紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月3 -惨映-

2章 継がれる史と思

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1.「過去に囚われるのは人間だけだ。だがそれを過去から学ぼうとはしない。」


十三時近く、お店に入ると半分くらいの席が空いていた。従業員のいらっしゃ
いませと、お好きな席にどうぞの声で適当な席に座る。会計の所では男性の会
社員三人が、談笑しながらそれぞれのお金を払っている。それに目をやってい
ると、従業員が水を運んで来た。
「ご注文はお決まりですか?」
水を置くと、そう聞いてくる。
「渡り蟹のリングイネをランチセットで。」
既に注文を決めていた私は、メニューを見ることなく注文をした。
「渡り蟹のリングイネをランチセットですね、かしこまりました。」
注文を復唱すると、従業員は厨房へと伝えに行く。
アイキナ市警察局に向かう途中、コートカ駅の二つ手前のフリューイ駅で降り
た私は、久しぶりのアレッタレットでランチをするために来た。前に短時間勤
務をしていた時、よく来ていたお店だ。面倒だけど、例の事件の資料を確認し
に行くついでに、通り道なので久しぶりに食べたくなった。
店内のテレビでは報道が既に、ゴルネトの事件を報じている。ザイランと会っ
た次の日には通報があったようだ。前日から臭いは漏れていたようだが、次の
日にもっと酷くなり、これはおかしいと近所の人が通報したと報じられている。
そりゃ、地下室を開けっ放しにしてきたから、酷い臭いだったでしょうね。古
い少女の無惨な死体は既に腐敗していたし、垂れ流された汚物もそのままだっ
たのだから。
付近の人には悪い事をしたなと思ったが、遅かれ早かれ露見していただろうと
思う。あのままの状態で、ゴルネトは生きて往けると思っていたのだろうか。
都合六体の死体が出たこの事件は、昨日から世間を賑わせている。五人もの少
女を監禁殺害した凶悪な事件として。
ただ、五人の内の一人は私が殺した。司法裁院の仕事の都合上、存在を知られ
る訳にはいかないから。だけど、どんな都合が在るにせよ、人殺しでしかない。
殺した少女の涙に濡れた虚ろな瞳は、私の記憶から消える事はない。
「セットのサラダです。」
以前と変わらない簡易的なサラダが置かれていく。駄目ね、折角来たのだから
楽しまないと。気持ちを切り替え、られるわけもないが、それでも久しぶりの
アレッタレットのランチは美味しかった。

見慣れた四つの椅子に囲まれた会議卓。アイキナ市警察局内にある小会議室で、
私は資料を眺めていた。止めろと言ったのに、紙コップに入った美味しくない
珈琲が用意されている。しかも、今日はお菓子が無い。
「人に手伝わせておいてこれは無いんじゃない?」
紙コップを突つきながら私は不満を露にする。
「局内にはそれしか無いって言ってるだろうが。」
渋い表情に不満を乗せてザイランが言い返してくる。それが怠慢なのよ。
「買ってきて。」
「おまっ・・・。」
私の態度にザイランは憮然とした表情をして、口が開いたまま止まった。
「そこまでする義理は無いだろうが。」
一転して眉間に皺を寄せて言ってくる。
「じゃ、止める。この前のケーキ代も返すわ。」
私はトートバッグから財布を取り出しながら言う。
「待てって。我が儘が過ぎるだろうが。買ってくるから少し待ってろ。」
不満たっぷりの顔でザイランは部屋を出ていった。でも我が儘過ぎとか言って
おきながら、買いにはいくのね。
それに乙女だもの、我が儘言ったっていいじゃない。
「さて。」
私は小さく呟くと資料を読み始める。殺されたおっさんは、ダンゲグ・マッツ
ァン、四十九歳独身、会社員。まあ、どうでもいい。
死体が発見されたのはリャスリエ橋東駅付近。数日後、ネスカール川のナッド
ベリウ港湾街区付近で首なし腐乱死体が発見され、陰部も切り取られ体型も一
致しているので同一人物と判断。一週間後、遺伝子情報検査により確定。
頭部付近にあった血文字には、ニグレースと書かれており血は本人のものと断
定。体内から薬物や毒物の検出は無し。刳り貫かれた眼球と、削ぎ落とされた
鼻は未発見のまま。
近所の人の話しによれば普通の人で、挨拶もするし良識の範囲内で行動してい
たと。会社内でも同様で特に恨まれている形跡も無し。
猟奇的な殺人は被害者に特徴が無かったりするのよね。連続すると傾向が見え
てきたりもするけど、今のところ単独だし。
しかし、被害者の情報は詳細に続いているが、目ぼしい情報は記載されていな
い。これは、わたしが見に来る理由はあるのだろうか?そこで扉が開くと、ザ
イランが入ってくる。
「これでいいか。」
と、私の前にカップが置かれる。近くにあるカフェから、テイクアウトで買っ
てきてくれたようだ。
「ありがと。」
カップからは紅茶の香りがする。珈琲でないところは流石現職の警務というべ
きか、私が紅茶の方が好きと判断したのだろう。その観察力を別のところにも
回せばいいのにと思う。変なところ不器用なんだから。
私は早速、紅茶を飲みながら続きを見るが、変化は無い。
(あ、この紅茶美味しい。)
しかし、この資料を見ていると疑問が沸いてくる。
「ねえ、私は来なくても良かったんじゃない?」
見てて思った疑問を口にする。
「だが、現状が手っ取り早く理解出来ただろう。」
言われて見れば、進展の無さがはっきりと分かる。口頭や文書通信で言われて
も、もっとあるんじゃないかと疑ってしまう可能性があるより、手っ取り早く
納得させるには。とすると、警察局としてはどんな情報でもいいから欲しいの
が現状なのだろう。私なんかに協力を依頼する程。
「本当に困っているのね。」
「そうなんだ。協力を依頼したのも分かるだろう。」
私がザイランの言葉に頷いたところで、扉を叩く音が鳴る。ザイランが促して
入って来たのは、ポンコツ二人の若い方というか、まだましな方というか、シ
ルギーだったかしら。
「買って来ましたよ、ザイラン警務。」
シルギーは私に軽くお辞儀をして、ザイランに小さな箱を差し出した。
「ああ、すまんな。」
そう言ってザイランはその箱を受け取る。
「あんまり目立たない様にしてくださいね、下っ端のこっちまで巻き込まれる
のは勘弁して欲しいので。」
「分かっている。」
シルギーは追い払われる様に部屋を出ていった。ザイランは受け取った箱を私
の前に置く。どうやら食べ物のようだが、部屋に来た時にお菓子がなかった理
由はこれか。
「わざわざ買いに行かせていたの?」
「ああ。」
こういうところが駄目なのよね。
「自分で行きなさいよ。私とザイランの話しには関係ないでしょ。」
「そうだな、すまん。」
ザイランは罰が悪そうに顔を反らす。差し入れのお菓子は食べるけど。きっと
適当に買ってこいとか言ったんでしょうね。箱の中身は駅前にあるクーリのア
ップルパイだった。シルギーが選んだのだろう、紅茶に丁度いいわ。ザイラン
が選ぶとは思えないし。そう言えばあいつ。
「ねえ、あいつなんか勘違いしてたんじゃない?」
出る時に言った言葉は明らかに阿呆な想像をしたに違いない。だがザイランは
怪訝な顔をする。
「捜索協力の話しはしてあるから問題ないぞ。」
駄目ねこいつ。
「まあいいわ。ところで、これ以上の情報は無いんでしょ?」
「ああ。」
苦い表情でザイランは頷く。そうよね、手詰まりなんて本当は言いたくも無い
だろうし、警察の威信も、自身の自負もあるでしょうし。でもそれは私が踏み
込む領域ではない。
「じゃあ、私は帰るわね。」
「わざわざすまんな。」
私は軽く左右に首を振って、扉の方に目を向ける。
「あと、立ち聞きは感心しないわよ。」
「なに!?」
私の言葉にザイランが慌てて立ち上がり扉を開ける。私には走って行く足音し
か聞こえなかったが、ザイランには見えていたようだった。
「シルギーの奴、後で仕事量増やしてやる。」
「みっともないから止めなさいよ。」
私は席を立ち上がりながら言う。大した話しをしてたわけじゃないし、聞かれ
て困るような事もない。居ると分かっていれば、司法裁院の話しを出さない事
も出来る。
「それじゃ。期待はしないでね。」
「ああ。」
ザイランが開けていた扉を抜けると私は警察局を出て、お店への帰路に着いた。



