どちらも、社会不適合者とか、そういうのだろうか。
それとも雲雀丘君風に言う、メンヘラカップルってことなんだろうか。
僕の首と手首の傷跡を、みんな知っているのかもしれない。
今は親切に話してくれているけど、裏では僕のこと笑っているのかもしれない。
仮に身体にこんな傷がなかったら、僕だって引いてしまうと思う。
何も、おかしいことじゃない。普通の反応だと、思う。
嫌だな。この場所に、居るの。
気のせいか、視界がマーブル模様のようにグラついて来た。
その後のことは、よく覚えていない。
「初めまして。本日から、着任しました。沼黒です。マネージャー経験はありませんが、精一杯努めますので、よろしくお願い致します」
朝十時半。開店して一段落した時間に、店に到着してスタッフ全員に挨拶をした。
喜善堂(きぜんどう)書店は、関東を中心に全国展開している大手本屋チェーンだ。
近畿地方にも、大阪と兵庫に数店舗ずつ支店がある。
アルバイトスタッフは制服の黒と白のストライプのワイシャツにグレーのズボンを履き、その上に北欧風の深緑のエプロンをつける。靴も規定の真っ黒なスニーカーで、一目見てスタッフだと分かる制服をしている。
対する社員は、自前のスーツと靴に北欧風のエプロンを着用する決まりだ。
エプロンの胸ポケットにつけている名札はイニシャルで、高校時代の本屋は苗字をそのまんまつけていたから時代を感じてしまう。
スタッフみんなから朗らかな笑顔や歓迎の言葉を向けられたが、腹の奥底には「コイツは、使えるのか?」と言う品定めの疑問をグツグツと煮ているのが伝わって来る。
平日の朝と言うこともあり、店内のお客様の数はまばらだ。
とっくに定年退職を迎えたであろう、お爺さんが本棚に背を預けながらスツールに座って競馬雑誌を立ち読みしている。
五十路くらいのエルメス柄のスカーフを首に巻いたマダムは、雑誌コーナーで料理雑誌を立ち読みしながら
「こんな呪文みたいな調味料が、一般家庭にある訳ないじゃないの……」なんてボヤいていた。
店内を案内してくれているのは、僕より数年先輩の九さん。
彼の印象は、一言で言うならば丁寧な人。寝癖一つ、ついてない髪の毛。シャツやスラックスも当然のように、皺一つついていない。
お客様のご希望でつけるブックカバーを本に合わせて折る所作は、まるで舞踊を舞う芸者のようだ。
出身は京都だけど、大学進学を機に上京して来たらしい。
九さんに差し出された名刺を受け取った僕は、目を瞬いた。
知識でしかなかった難読苗字の人が、目の前に現れた感動を言葉に出来なかったからだ。
九さんは慣れた口調で「一文字で九だから、いちじく」と、説明してくれた。
「初めて、会いました」
「自分で言うのもですけど、珍しいですよね。沼黒さん、驚いてらっしゃらない……?」
「友達が居なくて、中学時代に国語便覧に載っていた難読苗字を暗記していたんです」
同じような理由で、地図帳に載っていた難読地名も暗記していた。
九さんは「根っからの文字好きかぁ……」と言いながら、歯を見せて笑っていた。
この人の落ち着いた声、好きだな。晄君の、次に。
そんなことを言ったら、きっと困らせるだろうな。
だって、九さんはノンケだろうから。
*
小学五年生の頃。アライブの本屋の雑誌コーナーで、女性向けファッション誌の表紙に釘付けになった。
表紙は当時流行っていた男性アイドルのヌード写真で、雰囲気が晄君に似ていたのだ。
女の人の裸より男の人の裸が好きなんだと、知ってしまった。
自分自身に、恐怖を感じたのだ。
率直に言うなら「怖い」と、思った。
入園式の晄君の一言が、僕のトリガーだった。
きっと晄君は自分が泣いていた記憶はぼんやりとはあっても、僕に言った言葉なんて覚えてすらいないだろう。
だって覚えていたら、僕とお付き合いしてくれるもん。
当時の僕は、晄君と手を繋いで帰りたい。とか、みんなが帰った後に接吻出来たら。とか、考えていた。
我ながら、無垢で無知で笑える。
僕達ゲイにとって、ノンケは異性くらいの相手だ。
晄君が配信者だからとか関係なく、必ず何処かで現実と言う壁が立ちはだかる。
パートナーシップを結ぶのは、早くても晄君が大学を卒業しないと無理だろう。
真面目な晄君のことだから、稼ぎが安定するまでは……とか言いそうだし。
僕は今すぐにでも、予約を取っても良いのに。
パートナーシップを結ぶまでに、破局しないとは限らない。
そもそもパートナーシップを結べるか限らないし、結んで破局する可能性だって充分有り得る訳で……。
