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2巻
2-8
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「さて、どうでしょう。ご想像にお任せしますわ」
微笑みながらそう言うと、ディオス様は一瞬目を丸くしたあと、ニッと人好きのする笑みを浮かべて言いました。
「あー、その笑顔。やっぱりいいっすね、スカーレットさん。あの時は冗談のつもりだったけど、どうっすか? 俺と付き合ってみないっすか? いまフリーなんすよね?」
またですか。まったく、人の気持ちも考えずに。あまりにしつこいと、温厚な私も流石に怒りますよ?
「お断りしますと、以前にもお伝えしたはずですが」
「えー、もうちょっとチャンスくださいよ。お試しで一週間だけでもどうっすか?」
「一週間程度で、貴方のマイナス評価がプラスに変わるとでもお思いですか?」
「一週間ありゃ十分! 俺のかっこいいところをバシーンとお嬢さんに見せてやりますよ! そうすりゃメロメロになること間違いなしっす! だから、ね? いいっしょ? ね? ね?」
本当にしつこいですわね。口で言ってわからないなら、拳で伝えるしかありませんか。
「っと、その手は食わないっすよ」
私が拳を突き出そうとした途端、また以前と同じようにディオス様が飛びすさりました。
しかし、残念でしたね。その反応は想定ずみです。
「──風よ、疾く出で吹き荒れよ」
「へ?」
突き出した拳──ではなく、私の手の平から突風が吹き出て、ディオス様を遥か彼方に吹き飛ばします。
「なああああああ!?」
「ご機嫌よう、ディオス様。生まれる前からやり直してくださいませ」
猛烈な勢いで山の麓のほうに飛んでいったディオス様は、どんどん小さくなって、やがて私の視界から綺麗さっぱり消え失せました。
はー、スッキリした。
「……なんというか、本当に容赦がないな、貴女は」
飛んでいったディオス様を憐れむような目で見ていたジュリアス様が、ぼそりとつぶやきます。
他人事のように言っていますけど、貴方もやりすぎたらこうなりますのよ。
きちんと覚えていてくださいな、ジュリアス様。
「さあみなさま、先を急ぎましょう。浄化の大聖石はすぐそこですわ」
それから二時間ほど歩いたでしょうか。
私達は浄化の大聖石がある、山頂付近に到着しました。
穢れが溜まり、効力が弱まっているとはいえ、結界の周囲には神聖な気配が満ちています。けれどその中に交じって感じられる、禍々しい気配。
穢れが溜まった浄化の大聖石は瘴気を発し、近づく者を瞬時に死にいたらしめます。
「これより聖女様の禊を行う。聖女守護騎士団の面々は、禊が終わるまで周辺の警戒を」
「承知いたしました」
お兄様の指示で、守護騎士団の方々が周辺に散っていきます。
禊とは、聖女様が浄化の儀の前に行う、身を清める儀式ですね。儀式用の聖衣に着替え、その上から聖水を被ります。
肌寒いこの時季だと、風邪を引いてしまわないか心配ですが。
「スカーレット、お前もこちらに来るのだ。禊の邪魔になる」
そう言って手を引いてくるお兄様に、私は頭を横に振ります。
ジュリアス様に目配せをすると、あの腹黒王子はにやにやしながらうなずきました。
私がディアナ聖教とどのような関わりを持っているのか、そのすべての真相を話していいということでしょう。
まったく、こんなギリギリのタイミングでお兄様にお話しすることになるなんて……すべての責任はジュリアス様にあります。私はずっと、前もって話しておいたほうがいいと言っていましたからね。
お兄様のお顔に視線を戻し、ゆっくりと口を開きます。
「その必要はありませんよ。だって──私が本当の聖女なのですから」
「…………は?」
呆然とするお兄様の前で、ディアナ様が私に向かってひざまずきます。
「聖女スカーレット様、禊のお手伝いをさせていただきます」
「よろしくお願いします」
話についていけないお兄様が、目をつむり、顔を両手で覆って天を仰ぎます。
「ああ……また妹を中心に、なにかおかしな事態が起こっております。父上、母上──!」