飾り気の無い屋敷で大きくもなく、ある程度の成功や収入で手に入る程度の屋
敷。法皇国オーレンフィネアでも郊外にあるボルフォンは、地価も安く比較的
手に入れやすい。自然も多く静かな為、別荘地として利用する人も少なくはな
い。
手入れの行き届いた庭園に設置されたテーブルでは、二人の男性がティータイ
ムを楽しみ語らっている。そこへ屋敷内から、中年だが見目麗しい小柄な女性
が、焼き上がったスコーンを持って現れ、テーブルの中央へ置いた。
「お口に合うとよろしいのですが。」
「奥方のスコーンは絶品です、合わない筈がありません。この紅茶も美味しく
頂いております。」
女性の言葉に、三十程の男性が笑顔で応える。グレーの背広に身を包み、金髪
碧眼で端正な顔立ちをした青年に、女性も笑顔を向ける。
「まあ、ラーンデルト卿は相変わらずお上手ですこと。」
女性の言葉にラーンデルトは恐縮する。
「とんでもありません。お世辞等ではなく本心です。」
「ありがとうございます。ゆっくりしていって下さいませ。」
女性は笑顔で言うと、一礼して屋敷の中へ戻っていった。ラーンデルトもお辞
儀をすると、向かいに座る男性に向き直る。
「奥方様もお変わり無いようで。」
「ああ。あれには良くしてもらっている。過ぎた女性だよ。」
五十歳程だが、穏和な焦色の瞳と整った精悍な顔つきは十歳は若く見える。瞳
と同じ焦色の髪を揺らしながら男性が自嘲する。自宅だからか、スラックスに
白のシャツを着崩したラフな格好をしている。
「そんな事はありません、とてもお似合いですよ。」
「そうだといいが。」
ラーンデルトの言葉に男性は優しく微笑んで言った。
「ところで、近々ご息女がお帰りになるそうですね、枢機卿。」
「ああ数日以内にはね。とてもいい婿殿と一緒にこちらで暮らすそうだよ。娘
も幸せそうにしているので、私も幸せ者だ。」
顔を綻ばせて男性は言った。
「羨ましいですね、アルメイナ様を射止めたその男性は。何でも一般の方だと
か。」
「はは、ラーンデルト卿は耳が早いね。」
ラーンデルトの言葉に男性は苦笑する。
「アルメイナ様に憧れを抱いていた男性は多いですからね。私もそのうちの一
人ですが。」
そう言ってラーンデルトも苦笑する。
「娘には好きに生きて欲しいのでね。自分の人生は自分で決めさせている。」
男性は視線を遠くへと向けながら、優しく言った。そんな男性に対し、ラーン
デルトは表情を固くして男性を見据える。
「カーダリア枢機卿。」
ラーンデルトの真剣な眼差しと低くなった声音に、カーダリアは向き直り笑み
を消した。
「なんだね、改まって。」
穏やかだが剣のある声でカーダリアが先を促す。
「中央へお戻り下さい。」
カーダリアは目閉じ、ゆっくりと首を左右に振る。
「それは聞けない相談だ。」
「何故です。ご息女も戻られご結婚もされる。ここは婿どのに譲られて中央へ
戻られてもよろしいのではないですか?」
ラーンデルトは身体を前に乗り出して、カーダリアへ食い下がる。
「今更私が戻ったところでどうなるものでもあるまい。中央の半数以上は推進
派になっている。」
「枢機卿はご自身の影響力をご存じの筈です。」
カーダリアは嘆息しながら首を左右に振ると、寂しげに微笑む。
「ラーンデルト卿も勘違いしているようだが、片田舎でのんびり暮らす中年に
そんな力はないのだよ。」
「そんな筈は・・・」
ラーンデルトの言葉は、尻すぼみになって止まった。そんな筈はないと思って
いたが、カーダリアの表情を見ると本当なのだろうと思ってしまって。
「そのために、私は二十年も此処に居たのだから。」
「法皇国を、見捨てるおつもりですか?」
カーダリアの言葉に肩を落として、ラーンデルトは聞いた。
「これでもまだ、枢機卿の地位を捨てたわけではない。そのつもりなら、私は
此処にすら居なかったよ。」
カーダリアはそう言うと、冷めた紅茶を飲んで法皇庁がある方へ視線を向ける。
ラーンデルトも釣られるように追った。
「では何故、お戻りになられないのですか。」
「推進派の思い通りには、ならないからだよ。」
カーダリアは何処か謎めいた微笑を浮かべる。
「それはどういうっ・・・」
はっと振り向いて問おうとしたラーンデルトを、カーダリアは右手を上げて制
した。その目は先程までの温和さは無く、刺すような鋭さに変わっていた。
「それは、知らない方がいい。」
今まで感じた事の無い威圧に、ラーンデルトは委縮した。カーダリアはいった
い何を知っているのかという疑問よりも、その雰囲気に飲まれこれ以上は踏み
込まない方がいいと思わされた。
「では、お心変わりは無い、という事でしょうか。」
ラーンデルトの憮然とした問いにも、カーダリアは穏やかに頷いた。
「ああ。此処に来たときに、既に決めていた事だからな。」
「そう、でしたか。」
ラーンデルトはそう言って紅茶を飲み干すと、椅子から立ち上がった。
「今日の所は失礼致します。また、来ます。」
「雑談なら、何時でも付き合おう。」
ラーンデルトに対し、諦めの悪い男だと思いながらカーダリアは返した。この
程度で諦めるなら、それまでの男だとも思うが。それでも、心変わりはするつ
もりは無いカーダリアは、潔く諦めてくれた方が楽だとも思った。
「少しお土産に包ませよう。」
立ち去ろうとするラーンデルトに、カーダリアは立ち上がりながら言った。カ
ーダリアはスコーンの皿を持つと、屋敷の方に向かう。
「有難う御座います。」
その背中に、ラーンデルトは頭を下げる。
「では、奥方様にも宜しくお伝えください。」
それ程待たずして戻って来たカーダリアから、紙袋を受け取るとラーンデルト
はそう伝えた。
「ああ。ラーンデルト卿も壮健に。」
カーダリアの言葉に、ラーンデルトは一礼すると、屋敷を後にした。



お店に戻った私は、そろそろ王都アーランマルバに行く準備をしないといけな
い事に気付いた。
(ニーザメルベアホテルを予約しないと。)
出来ればウェレスが前入りする前日か、前々日には入りたい。そうすると、最
低でもあのニーザメルベアホテルに二日は滞在しないといけない。あぁ、出費
が。きっと高いんだろうな。
当日の警備は当日になってみないと分からないが、間取りやホテルの状況、夜
の街の状況も含めて事前に確認しておきたいわ。
(何で私がここまでしなきゃいけないのよ、まったく。)
何日か空けるとなると、お店も閉めないといけないわね。リュティに任せっぱ
なしは流石に気が引けるし、悪いもの。薬莢の受注もそれに合わせて受ける必
要があるわね。その間の売り上げも減るじゃない。出費が嵩むうえに収入減る
とか、司法裁院に少し補填してもらわないと割に合わない、後でザイランに掛
け合ってもらおう。
「どうかしたの?」
考えに耽っていた私の顔をリュティが覗き込んでいた。
「近いわよ。」
目の前にある顔に半眼を飛ばす。
「考え込んでいるようだったから、心配したのよ。近づいても気付かない程。」
そうよね。声を掛けられて初めて気付いたのだから。それほど悩みの種なのよ
ね、ウェレスの件は。
「ねえリュティ。」
「何かしら?」
私の呼び掛けに首を傾げるリュティ。
「三日くらい王都に行く必要があるのだけど、行く?自腹でね。」
「私はいいわよ。だけどお店は閉めていいの?」
「いいのよ、任せっぱなしってわけにはいかないし。」
次の日に無事に帰って来られる保証もないし。そうか、死ぬ可能性もあるのよ
ね。悪いけどその時はリュティにお店を畳んでくれるよう後でお願いしよ。
「ミリアがそれでいいのなら、私は問題ないわよ。」
何時もの微笑でリュティが応える。
「じゃあ決まりね。ホテルは私が予約していい?ちょっと高いかも知れないけ
れど。」
「ええ、いいわよ。」
ちょっとじゃないかも知れないが、とは言わなかった。そもそも今から予約な
んか取れるのか疑問なのだから。まて、要人御用達のようなニーザメルベアホ
テルに泊まれるのか自体が疑問よね。無理だったら他を探す必要があるから早
めに確認した方が良さそうね。
「ちょっと確認してくるから、お店お願い。」
「分かったわ。」
リュティの返事を聞くと、私は店の奥に行ってホテルの連絡先を調べると、早
速連絡した。

