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ニ話
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静弥は口角を上げて、獲物を狙う爬虫類のような目で晄を見た。
(え。施設の規約には、≪Strip(脱げ)≫とか≪Present(股を開け)≫みたいな性行為を誘発する命令はしない。って書いてあったけど、されんのか……?)
身の危険を感じた晄は、蛙のように飛び跳ねて後ろへ後退した。
「同意書を読んだ上で、サインして貰えますか」
バインダーをローテーブルの上に置かれて、晄はソファーに腰を掛ける。
同意書には情報漏洩に関することや個人情報保護のことなどアルバイト先の誓約書みたいな内容が、細かい字でかぎ編みかのようにギッチギチに書かれていた。
流し読みをしている内に、項目が変わっていることに気が付いた。
【施設内の全ての人間と、連絡先ないしSNSの交換を禁ずる】
項目の下の方に、他の利用者への声かけは挨拶だけにして下さい。とも、書いてある。
施設内全ての人間と言うことは、職員である静弥も含まれているだろう。
ここで会ったのも何かの縁だろうし、連絡先交換しない? とか言えそうだったら、言おう!
そんな目標と呼んで良いのか分からない、目標を立てたのに出鼻を挫かれてしまった。
「利用者様はあくまで治療をしに来てる訳ですから、不要なトラブルの種は避けるべきだ。と、我々は考えています。篠塚君がもし連絡先の交換を持ちかけられた時は、我々を理由に断ってください。遠慮なく、そう言ったことがあった。と、おっしゃって下さいね。守りますから」
支配したい「Dom」と、支配されたい「Sub」
自分じゃ制御出来ない、ダイナミクスにとっては三大欲求に匹敵する欲。
そんな欲を叶えてくれる相手に、恋愛感情を抱くのは容易に想像がつく。
職員だけじゃなく自分が静弥に感じたように、他の利用者に本能で運命を感じる人間も居るかもしれない。
静弥が言う「守りますから」と言う言葉は、どんな命令よりも強い力を感じた。
小学校の頃の担任の先生が、学級新聞の卒業式の号に書いてくれた生徒一人一人へのメッセージのような信頼感があった。
同時にこう言うところが役所なんだよな……。と言う呆れた感想も、小匙一杯分くらいは浮かんでしまう。
ダイナミクスと「Normal」は恋愛を出来ない以前に、見えている景色と生きる為の前提が違う。
「Normal」の人間ですら出会いがないとマッチングアプリをするのに、更に人口が少ないダイナミクスの人間からしたら出会いは奇跡のようなものなのだ。
それこそマッチングアプリとかダイナミクスバーに行くのが主流であり、職場や学校の人間とは夢物語と言っても過言じゃない。
利用者間のトラブルまでは対応し切れない。と言う職員の本音も分かるが、利用者側からしたら貴重な出会いの場に制限をかけるのは上が「Normal」なんだろう。と、思ってしまう。
だけど、晄も子供じゃない。ルールを守らないと、職員と他の利用者が困ることくらい想像出来る。
「はい……」
渡されたボールペンはいかにも業務用と言う感じの見た目をしていて、使い古されているのかペン先が潰れていて文字が書きにくい。
晄はペンをまるで拳を握るかのように掴み、同意書にサインした。
「ペンの握り方は、こう」
静弥は晄の横に膝をついて座り、自前のボールペンで正しい握り方を示してくれた。
「え? ど、どうなってんですか」
「失礼。触りますね」
そっと静弥の糸のように細くて長い指が晄の指に添えられ、ボールペンを握らされる。
静弥の手は想像より冷たくて、昔もそうだったな。と当時を思い出して、胸が高鳴り出した。
最後に手を握られたのは、幼稚園の芋掘り遠足の時だったと思う。
ふんわりと香る、石鹸の香りも変わっていない。
何も考えず元気よく、遊んでいた毎日。
まさかあんなことになるなんて、思いもしなかった。
無知で思慮がないからこそ、あんな事故を起こしたのだ。今なら、そう思う。
大量生産大量消費の無機質なボールペンが「お前は数多あった『Dom/Subごっこ』事故の犠牲者の一人でしかない。沼黒 静弥とは、運命でもなんでもない』と、言っているような気がした。
「沼黒君、ごめんなさい。俺の所為で」