そのお兄様の反応を見たジュリアス様が、こらえきれないといった風に噴き出しました。
この瞬間のために、いままでお兄様に隠していたわけですよね……本当、性格が悪いにもほどがありますわ。
「……で、これは一体どういうことなのか説明してもらえるのだろうな、妹よ」
「……文字通りの意味ですわ。私こそが本当の聖女です」
うんざりとしながら答える私に、お兄様が眉間に思い切り皺を寄せて続けます。
「そんなわけあるか。私は去年、ディアナ様ご本人が浄化の儀を行っているところをこの目で見ているのだぞ」
「お兄様が見たのは、要人に公開される〝表向きの儀〟です。あれは基本的にすべてディアナ様が執り行っておりますからね。事情を知らない方が見たら、そう思って当然でしょう」
疑問符を頭に浮かべるお兄様に、ディアナ様が立ち上がって言いました。
「レオ様、私は聖女は聖女なのだけど、代わりのきく〝副聖女〟なの」
「副、聖女……?」
聖地巡礼にて執り行われる浄化の儀には、大まかに分けてふたつの儀式が存在します。
ひとつが、浄化の大聖石に溜まった穢れを清めること。
そしてもうひとつが、四つの大聖石をつないで結界を張ること。
表向きには、その両方を聖女ディアナが一人で行うことになっていますが、ディアナの名を継ぐ方ができるのは、実際のところ結界を張ることのみ。
大聖石の穢れを清められるのは、私のような時を操る力を持った人間でした。大聖石の穢れを、時間を巻き戻してなかったことにするのです。
「聖女とはもともと二人一組だったのですよ。歴代の聖女ディアナに加護を与えた〝忘れ去られた古の神〟とは、実は時の神クロノワ様のことなのです」
腕を組み、険しい顔で静かに私の話を聞いているお兄様に、ディアナ様が続きを語ります。
「副聖女である歴代のディアナの力は、強力な結界を張ることだけ。だから、結界を張ることができる者をたくさん集めればなんとか替えがきくわ。けれど本当の聖女様が持っていた時を巻き戻す加護は、その時代に二人といない稀有な力だった。だから、周辺の国家に知られないように、ずっとパリスタン王家が隠してきたんだって」
現代に伝わっている聖女伝説は、歴代の国王が真実を隠して広めたもので、その事実を知っているのは王家とそれに関わる一握りの方だけです。
「……このことを父上と母上は」
「当然、ご存じですわ」
私が即答すると、お兄様はよりいっそう深く眉間に皺を寄せて左右に頭を振ります。
「なんという……そんなことがありえるのか? いや、しかし、そうだとするならばすべてに納得がいく……〝狂犬姫〟と呼ばれていたお前がカイル様の婚約者に選ばれたことも……ジュリアス様や国王陛下がお前とのつながりを持ち続けようとしていることも……」
そうでしょうね。だって、私がこの国を見捨てていなくなったりしたら、パリスタン王国は再び、魔物の恐怖に怯えることになるでしょうから。
「というわけで、お兄様もこのことはくれぐれも他言無用でお願いいたします」
「当然だ。こんな歴史がひっくり返るような事実、話せるわけがない。それに──」
疲れた顔をしてため息をつきながらも、お兄様が私を見つめて言いました。
「大切な妹であるお前の身が危険に晒されるようなことを、この私がするわけなかろう」
「お兄様……」
呆れながらも私を肯定してくれるお兄様を見ていると、胸に温かな感情が広がっていくのを感じました。
「よかったな、レオ。これで私が知る限り妹に秘密はなにもないぞ。これからは安心して家族の時間を過ごせるな。ククッ」
ジュリアス様が笑いをこらえながらお兄様の肩を叩きます。
なに笑ってるんですか。お兄様にここまで心配をかけたのは、すべて貴方のせいですからね。反省してください。
「さあ、禊の準備をしますのでお兄様もあちらへ」
「わかった。いまのところ周囲の安全は確保されているが、気をつけるんだぞ。またパルミア教の襲撃がないとも限らないからな」
そう言ってくれたお兄様にうなずいて、着替え用に設置された簡易テントに向かいます。
さて、それでは聖衣に着替えて禊の準備をするとしましょうか。