(ああ、駄目だった。)
空いてる空いていない以前に、当日が一般客お断りだった。もう少し早く確認
しておけば良かったな。早くも何も当日が駄目なものはしょうがないけど。そ
れでも前日は予約が取れたので事前調査くらいは出来る、それは少しほっとし
た。
それよりちょっと待て。これはつまり、司法裁院は初から外部からの襲撃とし
て計画を立てたんじゃないのか?襲撃場所をホテルと選んだのだから、当日は
一般客が泊まれないって事は知っていて当然なのではないか。
それと普通に考えれば、何時でも護衛が付いてるとはいえ、ホテルの方が厳し
い事くらい明白だ。だったら何故厳しい方を選んだのか。王都アーランマルバ
でやる事に意味があるのだろうか。新しく開店する総合ビルの記念式典に出る
前が実行日なのだから、記念式典自体に意味が無い気はする。何時死んでも出
席出来ない事に変わりは無いから。
いや、前日の事件だと当日の式典に少なからず影響は出るか。そうすると狙い
が分からないが、政治的な理由でとかだったら嫌だな、ろくな事にならない気
がするもの。司法裁院が政治に関わって来るとは思えないが。
(うん、分からない。)
分からない事を考えていても拉致があかないので、店内に戻ってリュティに伝
える。
「一番安い部屋で七万からだったわ。経費としてそれだけじゃないところが痛
いわね。」
「その痛い出費を私もするのね。」
私の言葉に、リュティが不満を漏らす。
「経費として出ないのなら私だって自腹よ。」
「私の場合はミリアに付いていくだけなのよ。」
確かにその通りなのだけど。
「自腹で納得したでしょう。」
「そんな高いなんて聞いていないわ。」
仰る通りで。
「ちょっと高いかもとは言ったわ。」
「限度ってものがあるでしょう。」
うっ。正論。確かに限度ってものがあるわよね、七万がちょっとなんて普通は
思わないし。普通なら一万から二万、ちょっといい所でも二万から三万くらい
だもの、ちょっととは言えない。アーランマルバに行く私の都合で、それを強
いる権利は無いわね。
「ごめん、ニーサメルベアホテルの宿泊費は私が出すわ。」
折れるしかないわよね、ここは。
「あら、ありがとう。」
リュティは笑顔でそう言った。それ以外は折れないわよ、自腹でいいって納得
したのだから。
「話しは変わるけど。」
これ以上出費に関わる問答はしないようだ。それは話しを変える言葉以上に、
リュティが今までと打って変わって真面目な表情をしたから察した。
「何?」
リュティが真面目な表情になる時は、あまりいい予感がしない。それは私の進
退や生死に関わる理由だったり、過去に抵触する話しが多いからだ。意識して
かしないでか、私は若干剣のある視線を向けて聞いていた。
リュティは無言で一枚の紙片を私に差し出して来る。そこに描かれていたのは
呪紋式だった。何時も記述しているから、内容はすぐに判ったが若干記述内容
が違う。
「これって、身体強化の呪紋式よね?」
そう、司法裁院の仕事の時は必ずと言っていい程利用する。だから見た瞬間な
んの呪紋式か判別がつくのだが、渡されたのは若干内容が違う為疑問となった。
「ええ。」
「どうしてこれを?」
「前々から言っているけれど、私はあなたに死んで欲しくないのよ、本当に。」
真面目な表情のリュティは、瞳に寂寥が浮かんでいる気がした。
「それは知っているけど、それとこの呪紋式がどう関係しているの?」
リュティのその思いは、本心なのだろうとは思う。でなければ、度々私を助け
たりはしないだろう。ただ、何故そういう風に肩入れをするのかは不明なのだ
けど。不明というより、触れたくないと言った方が正解だろう。かなりの確度
でリュティの正体や私の刻まれた記憶に関わる内容だと思うから。
「モッカルイアでキャヘスと戦った時に使用していた、身体強化の呪紋式が不
完全だからよ。」
そんなに月日が経っていない出来事を思い出すと、忸怩たる思いが込み上げて
来る。我が儘な思いかも知れないが、未だにもっと上手く立ち回れたんじゃな
いかと思ってしまうから。
何でその時に教えてくれなかったのかと、リュティに言いたくなるが、思い止
まった。リュティにはリュティの思いがあるのだろうから。それは私の腕を治
した時に言った慈善事業ではない、という言葉から何となく推測できる。同時
に、私は当時それを出されたとして受け入れただろうかという疑問も出てくる。
「そう、なのね。」
刻まれた過去に嫌気が差しながらも、私はその紙片を手に掴んだ。私の心情を
察しているのだろう、リュティはそれ以上呪紋式に関しては何も言って来なか
った。きっと私が受け入れる事を望んでいるのだろうけれど、それを忌避して
いる事も知っているからじゃないだろうか。
何処か寂しげな笑みと、受け取った事への安堵感を浮かべた瞳は、ない交ぜに
なった思いを映しているようだった。
「気持ちは、受け取っておくわ。」
使う使わないは別として、とは言わなかった。そこまで鞭を打つような言葉を
言うほど、私は辛辣になりたくない。それに私は自分の為に、きっと使うだろ
うから。自分勝手過ぎるわよね、そう思うと自嘲した。
「当日のホテルは一万程なの。安いところを探したら、少し外れになってしま
ったわ。」
嫌な自分から逃げるように、話しを戻す。
「いいんじゃない。」
リュティの微笑は何時も通りに戻っていた。
そう言えば王都アーランマルバに行ったら、アンパリス・ラ・メーベのシュー
クリームが食べ放題じゃないか。普段食べる事が出来ないから、この機に堪能
しなくては。アスカイル住宅街から引っ越した後、フラドメル駅は利用しなく
なったので近くに無くなったし。ロンカット商業地区にも支店を出してくれれ
ばいいのに。
シュークリームの事はさておき。
「そういう事で、薬莢の受注は出発前迄にして欲しいの。終わってすぐ戻れる
とも限らないし。」
お店を任せる事が多いリュティに、今後の方針を伝える。リュティであれば概
ねの日数は分かるから、無茶な依頼は受けないだろう。まあ、それほど流行っ
ているお店ではないから、そんなに受注は無いのだけれど。
「分かったわ。」
「内容や量にもよるけど六日以内、が受ける限度かな。それを超えそうなら断
ってもらって、戻ってからであれば引き受けられるって方向に話しを持ってっ
てくれれば。」
王都アーランマルバに行くから、六日が限度ね。戻ってくる日は微妙だけど、
戻ってくる保証も出来ないし。受ける事が出来るのは出かける前だけに限ら
れてくる。
「気を付けておくわ。」
「じゃあ私は、この前依頼を受けた薬莢がまだ途中だから奥に行くね。」
リュティの返事を聞いた私は、薬莢に麻酔の呪紋式を記述するために、お店を
リュティに任せて奥に移動した。