項垂れ、床に言葉を吸収させるように謝る晄。
静弥から返事が返って来ないので、恐る恐る顔を上げると鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
二人が「Dom/Sub」ごっこをしたことは村中に広まり、静弥はまるで凶悪事件の主犯かのように扱われていたことを晄は知っていた。
村人達の静弥への視線はまるでナイフのように鋭く、爛々と光っていたのだ。
元より静弥が変わった性格をしていたこともあり、静弥が突飛な行動をとると脚色されて拡散された。
田舎は他人の噂と悪口とセックスくらいしか娯楽がないので、マイノリティのダイナミクスなんて格好の的なのだ。
もし自分が逆の立場なら、静弥のことを憎むまではいかないが許せないと思う。
「篠塚君が謝ることじゃないと思うけれど。遅かれ早かれ、ダイナミクスは発現していただろうし」
そう言う静弥の瞳は、本当に何も感じてなさそうな無感情な色をしていた。
それは自分に対してもそうなのかと思ったら、晄の胸はズキズキと痛んだ。
一層のこと「お前の所為で、楽しくなったはずの学生時代は無茶苦茶になった」と、罵ってくれたら良いのに。
そうしたら、すっぱり諦められるのに。
「だって沼黒君の親父さん、出て行ったの……」
「違うよ。僕がDomだからじゃない。あの人思考力低い癖にプライドは高いから、お母さんに歯向かわれたのが腹立たしくて出て行ったんだよ」
静弥が年長の頃。沼黒 静弥の父親が妻子を置いて、家出したのは有名な話だった。
それにしても、幼稚園の頃以来会っていない父親のことをよく覚えているな。と、思う。
自分ならば、声も顔も忘れているだろう。
「同意書にサインして頂けたので、早速プレイを始めましょう。セーフワードは、どうしますか?」
*
セーフワード。それはSubが望まぬプレイをされそうになった時に、使うワードだ。すなわち、緊急停止ボタンのようなもの。
「え、ど、どうしましょう? みんな、どうしてるんですか?」
「人によりけりなんですけど、プレイ中に誤って言わないような単語になさっている方が多いですね。食べ物の名前……おにぎりとか、文豪の名前太宰治とか。逆に『大嫌い』とか強い言葉は、やめた方が良いかと。ただでさえ望まぬプレイで苦しい中言葉を発するにはかなりの勇気が必要でしょうし、言った後に自責の念も発生するでしょうから」
セーフワードを聞いた『Dom』は、激しい頭痛に襲われる。
それほどの効力があるから、慎重に選べと言うことなのだろう。
プレイ中に「おにぎり!」とか「太宰治!」って言うの、ちょっとウケるな。とか思った浅慮な自分が、恥ずかしくなった。
「えっ。う、うーん。それ聞いたら、余計に悩むな……」
「嫌いな食べ物とかにしますか? 例えばトマトとか」
「えっ。なんで、トマト嫌いって知ってるんですか?」
「小学校一年生の頃。学校で育てていたミニトマトの栽培の続きを、夏休みにする宿題があったでしょう? 採れたミニトマトの感想で『辛かったけど、おいしかったです』って、篠塚君書いてましたよね。絶対に食べてないだろう。って思って」
同級生のそんなエピソードを、よくもまあ覚えているもんだ。
幼稚園の頃に蜂に刺されて泣いていたエピソードや、小学校二年生の雪が積もった日に中庭の池でスケートをしようとしたら沈んでパンツまでびしゃぬれになって風邪を引いたエピソードや、中学校の頃に頭が禿げてる理科の伊藤先生のことを裏で「葉鶏頭」って呼び、髪の毛はどういう仕組みになっていて何故禿げるのか? なんてレポートを書かされたことも覚えてそうだ。
我ながら全てのエピソードが、頭が悪くて笑えてしまう。
トマトなら間違えて口にしないし、安全だと思いますが。静弥はそう言って、目を細めて笑った。
「じゃ、じゃあ、トマトで……」
静弥のペースに、すっかり乗せられている気がする。相手からしたら仕事をしているだけなのも、なんだか悔しい。
「承知しました。では、始めましょうか」
静弥はにっこりと微笑み、薄い唇を間髪入れずに開いた。
「≪Come(来い)≫」
*
命令を聞いた瞬間晄の身体に、静電気のような衝撃が走った。
何も考えられなくなり、命令だけが頭に残っている。
傀儡のように、静弥に言われた通りカレへ近寄る。
時折思うことが、ある。