そんな不安を感じるのは、きっと僕が親に愛された実感を人生の中であんまり感じたことがないから。
大体どんな子育て本を読んでも「子供を褒めて、自己肯定感を高めてあげましょう」と、書いてあるだろう。
僕が物心ついた時には家庭は機能していなかったし、褒められた回数なんて両手の指の本数で足りるんじゃないだろうか。
晄君のおかげでお母さんの手紙を読めたことは、すごく感謝している。
だけど、それでも。
血を分けた親にすらちゃんと愛して貰えなかったのに、他人なんて何の保証もないじゃないか。
なんて、考えてしまうのだ。
晄君には、分からないと思う。
どれだけ晄君が僕に愛を囁いてくれても、僕を受け入れてくれても、身体を捧げてくれても、この不安は一生消えないと思う。
簡単に解けない、洗脳めいた思考。
普通にはなれないけど、せめて職場と恋人の前くらいは上手く取り繕わなきゃ。
*
お昼二時から、一時間休憩に行くことになった。
サービス業だけあって、休憩時間はその日の状況次第らしい。
早い時は出勤して一時間後に行く時もあれば、遅い時は退勤一時間少し前の時もあるようだ。
アライブの本屋と比較して、まず面積が圧倒的に広い。
面積が広いと言うことは、当然ながら取り扱う商品数も多いと言うことだ。
商品の検索機はあるけど、いざ本棚に行ってみても見つけられないお客さんも多いと聞いた。
僕もスーパーで目の前に探している商品があるのに、聞いてしまったことがあるから分からないでもない。
一番くじや、ブックカバーやブックマーカー等の本に関する小物や、人気アニメのグッズも取り扱いがある。
喜善堂書店の横には、喜善堂カフェが併設されている。
喜善堂書店が買った本を持ち込んでお茶することが可能で、読書好きにとってはホッと一息つきながら読書が出来るからたまらない。
僕も休日に、利用したいくらいだ。
喜善堂書店の感想を一言で言うなら、都会の本屋さんだろうか。
二階のバックヤードにある、ショッピングモールの全従業員が利用出来る休憩室のカウンターテーブルの隅に僕は座った。
中途半端な時間だからか、利用者は少ない。
同じカウンター席にはファーストフード店の制服を着た大学生くらいの子と、これから出勤なのか宿題をしている高校生が間隔を開けて座っている。
休憩室の真ん中の島にあたる四人掛けのテーブルには、主婦っぽい女の人二人が楽しそうに談笑している。
明るいフローリングの床に、びっしりと並べられたクッション付きのベントウッドチェア。
電子レンジ、冷蔵庫、複数メーカーの自販機、ポットを完備。無料で紅茶やお茶が飲める給茶器やコーヒーメーカー、マガジンラック、仮眠用の畳ベッドまで置いてある。
晄君お手製のお弁当を電子レンジに入れて、一分ほど温める。
その間に引越しの相談に乗って貰った、田中さんに近況報告のメッセージを送っておく。
田中さんと言うのはお母さんのお姉さんの夫妻のことで、父親が出て行った後に援助してくれていた家だ。
お母さんが亡くなった後にも色々と助けてもらって、足を向けて眠れない。
裕子(ゆうこ)さんから、fight! と、書かれた犬のスタンプが送られて来た。
何の器量もない僕を、雇ってくれたんだ。
頑張らないと。そう決意して小さく拳を握ったタイミングで、電子レンジが鳴った。
黒いお弁当箱を取り、カウンター席へと持って行く。
お弁当箱の蓋を開けると、優しい卵の匂いが鼻腔をくすぐった。
お弁当の中身は、ご飯に、ほうれん草のおひたしに、卵焼きに、きんぴらごぼうに、プチトマトが入っていた。
僕はスマホで、お弁当を撮影する。
いけない。嬉しさの余り口元が綻ぶだけじゃなくて、身体も震えて写真がブレてしまった。
もう一回、撮影しよう。
何回かリテイクを繰り返したけど、無事写真が撮れた。
晄君にお礼を言ってから、エンスタグラムにも投稿する。
いいねをくれる人は、決まっているけれど……。
職場の人とも、エンスタグラムを教えた方が良いんだろうか? 僕みたいな人間から「フォローしたい」とか言われたら、気持ち悪いかな……。
気持ち悪いだろうな……。
妖怪と人間の共存なんて、無理に決まっている。
世の中の人は、僕が思ってるよりもずっと何も考えていない。
少し前までは思考放棄を残酷だと思っていたけど、今はある意味優しさだと思うようになった。
所詮他人だから、責任を伴わないから、それっぽい相手が欲しそうな言葉を言えるのだ。
僕と、違って。
*
ベッドで、瞼を閉じている時間は地獄だ。