数人の男女が円卓を囲んでいる。円卓も頭より高い背もたれの椅子も、金糸銀
糸の刺繍が優美な模様の布が掛けられている。
部屋内にある家具は少なく、硝子扉の棚が幾つかあるだけだ。棚の上には金の
燭台や、杯、大皿等が飾られ、室内灯の光を拡散している。棚の目的は食器類、
書類、装飾品が飾られている棚と用途は統一されていない。
「ペンスシャフル国への潜入は滞りなく進んでいる。」
円卓に座る一人の中年男性が口を開いた。
「オーレンフィネアの所在もはっきりしていないのに、他国に干渉などしてい
て大丈夫かね。」
中年男性の言葉に、初老の男性が疑問を呈する。
「何れ手にいれるのだ、順番なぞ関係あるまいよ。」
初老男性の言葉を、老女が口の端を吊り上げて一蹴した。
「ゾーミルガ老は未だに穏健派から抜け出せていないようね。」
初老男性、ゾーミルガに追い討ちを掛けるように、三十歳くらいの女性が言う。
「儂は懸念を言うておるだけだ。アーリゲル老や、セーラミル卿のように強気
に出て足元を掬われてもとな。」
「ふん。」
「弱気なら黙っておれよ。」
女性、セーラミルが鼻を鳴らし老女、アーリゲルが嘲弄すると、ゾーミルガは
鼻の頭に皺を作り不機嫌な顔をする。
「つまらんい諍いをする為に集まっているのではない。」
貫禄のある青年が一括すると、三人はそれぞれ顔を反らした。
「グーダルザ卿、ペンスシャフル国の在りかへの道筋は間違いないのだろう?」
青年が中年男性、グーダルザに視線を向けると、会話の趣旨を戻す。
「はい、マールリザンシュ卿の懸念はもっともです。が、場所は剣聖の館の真
下と記載されおり、ペンスシャフル国は其の場所を中心に建国されているため、
間違いありません。探りを入れてみましたが、確度は高いかと。」
「彼の祖、ロードアルイバの文献か。」
グーダルザの言葉に、マールリザンシュは呟くと目を閉じる。
「そもそもロードアルイバの文献にどれ程の信憑性があるのだ。」
ゾーミルガは再びグーダルザの言葉に懸念を露にする。
「ロードアルイバはもともとペンスシャフル国の出身よ。ま、文献と言っても
本人の手記じゃ、空想物語としても不思議はなかろうよ。」
懸念にアーリゲルが答えると、グーダルザが顔を顰め口を開こうとするが、そ
れより早くセーラミルが口が動く。
「身も蓋も無いこと言わないで、勘違いするでしょう。ロードアルイバがペン
スシャフル国の史記を持ち出していて、それを基に手記が書かれているのよ。」
「うむ、残された史記は現在のペンスシャフル国に伝わる史実と一致する。よ
って信憑性が高いと判断して我らは動いておる。」
セーラミルの言葉をグーダルザが引き継いで説明した。だがゾーミルガの表情
は変わらず、別の疑問を口にする。
「一国の史記を持ち出せるものなのか?それこそ手記と同様に自分で書いた可
能性もあるのではないか?」
「手記にはペンスシャフル国では、剣聖の従者をしていたと記述がある。暇を
貰う際に持ち出したとな。」
「それこそ空想物語ではないか。」
グーダルザの説明に、ゾーミルガは苦い顔をして言った。
「何しろ五百年近く前の話しだかならな、疑うのも無理はない。だが私は空想
ではないと思っている。」
マールリザンシュがゾーミルガを嗜めるように言った。ゾーミルガは多少表情
を緩めると、マールリザンシュを見据える。
「そう思う理由があるということですね。出来れば理由をお聞かせ願いたい。」
マールリザンシュは目を閉じ頷くと、少しの間を置いて目を開く。
「ロードアルイバの直系は現在でも、この法皇国オーレンフィネアに存在する
からだ。」
「何ですと!?」
グーダルザが声を上げて目を見開くが、出席者一同も同様の反応に、この話し
が今初めて持ち出されたのだと、ゾーミルガも察した。
「その者は判明しておるのかよ。」
アーリゲルが興味深げに目を細め、続きを促した。
「その前に、幾らかの過去を事前に知っておいてもらう。」
マールリザンシュの言葉に、一同は無言のまま頷いたり、そのまま促す様に動
かない者もいた。マールリザンシュはそれを同意と捉え話しを続ける。
「祖ロードアルイバが如何にして此の地の存在を知ったかは不明だ。それつい
ての情報は何処にも残っていないのだから。ただ、その所在は後世に残されて
いる、口伝としてな。」
マールリザンシュは一旦言葉を置く。一同が無言で待つなか、話しを続ける。
「ペンスシャフル国で知った存在と同等のものを、此の地に見つけたからこそ、
ロードアルイバは祖となった。何故なら、ペンスシャフル国では王に成れぬと
悟ったからだ。」
マールリザンシュは一呼吸おいて続ける。
「ただ、現住の人間は小さな村が点在するだけの地だった。東のペンスシャフ
ル国、南のバノッバネフ皇国は既に大国として存在したため、ロードアルイバ
は国起こしから始めた。」
遠い目をしながら語るマールリザンシュの言葉を、一同は沈黙で見守った。
「国興しの話しは手記にあるから省くが、オーレンフィネアの発展とは別に、
歴史は口伝として繋げられた。だがそれは時間と共に、何時しか単なる昔話に
なった。これが法皇国の現状だ。」
マールリザンシュは一呼吸付く。
「それはロードアルイバの手記にも記載されておらぬ。それこそ絵空事ではな
いかよ。」
アーリゲルが疑念の眼差しを向ける。マールリザンシュは自嘲するように微笑
を浮かべた。
「そう思われても仕方がない。ただ、ロードアルイバの口伝は歴史と彼の存在
に別たれた。実際にその口伝がなければ、私とて絵空事と思っても不思議では
ないのだから。そう思っていないのは、歴史の口伝を継ぐ直系が私の家系だか
らだ。」
「まさか!」
セーラミルの声を筆頭に、円卓の上にざわめきが広がり、視線と共にマールリ
ザンシュに対する各々の興味が更に高まる。
「つまり、マールリザンシュ卿はもう一人の直系をご存知なのですね?」
セーラミルの問いに、マールリザンシュはゆっくりと頷いた。やはり、とセー
ラミルは小さく呟く。
「つまり、その口伝が信憑性の元と言いたいわけですな。」
続くゾーミルガの言葉にもマールリザンシュは頷く。
「で、そのもう一人は誰かよ?」
勿体つけず早く言えとばかりに、アーリゲルが苛立たしげに急かした。
「それは、この状況を先読みし、二十年前に中央をひっそりと離れ、郊外に居
を移した穏健派の枢機卿がそうだ。」
先程より一層大きなざわめきが円卓の上を埋め尽くした。
「カーダリア枢機卿・・・」
ゾーミルガの漏らした名前に一同は頷くが、穏健派だったゾーミルガが複雑な
気分に顔を顰めたのには、誰も気付かなかった。マールリザンシュを除いて。
「その口伝が本当であれば、先程ペンスシャフル国の在処への道程を問うたの
は何故ですか?」
ゾーミルガは口伝があり、手記もあり信じているのであれば、何故マールリザ
ンシュは、グーダルザに聞いたのかと疑問が浮かんだ。
「おのれは阿呆かよ。建国時と現在では地理が違う。現代での道程を問うたの
じゃろうよ。」
アーリゲルの冷めた視線を、ゾーミルガは睨み返す。
「剣聖の館の下、とは言ったが館から地下へは繋がっておらぬ。城郭の外、つ
まり市街地より地下で繋がっていると、手記にはある。」
それを無視してグーダルザが説明をした。
「五百年近い昔の手記だ。当時と地形や建物も違うから、探すのに時間が掛か
っていたが、それらしい場所を見つけたので確認したところだ。口伝と手記を
信じていようとも、実際に現地の報告が最終的に物を言う。」
マールリザンシュが説明を継いだ。
「成程、やっと得心がいきました。」
ゾーミルガの言葉に、マールリザンシュが頷く。
「後は、カーダリア枢機卿か・・・」
グーダルザが漏らした気が重い言葉に、その重さを各々が分かっている様に返
す者は居なかった。



2.「繋げるのは存在のみだ、何故なら紡ぐのは人なのだから」

昨夜のうちに仕上げた、麻酔の薬莢二十発はカウンターの鍵付き扉の中へ仕舞
った。注文票と一緒に入れてあるので、私が居なくてもリュティが販売出来る
ようにしておく。
「売る時に専門的な事を聞かれたり、別の受注を依頼されたら面倒ね。」
私が説明しながら仕舞っていると、リュティがそう言ってきた。
「それはしょうがないわね。居れば私が対応出来るけど。どうしても外せない
場合はこれから出て来るでしょうし。納品日は指定するから、なるべく居るよ
うにはするけどね。」
呪紋式の知識はあるが、小銃に関しては詳しくないリュティにとって、薬莢の
事や銃の事を聞かれると戸惑うようだ。