「Sub」は「Dom」にとって、都合が良すぎる生き物だと。
命令を受けたら相手と信頼関係がなくても従うように、身体が、細胞が、遺伝子が出来ている。
中学生の頃。親のお下がりのスマホで、ダイナミクスについてTwitterで検索をかけたことがあった。
「Domの先祖は皇族の人間で、Subは妾の女。皇族が得する為の、作られた人種! ダイナミクスなんて、存在しない!」
なんていう、毒電波と称して良い投稿があった。
根も葉もないなんの根拠のない投稿を、鵜呑みにしているアイコンから怪しいアカウント達。
それを見て晄は「アホかよ」と、大声をあげて笑っていた。
自分は「Sub」であるにも関わらず、Subがどういう生き物か分かっていなかったのだ。
今なら分かる気がする。
静弥の命令に、従うお人形さんなのだと。
アニメのヒロインかのように、何も考えず感じないようにするのが「Sub」の処世術だ。
静弥は観察するように、こちらの様子を伺っている。
一番初歩的な命令が通ったので、もう一段階上の命令が通りそうかどうか見定めているのだろう。
「篠塚君、怖くないですか?」
「だ、大丈夫……沼黒君のこと、信用してるし」
口にしてから「しまった」と、思った。
村人達から静弥を守ることも庇うことも出来なかった人間が「信用」なんて言ったところで、なんの信憑性もない。
「Sub」なんかが近くに居たら、余計に沼黒君が変な目で見られるかも? と思ったら「Dom/Subごっこ」の件も含めて近寄れなかった。
それも、晄側の言い訳でしかないのだが。
静弥は口の端だけあげて、晄を見つめた。相変わらず目の奥は笑っていない。
「≪Kneel(おすわり)≫」
また身体のナカで、チリチリと火花が散るような感覚が走った。
「Dom」の命令は「Sub」の行動の主導権を取るだけだと思われがちだが、実際は身体の中から支配されている感覚なのだ。
(支配って言うより、Domに作り替えられてるみたいな……)
静弥の前で跪いたままの晄の頭は、垂れたまま。
まるで処刑場に立たされている、罪人みたいに。
この状況は、嫌でも幼稚園の頃の「Dom/Subごっこ」を彷彿とさせる。
あのごっこ遊びは、罪なのだと言われた気がした。
静弥は微笑みながら、晄の前に跪いた。
その笑みは、まるで好物を頬張る我が子を見る母親のようだ。静弥は笑みを崩さず、晄の丸い頭を優しく撫でる。
「え……」
「≪Good boy(よくできました)》」
静弥の言葉を聞いた瞬間に、身体の憑き物が全て取り払われた気がした。
締め付けられるような頭の痛みはなくなり、目は丸ごと洗浄したかのようにスッキリした気がする。鉛を乗せられたかのような重かった身体は、羽が生えたように軽い。
それと同時に、晄の心臓の深い部分が満たされていく。
ずっとぽっかりと大きく空いていた穴が、沼黒 静弥の言葉や仕草……一挙一動が宝物となって溜まっていくのが分かる。
「……エッ」
自分の男性器が剃り立つように天を向き、自身の高揚を指し示すように射精した。
静弥は慌てることなく、短く「少々お待ち下さいね」と言って部屋を後にした。
約十分後。
新品未開封のパッケージにトップバリューのロゴが入った下着と、同ブランドと思われる小綺麗なズボンとバインダーを持って静弥は帰って来た。
「下着は新品を買って、返却して下さい。ズボンは洗濯してから、返却をお願いします。貸出表に、サインをフルネームでお願いします」
エクセルか何かで作ったと思われるA4用紙には、他の利用者の名前を隠す為にびっしりと付箋が貼られている。
こんな付箋すぐ剥がしてしまえるのに、そんな真似をしないだろう。と言う人間の善性を前提に、運用されているあたり公的機関だと思う。
そしてまた、静弥は晄に正しいペンの持ち方の教授をした。
「……ありがとうございます」
「どう致しまして『命令』には、性的興奮を伴いますから気にしないで下さいね」
静弥は慣れているかもしれないが、こちらからしたら同級生の前で射精してしまったのだ。
恥ずかしくて、堪らない。
「プレイしてみて、どうでした? ≪Say(教えて)≫」
まるで王様のような瞳で、静弥は微笑んで見せた。
(え。施設の規約には、≪Strip(脱げ)≫とか≪Present(股を開け)≫みたいな性行為を誘発する命令はしない。って書いてあったけど、されんのか……?)