過去の僕と、未来の僕が、今ベッドで横たえている僕を蹂躙しに来る。
父親が二回も、家を出て行ったこと。父親に「狐憑き」だと、罵られたこと。母親を、ずっと苦しめていたこと。躑躅森さん達に、僕の下着を悪戯されたこと。勝本君達に、沢井君と身体を重ね合わせられたこと。閉鎖病棟で、僕のベッドに他の患者の紙オムツが置かれていたこと。大きな石を落とした時の、やまにゃんの苦しみの余り顔中の筋肉を強張らせた顔。パン屋のアルバイト先のバックヤードで、ヒソヒソと悪口を言われたこと。アライブの本屋で、まるで子の仇を見るような目で、春堂 詠一に見られたこと。
他にも、たくさん。数えるのも、挙げるのも、諦めたくらいにはたくさん辛いことがあった。
全部過去のことだと、僕は理解している。
全部過去のことだと認識した上で、今現在の僕は「辛い」「悲しい」「苦しい」と、感じている。
今現在の僕に、そんな危害を加える人は居ないと思っている。
それなのに、恋人すら疑ってかかる沼黒 静弥と言う人間が居る。
怖がる必要も、疑う必要も、構える必要もないと理解している。
こんな人間と新入社員歓迎会をして、楽しいんだろうか。
僕が話すと白い目で見られたり、鼻で笑われたりしないかな。
*
「へー。沼黒さん、稲沢 穂伸先生、好きなんだ。どの作品が、好き?」
正社員の高階(たかしな)さんが、僕にそう質問して来た。
高階さんは三十路前半くらいの男の人で、社員歴も長い。
顔の輪郭は細長いのに、背丈は小柄と言うアンバランスな見た目が特徴的な人だ。
細長い顔の横幅よりずっと広い大きなレンズの黒縁眼鏡をかけていて、高階さんのアンバランスさを強調している。
最近心配事が、起きないようになって来た。
新入社員歓迎会は盛り上がるまでは言わないけど、会話のラリーは無事続いている。
「追想六断章とか、好きです」
喉を鳴らしながら、ビールを飲みながらそう答える。
「初期の傑作だよねぇ」
みんなして、うんうんと首を縦に振っている。
当たり前に稲沢 穂伸先生が通じて、作家の話が出来るのは本屋の店員って感じがする。
「恋人に『追想六断章』を貸したんですけど、難しかったみたいで」
「さっき言ってた、配信者の子? 活字慣れしてないと、稲沢先生の本は難しいと思うよ。まずは『冷菓』あたりからさあ」
「あー……」
僕が碌な青春を送って来なかったから、いまいち刺さらなかったシリーズだ。
確かに晄君なら、部活動ものの方が刺さる気がする。
中学校時代は、陸上部でそこら中を駆け巡っていたし。
ハードルを易々と跳び越える、晄君のスラリと引き締まった脚はたまらなかった。
九さんが「トリニティ」の公式ホームページを見ながら、この緑担当の子? と、僕に聞いて来たので頷く。
「意外~! 全然、タイプ違いますね」
三十路一歩手前の松田さんは、赤い唇を開いた。
長い黒髪をぴっちりと後ろで一つに結び、前髪も顔にかからないように綺麗に分けている。
化粧は決して派手じゃなく松田さんの大人しい顔に合わせたナチュラルメイクで、ビジネスと言う場のTPOをしっかりと守っている。
松田さんは同じ契約社員だけど、正社員試験を受けると聞いた。
九さんは首を傾げながら
「タイプ、似てると思いますけど……」と、西のイントネーションでそう返事した。
ビールが喉で、ぐっと引っかかる。
水分でしかないのに、まるで異物を飲み込んだかのようにつっかえたのだ。
「え……」
それは、どういう意味で、なんだろうか。
自分で言うのもだけど、晄君と僕じゃ全然違うと思う。
どちらも、社会不適合者とか、そういうのだろうか。
それとも雲雀丘君風に言う、メンヘラカップルってことなんだろうか。
僕の首と手首の傷跡を、みんな知っているのかもしれない。
今は親切に話してくれているけど、裏では僕のこと笑っているのかもしれない。
仮に身体にこんな傷がなかったら、僕だって引いてしまうと思う。
何も、おかしいことじゃない。普通の反応だと、思う。
嫌だな。この場所に、居るの。
気のせいか、視界がマーブル模様のようにグラついて来た。
その後のことは、よく覚えていない。
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ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
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