殺風景なザイランから送られて来る封筒は、何時見ても陰鬱な気分になる。司
法裁院からの危険人物特別措置依頼は開封前からそんな気分だ。以前はそんな
に感じなかったが、何時からだろう。
開封して中身を確認する。
「詐欺、ねぇ。」
最初に目に入った罪歴に、違和感を感じて呟く。今までの依頼はもっと酷い内
容ばかりだったからだ。むしろ初めて見た、多分。それは私が、であってザイ
ランの所には来ていたのかも知れないけれど。
アロンダ・バッツィウ三十八歳、女。収監歴二回。
詐欺の常習で二回?警察局にでも任せればいいじゃん、司法裁院が出てくる程
か。そんな事を内心ぼやきながら続きを確認する。
殺害数十四人。
十四人!?ああ、結局こういう話しなのね、そりゃそうか司法裁院からの依頼
だものね。私の考えが温かったわ。しかし、詐欺で殺すにしても多すぎやしな
いか。
最初の犯行は結婚後、夫の保険金目当てで事故に見せかけて殺害。保険金が支
払われると夫の連れ子だった八歳の長女と六歳の長男を毒殺後、夫の自宅の庭
に遺棄。
半年後、別の男性と結婚するも同様の手口で保険金を手に入れると、連れ子の
二人も殺害。マンションだったためか、死体をばらしてごみとして遺棄。三回
目の犯行後、連れ子を殺害して引っ越す際に犯行が割れ逮捕、収監。出所後、
三ヶ月で結婚。
(何で結婚出来るんだ?)
いろいろ警戒されたりとかしないのだろうか。
観察中もあり良好な結婚生活送りつつ、適当な男を見つけては金品を巻き上げ、
搾取出来なくなると殺害を繰り返した。六人目を殺害後、出所から一年で再逮
捕。
うげっ。悪女ね。ってか一年で六人!?ある種の才能よねこれって、悪い方の
だけど。
毎回思うのだけど、何で出てこられるんだ。自分で出して自分で始末依頼とか、
司法裁院は馬鹿なの。
いや、もしかすると逆の発想?始末するために出していると考えると、司法裁
院の依頼にも辻褄が合うのか?なんか恐ろしいから、この件については考える
の止めよう。
二ヶ月前に出所後、新しい男性と同棲中。またか。
同棲中の男性が出張で不在の間に始末しろという内容だった。一応、巻き込ま
ない事に安堵して日付を確認する。明日から一泊で出張。
馬鹿か。
やっぱり馬鹿なのね。
とりあえず依頼書は床に叩きつけておく。もう少しなんとかならないのかしら。
明日限定じゃない、これ。
はぁ、気分転換にマリノ行ってティータイムにしよう。
依頼書を踏みつけてから、私は店内に戻るとリュティを連れて、向かいのカフ
ェ・マリノに移動した。お店の入り口には休憩中の札。
「また嫌な依頼?」
テラス席でケーキセットを頼んだ私にリュティが聞いて来る。
「嫌じゃない依頼なんてないわ。」
「止めたら?」
私が嘆息混じりにこぼした言葉に、リュティの言うことももっともなのだけど、
それは出来ない。この業から逃げる事は。
その時お店の前を、中を覗きながらうろうろしている男が目に入った。お客さ
んなのだろうか。
無視。
そこで注文したケーキセットが運ばれてくる。今日はダージリンとレアチーズ
ケーキのセットだ。早速紅茶に口を付け、フォークでレアチーズケーキを一口
大に切り取ると口に運ぶ。美味しい。
「ああ!あんた!」
そんな私を指差しながら、お店の前をうろうろしていた男が大股で歩み寄って
来る。私はフォークを咥えたまま、胡乱気な視線を男に向けた。ケーキの味が
台無し。
「客が来てるのに目の前でティータイムかぁ!?」
柄が悪い。テラス席は失敗だったわ。
「休憩中って札、見えないの?」
「いや、見えてるけどよ。」
私の冷めた視線に男が若干弱気になった。あれ、そういえば見たことある気が
するな、この男。
「何時終わるんだ、その休憩とやらは。」
「私の気が済んだら。」
「あの・・・」
間髪入れずに言った私の態度に、男は次の句が継げずに口ごもる。
リュティが聞こうかと視線を送ってくるが、私は小さく横に首を振って相手を
しなくていいわよ、と伝える。
「薬莢の依頼したいだけなんだが、前と同じやつ。」
めげずに男は話しかけてくる、態度は弱気になっているが。ああ、そう言えば
思い出した。ヒリルが初めてお店を訪ねて来た時に来てたわ。
「ぎりぎり思い出したわ。」
「ぎりぎりかよ。」
男の突っ込みに、私が睨むと男は少し後退る。
「突っ込まれる筋合いはないわよ。」
「すいません。」
私の言葉に男はそう言ったが顔は不満そうだ。私は紅茶を一口飲むと、男に向
き直る。
「受注票と控え渡すから、今すぐは受けられないわ。せめてお茶が終わるまで
待つか、後日がいいのだけど。」
男は一瞬呆気に取られると、不満顔のままカフェ・マリノの店内へ入って行っ
た。お、待つ気らしい。
「八つ当たりはよくないわ。」
男の姿を見送ると、リュティが私に言ってきた。
「うっさい。」
ええそうよ、八つ当たりよ、悪かったわね。私だってしようと思っているわけ
じゃない。ただ、心が疲れているから、今はちょっと休憩したいのよ。
「でも、待ってくれるみたいで良かったじゃない。」
「まあ、そうよね。」
微笑んで言ってくるリュティに、同意した。無許可の時に記述したお客さんな
のよね。それでも依頼に来てくれるのは、ありがたい事だわ。
レアチーズケーキを口に入れたところで、男がアイス珈琲を持ち帰り用のカッ
プで持って現れ、隣のテーブルに着いた。私の視界に入るとか、嫌がらせか?
「こっちに来たら。」
あろう事かリュティはその男に声を掛けやがった。私の平穏を壊す気か。
何時も通りのリュティが浮かべる微笑みは男の何かを刺激したらしい。そんな
言葉を掛けられるとは思ってなかったのか、驚きで目を見開いているが、頬に
は若干朱が射している。
まあ、リュティは美人だから、その美人に微笑んで言われたら当然の反応と言
える。
「いえ、ここで大丈夫っす。」
おい。私の時とは随分態度に差があるわね。男は緊張からか少し声が上擦って
いる。
「あらそう。」
リュティがそう言うと、男は顔を反らしてアイス珈琲を一気に啜った。
私はレアチーズケーキの最後の一口を食べ、紅茶も飲み干す。
「ああ、美味しかった。」
「気は済んだかしら?」
「それなりにね。」
リュティの問い掛けに、私は微苦笑で応える。私は立ち上がると、食器を所定
の場所に片付けてから男に近づく。
「残り、お店の中で飲んでてもいいわよ。」
私が男に声を掛けると、待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。
「その、以前はごめんなさい。」
お店に向かいながら私は男に言った。当時は無許可で記述して売ったのだから、
それは謝っておきたかった。
「ん?何の事だ?」
「当時は開店して間もなかったから、薬莢の記述は無許可だったのよ。」
お店の扉を解錠しながら言う。だけど単なる言い訳でしかない、許可取ってか
ら始めるのが当たり前なのだから。
「ああ、別に気にしてねぇよ。許可在ったって悪どい奴もいっぱいいるからな。
その点あんたは、値段も妥当だし仕事も悪かねぇ。許可取ったんなら、尚更良
いことじゃねぇか。」
ああ、こういう奴って憎めないわね。柄は悪いけど。でも今の私は、多少救わ
れた気分だった。
「ありがとう。」
私は上手く出来なかったが、それでも笑顔を作って言った。男はリュティに声
を掛けられた時と近い反応をする。
「べ、別に礼を言われるような事はしてねぇ。」
と、ぶっきらぼうに言った。ああ、リュティに惹かれたのもあるだろうが、基
本的に女性に対しての免疫が少ないんだな。
「ところで、以前受けたのはなんだったかしら?」
顔は思い出したが、記述の内容は覚えていないのよね。
「止血、増血、痛み止めだ。現場で大怪我する奴がたまにいるからな。」
それは薬莢を揃える前に、業務改善が必要なんじゃないかしら。作業手順の見
直しや、安全意識の向上等やれることはいくらでもあるのでは。まあ、私が口
を出す事ではないのだけれど。
ただ、やっぱり受けた内容は思い出せなかった。
「そう。今回も?」
「ああ、そうだ。今回も二セット頼みたい。」
前もそうだったかしら?まあ、依頼されるだけありがたいからいいか。
「一発三万五千だから、合計二十一万ね。」
麻酔の薬莢もそうだが、基本的に作業量は大差ない。医療用に使用される呪紋
式は大きな違いはないから。効果に差があっても、使う薬莢と記述は決まって
いるから金額が違ったりはしない。
「問題ない。」
「納期は三日後ね。」
実際、一日で終わる作業なのだけど、他にもいろいろ立て込んでいるのもあっ
て、少し時間に余裕が欲しい。
「分かった、じゃあ三日後に取りにくるわ。」
男はそういうと笑顔で手を上げて店を出ようとする。
「ちょっと待ってよ。」
「ん?」
こいつは人の話しを聞いていたのか。
「注文票作成して、控えを渡すから。さっき言ったわよね?」
「あ、ああ、そうだったな。」
そうだったなじゃないわよ。すっかり忘れてるじゃないの。私は呆れながら注
文票を作成すると、男に渡した。男が店を出るのを確認してリュティの方を向
く。
「じゃ、これ片付けちゃうから、後頼んでいい?」
「いいわよ。」
リュティの返事を聞いて、私は店の奥に移動した。