身の危険を感じた晄は、蛙のように飛び跳ねて後ろへ後退した。
「同意書を読んだ上で、サインして貰えますか」
バインダーをローテーブルの上に置かれて、晄はソファーに腰を掛ける。
同意書には情報漏洩に関することや個人情報保護のことなどアルバイト先の誓約書みたいな内容が、細かい字でかぎ編みかのようにギッチギチに書かれていた。
流し読みをしている内に、項目が変わっていることに気が付いた。
【施設内の全ての人間と、連絡先ないしSNSの交換を禁ずる】
項目の下の方に、他の利用者への声かけは挨拶だけにして下さい。とも、書いてある。
施設内全ての人間と言うことは、職員である静弥も含まれているだろう。
ここで会ったのも何かの縁だろうし、連絡先交換しない? とか言えそうだったら、言おう!
そんな目標と呼んで良いのか分からない、目標を立てたのに出鼻を挫かれてしまった。
「利用者様はあくまで治療をしに来てる訳ですから、不要なトラブルの種は避けるべきだ。と、我々は考えています。篠塚君がもし連絡先の交換を持ちかけられた時は、我々を理由に断ってください。遠慮なく、そう言ったことがあった。と、おっしゃって下さいね。守りますから」
支配したい「Dom」と、支配されたい「Sub」
自分じゃ制御出来ない、ダイナミクスにとっては三大欲求に匹敵する欲。
そんな欲を叶えてくれる相手に、恋愛感情を抱くのは容易に想像がつく。
職員だけじゃなく自分が静弥に感じたように、他の利用者に本能で運命を感じる人間も居るかもしれない。
静弥が言う「守りますから」と言う言葉は、どんな命令よりも強い力を感じた。
小学校の頃の担任の先生が、学級新聞の卒業式の号に書いてくれた生徒一人一人へのメッセージのような信頼感があった。
同時にこう言うところが役所なんだよな……。と言う呆れた感想も、小匙一杯分くらいは浮かんでしまう。
ダイナミクスと「Normal」は恋愛を出来ない以前に、見えている景色と生きる為の前提が違う。
「Normal」の人間ですら出会いがないとマッチングアプリをするのに、更に人口が少ないダイナミクスの人間からしたら出会いは奇跡のようなものなのだ。
それこそマッチングアプリとかダイナミクスバーに行くのが主流であり、職場や学校の人間とは夢物語と言っても過言じゃない。
利用者間のトラブルまでは対応し切れない。と言う職員の本音も分かるが、利用者側からしたら貴重な出会いの場に制限をかけるのは上が「Normal」なんだろう。と、思ってしまう。
だけど、晄も子供じゃない。ルールを守らないと、職員と他の利用者が困ることくらい想像出来る。
「はい……」
渡されたボールペンはいかにも業務用と言う感じの見た目をしていて、使い古されているのかペン先が潰れていて文字が書きにくい。
晄はペンをまるで拳を握るかのように掴み、同意書にサインした。
「ペンの握り方は、こう」
静弥は晄の横に膝をついて座り、自前のボールペンで正しい握り方を示してくれた。
「え? ど、どうなってんですか」
「失礼。触りますね」
そっと静弥の糸のように細くて長い指が晄の指に添えられ、ボールペンを握らされる。
静弥の手は想像より冷たくて、昔もそうだったな。と当時を思い出して、胸が高鳴り出した。
最後に手を握られたのは、幼稚園の芋掘り遠足の時だったと思う。
ふんわりと香る、石鹸の香りも変わっていない。
何も考えず元気よく、遊んでいた毎日。
まさかあんなことになるなんて、思いもしなかった。
無知で思慮がないからこそ、あんな事故を起こしたのだ。今なら、そう思う。
大量生産大量消費の無機質なボールペンが「お前は数多あった『Dom/Subごっこ』事故の犠牲者の一人でしかない。沼黒 静弥とは、運命でもなんでもない』と、言っているような気がした。
「沼黒君、ごめんなさい。俺の所為で」
項垂れ、床に言葉を吸収させるように謝る晄。
静弥から返事が返って来ないので、恐る恐る顔を上げると鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