夕方、薬莢の記述をしていると、小型端末の音声呼び出しがきた。明日の夜は
仕事があるし、三日後とは言ったが今日中に終わらせたいと思っているのに、
その集中を途切った相手を確認するとザイランだった。無視でいいか。
とはいかないので、しょうがなく応答する。
「どうかした?」
「一応、朗報だ。」
朗報?ザイランから?胡散臭い。
「何よ、朗報って。ザイランからいい話しが出たことなんて無いじゃない。」
「お前なぁ。」
私の態度に、明らかに呆れている声のザイラン。
「弁護士の件、忘れてんじゃないのか?」
・・・
「あ!」
そうだ、頼んでいた。私自身すっかり忘れて探してすらいない。
「あ、じゃないだろ。人に頼んでおいて忘れるとは。」
まったくだ、反論の余地もない。痛い目に遭ったばかりなのに、これじゃ学習
能力が無いみたいじゃないか。
「ごめん。忙しかったのよ。」
ああ、言い訳の常套句が出てしまった。疲れてんのかな、私。
「まあいい。場合によっては引き受けてもいいと言う弁護士が出て来たんだ。
その弁護士が一度会ってみたいと言っててな。」
「え、ほんと?」
願ってもない話しだ。ザイランに頼んでみて良かったわ。
「ああ。それで急なんだが明日空いてないか?」
急過ぎるけど、会うだけなら問題ないわね。司法裁院の無茶振りに比べれば大
した問題ではない。
「大丈夫だけど、夜は無理よ。ザイランがちゃんとあっちの依頼に目を通して
いれば、分かってると思うけど。」
若干嫌味を込めて言っておく。
「分かってる。俺も見て慌てて送ったんだからな。」
「机の上に放置してたんじゃないでしょうね?」
「出来るわけないだろう。」
ま、そりゃそうか。命に関わるものね。そう考えると本当に司法裁院は無理を
押し付けてくるわね。
「話しを戻すが。」
そうだった。阿呆裁院の事はどうでもいい、私に弁護士が協力してくれるかど
うかの瀬戸際だ。
「十三時にこっち来れるか、コートカ駅まで。」
薬莢の受け取りが何時に来るか分からないけれど、渡すだけならリュティでも
大丈夫だし。
「ええ、行けるわ。」
「じゃあ、先方にも伝えておく。駅に着いたら連絡をくれ。」
「分かったわ。」
そこでザイランとの音声通信は終了した。これで弁護士が決まったら嬉しいな。
ここから順調に、王都アーランマルバへの出店に漕ぎ着けられたらいいのに。
私は早速、明日の予定をリュティに話すと、何時も通りの反応だが良かったと
言ってくれた。薬莢の受け渡しも引き受けてくれたし、私は今日受けた仕事を
終わらせて就寝に着いた。

そのお客さんは予想に反して開店直後に来店した。まだ私がお店を出る前だっ
たので、直接受け渡しが出来ることになった。私はカウンターの下にある鍵付
き扉から、麻酔の薬莢を取り出す。
「こちらになります。」
製薬会社のおっちゃんはにこやかに箱を受けとる。
「中身を確認してもよろしいですかな?」
と聞いてくる。
「ええ、どうぞ。」
私も笑顔で応える。おっちゃんは箱を開けて薬莢を一発取り出すと、間近で回
転させながら見入っていた。その表情は先程までの笑顔でなく、厳しい表情を
している。
ちょっと怖い。
あと、恥ずかしい。見られてるのは薬莢だが、描いた本人の目の前でされるの
はね、ちょっと。
おっちゃんは一つ見終わると、十九発全てを取り出した。待て、全部それやら
れると私の時間が。と思ったが残りはさっと眺めただけだった。私が安堵して
いる中、おっちゃんは薬莢を箱に戻して満面の笑みを浮かべる。
「素晴らしい!」
突然の大きな声に私はびっくりした。
「いや失礼。出来の良さについ興奮してしまいまして。」
驚いた私を見ておっちゃんは恐縮しながら言った。
「いえ。それより、出来が良いんですか?」
他の人が記述した薬莢を、私は殆ど見たことがない。というよりは、買っても
気にしたことがない。
「もちろんです。ここまで綺麗に記述されてある呪紋式は初めて見ました。と
言っても私も、呪紋式が記述された薬莢に触れてからの日は浅いのですが。」
頭を掻きながらおっちゃんは言った。
「それは、ありがとうございます。」
私がお礼を言うと、おっちゃんは鞄からお金を出してカウンターに置いた。そ
のお金を数える。
「七十万丁度ですね、ありがとうございました。」
おっちゃんは薬莢を鞄に仕舞うと私を見て、真面目な顔になる。
「ものは相談なのですが。」
「はい。」
真面目な顔で相談とか、値下げしろとかじゃないわよね。
「定期的な契約等は出来ないでしょうか?」
定期的、ねぇ。私に務まるだろうか。何時死ぬとも知れない私は、受けるべき
じゃない気もするのだけれど。ただ、定期的な収入は魅力でもある。
「内容にもよりますけど。他にも仕事がありますし。」
とは言え、展望もあるから死ぬつもりもないし、その思惑があるから定期収入
はとても重要なので受ける方向にする。
「出来れば、毎月五十発はどうでしょう?」
五十か、多いな。毎月この納期に追われるのは、出来れば避けたい。不定期と
はいえ司法裁院の方がまだ割がいい。精神的には最悪な環境だけど。
「もう少し、減りませんか?」
おっちゃんも渋い顔をする。会社だものね、そんな少数で取引なんかしていら
れないでしょう。製薬会社として取引先がどれ程在るのかは分からない。でも
一発二発を卸しているわけではない、そんな中、月五十発は他にも依頼しない
と会社としてはやっていけないだろう。それを数を減らせと言っているのだか
ら、渋い顔をするのも当然と言える。
「こうしませんか。月三十発が確定量で、余裕がある時は多目に納品していた
だく。最小単位は十発。どうでしょう?」
月三十であれば他にも余裕が出来るか。悪くはないが、なんか申し訳ない気も
する。
「それで、いいのであれば。」
「いや、これは有難い。」
おっちゃんは笑顔に戻ると、鞄から一枚の紙片を取り出す。掌程の紙片は名刺
だった。
「ニセイド・ゴーベフと申します、改めて宜しくお願いします。」
「お願いします。」
私は釣られてそう言うと名刺を受けとる。
「月末納品。三日前に数を連絡頂く、でどうでしょう?」
んー、時間が。
「ええ、それで構いません。それと、これから出掛ける用事がありますので、
詳細があれば後日でもいいですか?」
悪いけれど、私の今後が懸っているのでこれ以上の話しは後にしたい。
「これは失礼。では来月からということで、お話しは来月末受け取りに来た時
きでいいですか?」
「はい。」
「では、宜しくお願いします。」
おっちゃんは頭を下げるとお店を出ていった。しかし、なんか調子狂うな。釣
られて口調が変わってしまう。しかし、定期収入は嬉しい。お店の維持費やリ
ュティへの給与等が賄えそうだ。
それより今は、コートカ駅に向かわないと。
「リュティ、後お願いね。」
「行ってらっしゃい。決まるといいわね。」
「そうね。」
私は期待を言葉にして、弁護士に会うためにコートカ駅へ向かった。

十三時少し前にコートカ駅に着くと、既にザイランが待っていた。渋い顔で。
「もう少し早く来れないのか。」
「立て込んでいたのよ。」
ザイランが先導しながら言ってくる。
「もう待たせているんだ。」
「それは申し訳ないけど、こっちはこっちで重要な話しだったのよ。」
言い合いながらザイランに案内されて着いたのは、一軒の喫茶店だった。古い
が趣のある喫茶店の入り口からは、既に珈琲の香りが漂っている。扉の上には
ロアーデルの看板。
店内に入ると、背広を着た会社員が大半で、煙草の煙と臭いが漂っている。私
は吸わないが、別に嫌いというわけではない。吸ったら麦酒同様に常用してし
まう可能性は否めない。
「こっちだ。」
お店の奥に向かうザイランに着いていくと、一番奥に四十歳くらいの中年男性
が座っていた。私とザイランが近づくと、立って一礼してくる。
私も軽く頭を下げ席に着くと、男性は早速名刺を差し出してきた。ハミニス・
アーリングと書かれた名刺を受けとると、私も名乗った。整えられたチャコー
ルグレーの髪に、紳士そうなダークグレーの瞳を携えた顔は穏和な印象を受け
る。
「概ねの事情はザイラン警務から聞いています。」
ハミニスの言葉に話しが早くて助かるわと思い、私は頷いた。
「手痛い出費を被ったとか。」
「ええ。」
本当に。かなりの痛手だったわ。支払い命令受けた瞬間その金額に、あれが茫
然自失と言うのだろう、本当に思考が止まったわ。
「今は許可をお持ちなのですね。」
「持ってるわ。」
ハミニスは頷く。温和な表情だが会話は淡々と進めていく。
「現時点で引き受ける事は出来ません。」
と、きっぱりと断られた。判断早くない?まだ会ってものの数分なのだけど。
「弁護士も商売です。お店の経営状況に薬莢の受注状況。近隣との関係や法に
触れる事案等を考慮せねばなりません。こちらとしても被害を被るのは避けた
いのでね。」
いや、仰る通りで。
「先程申しました通り現時点で、です。状況を見させて頂いて後日、引き受け
るかどうか決めたいと思いますが、如何でしょう?」
もっともな話しよね。会ってみたいってだけの話しだったし、断るにしろ確認
してから判断するというのも、そこまでしてくれるんだって思わされた。それ
が当たり前なのかも知れないが。
「構わないわ。」
調べられて困るのは司法裁院くらいのものだけど、終われば処分しているし、
住居区域に保管してある。
「伝票等は管理されていますか?」
「アクセサリーは在る物販売だから、金品の授受だけよ。薬莢に関しては資格
を取ってからは全部残してあるわ。」
アクセサリーは手作り品だし、交換って感じがするけど、薬莢に関しては記録
しておかないと、呪紋式の種類や薬莢の数、納期等が不明になるから。支払命
令を受けてからは尚更意識して残している。
「装飾品での問題はそれほどありません。お互いで解決する事も多いですし。
それ程高額な物でなければ無くても問題ないかと思います。薬莢については法
律が細かくて多く、境界も難しいため無いと厳しい状況になる事が殆どです。
管理状態や経営状態も含め、一度店舗に伺いたいのですが。」
断る結果になったとして、そこまでやってもらえるのか。やっただけ損じゃな
いのだろうか。例えば断られたとしても、理由については説明してくれる気が
する。私にとっては次の糧に出来るから、儲けになるからいいのだけど。
「私は全然構わないわ。でもそれって、あなただけ損じゃないの?」
私の質問にハミニスは一瞬戸惑うが、すぐに苦笑を浮かべた。私は何か変な事
を言ったかな。
「確かに、労力の割には実入りが無いので損に見えるかも知れません。ただ、
ここを怠ると予期せぬ結果が起きる可能性が高まります。つまりリスクの方が
高く付くのです。この労力は後の安全に対する先行投資みたいなものですね。」
成程。ハミニスの説明に私は納得した。
「普通は自分の心配をするものですが、こちらの心配をする質問というのは珍
しかったです。」
続けたハミニスの言葉に、先程の苦笑の意味が分かった。
「お店の確認は何時でも問題ないわ。ただ、一週間先くらいに数日間閉める事
になっているから、それさえ避けてもらえば。」
ウェレスの件があるので、そこだけは避けてもらわなければならない。
「分かりました。連絡先を教えて頂ければ、伺う候補を幾つか送りますが。」
小型端末での文書通信ね。仕事の合間に見てもらうのだから、向こうの都合に
合わせるのも当然よね。
「それとも、ザイラン警務を通しましょうか?」
「俺は紹介だけだから関係ないだろう。」
私が考えていると、ハミニスが別の提案を口にする。だがそれまで黙って聞い
ていたザイランが不満気に拒否した。
「最後まで面倒を見るのが紹介だと思いますが?」
が、ザイランはハミニスにそう言われ顔を顰める。
「ザイランはいいから、直接連絡出来るのならその方が早いわ。」
顰めっつらのザイランは放って置いて、ハミニスに連絡先を教えること承諾し
た。
「いや、この場を取り付けた俺をどうでもいい様に言うな。」
構って欲しいのかしら、このおっさんは。面倒くさいわね。
「さっき関係ないって言ったのは誰よ。」
私が半眼を向けて言うと、ザイランは不貞腐れたように顔を反らした。本当、
何時にも増して面倒。
私はハミニス弁護士と連絡先を交換すると、ロアーデルを後にした。ザイラン
は別件で話しがあると言って、ハミニス弁護士と一緒に残った。
進展が見込めるか現段階では何とも言えない。ただ少しは前に進めた気がする。
取り敢えずハミニス弁護士の判断を聞くまでは、弁護士の件はおいておこう。
別で探すというのも悪い気がするし、判断を仰いでからの方が次に繋がる方向
性も分かってくると思うし。
(弁護士の件はこれでひとまず置くとして、後は今夜ね。)
あっさり終わった面会の所為で、出掛けた事に対しての不燃感はあるが、特に
やることも無いので真っ直ぐお店に帰る事にした。



喫茶店アリア。懐かしいお店を目の前にして、感慨に耽りはしないので、さっ
さとお店に入る。二十二時を過ぎても営業している店内には客が居ない。
何時もの服装、と言っても司法裁院の仕事用なので全身黒いのだが。腰の小銃
雪華は目立つからジャケットの内ポケットに差してある。
「おや、お久しぶりですね。」
適当な席に着いた私に、水を運んで来たマスターが言った。その言葉に驚きを
隠せない。何故なら店舗探しと準備に四ヶ月、店舗が決まってからロンカット
商業地区に引っ越して、店内改装と開店準備に二ヶ月。そして開店してから五
ヶ月程だから、半年以上来ていない。ロンカット商業地区に引っ越してからは
一度も来ていないのだから。
アスカイル住宅街に住んでいた時も頻繁に訪れたわけじゃない、むしろ数える
程だ。そんな私を覚えているの?この服装で来たこともないのに。
「覚えているの?」
内心で思った疑問を、口にも出して聞いてみる。
「はい。紅茶がお好きですよね。美味しそうに飲んでいらしたのを覚えていま
す。」
凄い記憶力ね、紅茶を飲んでいる事まで覚えているなんて。私には無理。
「そんなに来たことないのに。」
「こういう場所に在る店です。来る人も限られるのですよ。」
私の言葉にマスターは苦笑して言った。いくらそうだとしても、覚えているの
は一種の才能ではないかと思う。
「何にしますか?」
「ダージリンとケーキ、何にしよう。」
「本日はショコラオランジェがおすすめですよ。」
メニューを見ながら考えている私に、マスターがおすすめを言ってきた。折角
なのでおすすめにしよう。
「じゃ、それ。」
「畏まりました。」
アスカイル住宅街はロンカット商業地区からそれほど離れていない。電車で二
十分程なので走ってもそれほどの時間は掛からない。今夜の目標であるアロン
ダ・バッツィウがこの先に住んでいる。私が住んで居たのは、駅から十分程の
ところだが、そこから更に十分程遠ざかるとここアリアがある。更に五分程、
駅からなら二十五分と結構離れた所に、アロンダは居るらしい。
その目的地に向かうついでに、久々にアリアに寄ってみた。本当はこの服装で
寄ろうか悩んだのだけど、好きなものには勝てないわ。
しかし、マスターの記憶力の良さは盲点だったわ。もし見られる事があったら
きっと、私だってすぐ気付かれそう。服装変えるか?いや、きっとマスターに
は服を変えようと関係ないわね。
「お待たせしました。ごゆっくり。」
注文したものを置きながらマスターは言って、またカウンターの奥に戻ってい
った。ショコラオランジェは下層のチョコレートケーキと上層のチョコレート
ムースの間に、オレンジピールのジュレが入っていて美味しかった。濃いめの
チョコレートの味に、爽やかなダージリンが心地いい。

久しぶりのアリアを堪能した私は、お店を出て暗がりに行くと紅月を抜く。雪
華はジャケットの内ポケットから腰に戻した。抜いた紅月にリュティから渡さ
れた呪紋式を記述した薬莢を籠める。
複雑な気分だが試しておく価値はある。来週、王都アーランマルバできっと使
う事になるだろうから、試すには丁度いい。不完全だと言われた私の記述とど
れ程違うのか。その記憶に対する私の忌避がどれくらいなのか。きっとそれが
分かってしまう。そう思うと、使う事に畏れを感じた。
(だけど、もう立ち止まれない。)
私は自分に向けて、紅月の引き金を引いた。白光の呪紋式が一瞬浮かびあがり、
消えていく。目的地に向かって走り出した私は直ぐにその効果を実感した。身
体がかなり軽い。
(というか、慣れないと身体への負担が大きいわね、これ。)
同時に不完全と言われた事を思い知らされ、顔を顰めた。それは自分の未熟さ
と、刻まれた記憶への忌避とない交ぜとなって。