二人が「Dom/Sub」ごっこをしたことは村中に広まり、静弥はまるで凶悪事件の主犯かのように扱われていたことを晄は知っていた。
村人達の静弥への視線はまるでナイフのように鋭く、爛々と光っていたのだ。
元より静弥が変わった性格をしていたこともあり、静弥が突飛な行動をとると脚色されて拡散された。
田舎は他人の噂と悪口とセックスくらいしか娯楽がないので、マイノリティのダイナミクスなんて格好の的なのだ。
もし自分が逆の立場なら、静弥のことを憎むまではいかないが許せないと思う。
「篠塚君が謝ることじゃないと思うけれど。遅かれ早かれ、ダイナミクスは発現していただろうし」
そう言う静弥の瞳は、本当に何も感じてなさそうな無感情な色をしていた。
それは自分に対してもそうなのかと思ったら、晄の胸はズキズキと痛んだ。
一層のこと「お前の所為で、楽しくなったはずの学生時代は無茶苦茶になった」と、罵ってくれたら良いのに。
そうしたら、すっぱり諦められるのに。
「だって沼黒君の親父さん、出て行ったの……」
「違うよ。僕がDomだからじゃない。あの人思考力低い癖にプライドは高いから、お母さんに歯向かわれたのが腹立たしくて出て行ったんだよ」
静弥が年長の頃。沼黒 静弥の父親が妻子を置いて、家出したのは有名な話だった。
それにしても、幼稚園の頃以来会っていない父親のことをよく覚えているな。と、思う。
自分ならば、声も顔も忘れているだろう。
「同意書にサインして頂けたので、早速プレイを始めましょう。セーフワードは、どうしますか?」
*
セーフワード。それはSubが望まぬプレイをされそうになった時に、使うワードだ。すなわち、緊急停止ボタンのようなもの。
「え、ど、どうしましょう? みんな、どうしてるんですか?」
「人によりけりなんですけど、プレイ中に誤って言わないような単語になさっている方が多いですね。食べ物の名前……おにぎりとか、文豪の名前太宰治とか。逆に『大嫌い』とか強い言葉は、やめた方が良いかと。ただでさえ望まぬプレイで苦しい中言葉を発するにはかなりの勇気が必要でしょうし、言った後に自責の念も発生するでしょうから」
セーフワードを聞いた『Dom』は、激しい頭痛に襲われる。
それほどの効力があるから、慎重に選べと言うことなのだろう。
プレイ中に「おにぎり!」とか「太宰治!」って言うの、ちょっとウケるな。とか思った浅慮な自分が、恥ずかしくなった。
「えっ。う、うーん。それ聞いたら、余計に悩むな……」
「嫌いな食べ物とかにしますか? 例えばトマトとか」
「えっ。なんで、トマト嫌いって知ってるんですか?」
「小学校一年生の頃。学校で育てていたミニトマトの栽培の続きを、夏休みにする宿題があったでしょう? 採れたミニトマトの感想で『辛かったけど、おいしかったです』って、篠塚君書いてましたよね。絶対に食べてないだろう。って思って」
同級生のそんなエピソードを、よくもまあ覚えているもんだ。
幼稚園の頃に蜂に刺されて泣いていたエピソードや、小学校二年生の雪が積もった日に中庭の池でスケートをしようとしたら沈んでパンツまでびしゃぬれになって風邪を引いたエピソードや、中学校の頃に頭が禿げてる理科の伊藤先生のことを裏で「葉鶏頭」って呼び、髪の毛はどういう仕組みになっていて何故禿げるのか? なんてレポートを書かされたことも覚えてそうだ。
我ながら全てのエピソードが、頭が悪くて笑えてしまう。
トマトなら間違えて口にしないし、安全だと思いますが。静弥はそう言って、目を細めて笑った。
「じゃ、じゃあ、トマトで……」
静弥のペースに、すっかり乗せられている気がする。相手からしたら仕事をしているだけなのも、なんだか悔しい。
「承知しました。では、始めましょうか」
静弥はにっこりと微笑み、薄い唇を間髪入れずに開いた。
「≪Come(来い)≫」
*
命令を聞いた瞬間晄の身体に、静電気のような衝撃が走った。
何も考えられなくなり、命令だけが頭に残っている。
傀儡のように、静弥に言われた通りカレへ近寄る。
時折思うことが、ある。
「Sub」は「Dom」にとって、都合が良すぎる生き物だと。