目的地に着いた私は、アロンダ・バッツィウの居る建物を見上げる。三階建て
の住宅で、古くさい木造の建物だった。アロンダは三階の一番奥に住んでいる
と依頼書には書いてあり、目を向けるとカーテン越しに灯りが漏れている。情
報に間違いが無ければ在宅しているのだろう。
私は階段を上り、普通に廊下を歩いて一番奥の部屋の前まで来る。気配は二人。
(同棲相手は出張じゃなかったの!?)
阿呆裁院め、また適当な情報寄越したんじゃないでしょうね。情報と言えば、
アロンダの事だから相手が同棲相手とは限らない事を思い出す。どっちにしろ、
指定日は今日なのだから遂行するだけ、相手の不運を気にしている余裕なんか
ない。そんな事を考えていると、扉の隙間から情事の声が漏れ聞こえて来る。
油断しているなら丁度いいわ、私は扉の取っ手に手を掛けると回してみる。鍵
は掛かっていない。
(不用心というかただの馬鹿ね。)
観察されている身なら、少しは警戒するでしょうに。
私は扉を開けると静かに入って音が鳴らないように扉を閉める。声は絶え間無
く続いているから、気付かれてはいないだろう。玄関に入ると直ぐ横手に台所
があり、小さいダイニングスペースの先に引き戸。声はその先から聞こえて来
る。
私は引き戸に近づくと一気に引き開けた。寝台の上に居た裸体の男女の二対の
瞳が驚きに見開き、私に向けられる。
「なんだてめぇは!?」
「誰よあんた!?」
二人同時に誰何の怒声を私に向ける。仰向けになった男の下半身に跨がってい
る女は、司法裁院の依頼書にあった写真と一致、間違いなくアロンダだ。男の
方はきっと資料に在ったような、アロンダの獲物なのだろう。前歴の結婚生活
をしながら、他の男を金づるにして殺害していたのなら、今の同棲相手が出張
中に他の男を引き込んでも不思議ではない。
まあ、同棲相手の写真は無かったから、この男がそうでないという確証は無い
が。依頼書の内容を考えれば、やはり獲物じゃないかと思ってしまう。
私は誰何の声を無視して、腰から雪華を抜くと薬莢を籠める。二人はこちらを
見ずに睨み合っていた。
「あんたの女じゃないの!?」
「こんな女知らねぇよ!」
「じゃあ誰なのよ!」
「俺が知るわけねぇだろ!お前の男の女じゃねぇのか!?」
「そんな女いるわけないでしょ!」
怒鳴り合うアロンダと男。勝手にやっていればいい。私は雪華を男に向けると、
赫怒の瞳は恐怖へ一変する。アロンダは慌てて寝台の奥へと、股の間から白濁
とした体液を垂れ流しながら後退さった。
知ったことでは無いので、躊躇なく雪華の引き金を引く。男の上に白光の呪紋
式が浮かび、麻酔の効果が発動する。
「な、なんなのよ、あんた!?」
涙目になりながらアロンダは叫ぶ、恐怖に顔を歪めながら。だが答えてやる義
理はない。私はアロンダに手が届く距離まで近付くと、叫んでいる内容が今や
意味不明になっている頭を、<六華式拳闘術・華流閃>で斬り離した。アロンダ
の首は血と涙の尾を引きながら宙に浮くと、重力に引かれて直ぐに寝台の上に
転がった。頭を失った首からは噴水のように血が吹き出し、部屋を赤黒く染め
ていく。
男の方を見ると、麻酔が効いたようで動かなくなっていた。私の勝手だけど、
寝ている間にと思った。単なる自己満足に辟易しながらも、寝ている男の首を
同じくを<華流閃>で切断した。
そのまま静かに部屋を出ると急いで帰路につく。部屋から漏れる灯りが赤いか
ら、直ぐに誰かが通報するだろう。そう思ったとき何で電気を消さなかったの
かと、自分の間抜けさを後悔した。



「今朝は天気が悪いね。」
窓際に立ち、王都アーランマルバの街並みを見ながらリンハイアは言った。何
処か憂鬱そうな表情をしながら。
「はい。予報では数日続くようです。」
アリータはリンハイアの言葉に、業務的に返事をする。リンハイアはアリータ
に向き直り微苦笑を浮かべた。
「天気が悪いのは苦手なんだ。未来を暗示しているかの様で、私の考えが曇っ
ているかのようで。」
机まで移動して、椅子に座りながらリンハイアは言った。アリータにとっては
考えの及ばない範囲なので、その言葉に何かを言う事は出来なかった。代わり
に別の事を伝える。
「昨夜に来た、ユリファラからの定期報告ですが。」
言ってはみたが話しを途切ってしまったのではないかと、アリータはリンハイ
アの様子をうかがったが、何時もの微笑で続きを促している。そんな我を通す
人ではないと、分かっている事だったとアリータは多少後悔する。
「カーダリア枢機卿に動く気配は無いようですが、推進派のグーダルザ卿がボ
ルフォンに入り接触する動きが見られます。」
「始まったか。」
アリータの報告に微笑を消すと、リンハイアはそれだけ呟き続きを促す。
「推進派に鞍替えしても日和見をしていた、ゾーミルガ卿もボルフォン入りに
動いているようです。」
「だろうね。」
推進派に法皇国オーレンフィネアの歴史の語り部が居たと言う事だろうう、推
進派が動いたという事は。とすれば気弱なゾーミルガ卿が流されても不思議で
はない。以前、カーダリア枢機卿から聞いた話から、リンハイアは考えていた。
「推進派がカーダリア枢機卿を、本気で取り込みに動き出したのでしょうか?」
「そうなるね。」
リンハイアはアリータの疑問を肯定する。
「だがカーダリア枢機卿は、動きはしない。殺されても決して。」
はっきりと言い切った理由をリンハイアに聞きたかったが、普段あまり見せな
い真剣な眼差しにアリータは聞く事が出来なかった。
「ユリファラには申し訳ないが、事の顛末を見届けるまでは法皇国オーレンフ
ィネアに滞在するよう伝えてくれないか。」
事の顛末、と言う事は何か起きるのだろうとアリータは思ったが、それ以上の
事は考えもつかなかった。
「分かりました。」
ユリファラならば問題ないだろうと、アリータは思い返事をすると、報告を続
ける。
「ペンスシャフル国に滞在中の、イリガートからも連絡が来ております。」
「オーレンフィネアの件だね。」
アリータは一瞬驚いて目を大きくするが、相手がリンハイアであること考えれ
ば愚行だと思い、止まっていた口を動かす。
「はい。最近、城郭の外にある市街地での動きが目立つと。」
ただ、何故ペンスシャフル国と言っただけなのに、オーレンフィネアの事だと
分かったのか、気にはなったが予想もつかなかったで、報告を続けた。
「彼はすっかりペンスシャフル国の人になってしまったようだよ。」
アリータの報告にリンハイアは苦笑して言った。ここ二年程ペンスシャフル国
に行ったまま戻って来ない、イリガート・メッセルに対する皮肉だとアリータ
は思った。不定期ではあるが、執務諜員の集会にも出席せず、主の召集にも応
じない。アリータにとってはユリファラ同様に、自分本位で行動する不快な存
在だった。
おそらくオーレンフィネアの人間は、秘密裏に動いているだろうから見分けが
難しいだろう。イリガートは現地に居着いているからこそ、日常と非日常の見
分けがついた。
そういう意味でリンハイアは言ったのだが、アリータの眉間に皺が寄るのを見
ると伝わっていない事を察した。言い方が遠回し過ぎたかと思いつつも、訂正
する気は無かった。
「イリガートは何処の国の人間で誰が主か忘れてしまったんじゃないですか。」
若干剣の混じったアリータの物言いに、リンハイアはまた苦笑する。イリガー
トの所在に話しが及んだ時点で、ペンスシャフル国からオーレンフィネアに繋
がったリンハイアへの疑問が、アリータの中からは消え去っていた。
「イリガートにもオーレンフィネアの動向は注視するよう伝えてくれ。」
「分かりました。」
アリータの返事を聞くと、リンハイアは水差しからグラスに水を注ぐと口の中
を湿らせた。背もたれに背を預けて視線を中空へと泳がせる。
(カーダリア卿は、随分と重たいものを持たせてくれたものだ。)
内心で呟いたリンハイアの重責に呼応したように、執政統括の部屋の空気も重
くなったような気がした。
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