命令を受けたら相手と信頼関係がなくても従うように、身体が、細胞が、遺伝子が出来ている。
中学生の頃。親のお下がりのスマホで、ダイナミクスについてTwitterで検索をかけたことがあった。
「Domの先祖は皇族の人間で、Subは妾の女。皇族が得する為の、作られた人種! ダイナミクスなんて、存在しない!」
なんていう、毒電波と称して良い投稿があった。
根も葉もないなんの根拠のない投稿を、鵜呑みにしているアイコンから怪しいアカウント達。
それを見て晄は「アホかよ」と、大声をあげて笑っていた。
自分は「Sub」であるにも関わらず、Subがどういう生き物か分かっていなかったのだ。
今なら分かる気がする。
静弥の命令に、従うお人形さんなのだと。
アニメのヒロインかのように、何も考えず感じないようにするのが「Sub」の処世術だ。
静弥は観察するように、こちらの様子を伺っている。
一番初歩的な命令が通ったので、もう一段階上の命令が通りそうかどうか見定めているのだろう。
「篠塚君、怖くないですか?」
「だ、大丈夫……沼黒君のこと、信用してるし」
口にしてから「しまった」と、思った。
村人達から静弥を守ることも庇うことも出来なかった人間が「信用」なんて言ったところで、なんの信憑性もない。
「Sub」なんかが近くに居たら、余計に沼黒君が変な目で見られるかも? と思ったら「Dom/Subごっこ」の件も含めて近寄れなかった。
それも、晄側の言い訳でしかないのだが。
静弥は口の端だけあげて、晄を見つめた。相変わらず目の奥は笑っていない。
「≪Kneel(おすわり)≫」
また身体のナカで、チリチリと火花が散るような感覚が走った。
「Dom」の命令は「Sub」の行動の主導権を取るだけだと思われがちだが、実際は身体の中から支配されている感覚なのだ。
(支配って言うより、Domに作り替えられてるみたいな……)
静弥の前で跪いたままの晄の頭は、垂れたまま。
まるで処刑場に立たされている、罪人みたいに。
この状況は、嫌でも幼稚園の頃の「Dom/Subごっこ」を彷彿とさせる。
あのごっこ遊びは、罪なのだと言われた気がした。
静弥は微笑みながら、晄の前に跪いた。
その笑みは、まるで好物を頬張る我が子を見る母親のようだ。静弥は笑みを崩さず、晄の丸い頭を優しく撫でる。
「え……」
「≪Good boy(よくできました)》」
静弥の言葉を聞いた瞬間に、身体の憑き物が全て取り払われた気がした。
締め付けられるような頭の痛みはなくなり、目は丸ごと洗浄したかのようにスッキリした気がする。鉛を乗せられたかのような重かった身体は、羽が生えたように軽い。
それと同時に、晄の心臓の深い部分が満たされていく。
ずっとぽっかりと大きく空いていた穴が、沼黒 静弥の言葉や仕草……一挙一動が宝物となって溜まっていくのが分かる。
「……エッ」
自分の男性器が剃り立つように天を向き、自身の高揚を指し示すように射精した。
静弥は慌てることなく、短く「少々お待ち下さいね」と言って部屋を後にした。
約十分後。
新品未開封のパッケージにトップバリューのロゴが入った下着と、同ブランドと思われる小綺麗なズボンとバインダーを持って静弥は帰って来た。
「下着は新品を買って、返却して下さい。ズボンは洗濯してから、返却をお願いします。貸出表に、サインをフルネームでお願いします」
エクセルか何かで作ったと思われるA4用紙には、他の利用者の名前を隠す為にびっしりと付箋が貼られている。
こんな付箋すぐ剥がしてしまえるのに、そんな真似をしないだろう。と言う人間の善性を前提に、運用されているあたり公的機関だと思う。
そしてまた、静弥は晄に正しいペンの持ち方の教授をした。
「……ありがとうございます」
「どう致しまして『命令』には、性的興奮を伴いますから気にしないで下さいね」
静弥は慣れているかもしれないが、こちらからしたら同級生の前で射精してしまったのだ。
恥ずかしくて、堪らない。
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