「禊の準備、整いました」
テントの中で青いラインが入った聖衣を着た私は、再び大聖石の前に戻ってきました。
私が纏っているシルクにも似た肌触りの聖衣は、古代級の魔道具です。
聖水を浴びて禊を終えた私は、こちらを見守るように控えている巡礼の一行のみなさまに深々と礼をしました。
「では、これより浄化の儀〝真伝〟を始めます」
浄化の儀〝真伝〟とは、穢れた大聖石の時間を私の加護で巻き戻して、もと通りの綺麗な状態にすることを指します。
振り返れば、五メートルほどの大聖石は、溜まった穢れにより真っ黒に変色していました。
この様子では、もってあと半年といったところでしょうか。
「聖衣よ、穢れをしりぞけたまえ」
魔道具〝聖衣〟を起動させます。服の布に編み込まれた魔法式が青い光を放ち、強力な浄化の力が溢れ出しました。この聖衣をまとえば、穢れた大聖石の悪影響を防ぐことができるのです。
効果が発揮されるのはわずかな間だけですが──私にとってはそれで十分。
「──〝遡れ〟」
大聖石に両手で触れて、遡行の加護を発動させました。
手の平から青い光が漏れ、触れた場所から大聖石の黒い瘴気が消えていきます。
「なんという神秘的な光景か……」
「お姉様……素敵……」
守護騎士団の方々とディアナ様の称賛をくすぐったく感じながらも、意識を乱さないように儀式に集中します。
そして、二分後。大聖石全体が澄んだ青白い色に戻ったのを確認した私は、そっと両手を離しました。これにて浄化の儀〝真伝〟、完了でございます。
「お疲れ様ね、お姉様っ。お着替え手伝うわ。ほら、男の人達は向こうに行って!」
再びテントの中に入り聖衣からドレスに着替えながら、ふとパルミア教の方々のことを考えます。
もし彼らの思惑通りにディアナ聖教が廃教になったとしたら、大聖石と結界の管理はどうするおつもりなのでしょうか。まさかなにも考えていないということはありませんよね?
ただ自分達の利権のためだけにディアナ聖教を潰そうとしているのなら、それはこの国を滅ぼそうとしていることと同義でしょう。
ゴドウィン様といい、パルミア教といい、愚かな悪人がお金や権力を持つと、本当にろくなことになりませんわね。まったく。
「はい、お着替え終わり……って、どうしたのお姉様。難しそうな顔をして。も、もしかしてなにか私の段取りに不手際でもあった!?」
慌て出すディアナ様に微笑みかけ、大丈夫ですよと落ち着かせます。
とりあえずパルミア教への対処に関しては保留としておきましょう。
いまのところは特になにか妨害をされることもなく、聖地巡礼は滞りなく進んでおりますし。
手出しをしてきたら、その時は真正面から叩き潰せばいいだけですしね。
「あーあ、私の浄化の儀もお姉様に見せたかったなぁ。今日のためにたくさん練習したのに」
唇をとがらせて不満そうにぼやくディアナ様を、よしよしと撫でてあげます。
ディアナ様の出番である、結界を張り直す浄化の儀〝本伝〟は、四ヶ所すべての大聖石を浄化したあとに行われるので、彼女がこの場ですべきことはなにもありません。
ですがいつもは部外者の方にも一般公開しているので、彼女が大聖石の穢れを払ったというポーズをしていただいています。
ただ、今回はパルミア教の一件があったので、大事を取って一般公開は中止になりました。
「また来年、ですね。楽しみにしていますよ――サーニャ様」
第四章 正直、昂ぶりを抑えられません。
最初の儀式を終えた私達は、東の街メンフィスを出て、次の大聖石がある北の街に向かいました。
東方とは違い、なだらかな平原が続く北方地帯。交通の便がよく、馬の足取りも軽いので、目的地の北の街には四日ほどで到着できるでしょう。
この地方は空気が乾燥していてとにかく気温が低いため、温かい上着を羽織らないと凍えてしまいます。馬車に乗っている間、みなさまも寒そうにしていらっしゃいましたね。
かくいう私も寒いのは苦手だったりします。だって寒さで手の感覚がなくなったら、殴っても楽しくないじゃないですか。
先ほどそう話したら、お兄様は天を仰ぎ、両手で顔を覆っていらっしゃいました。なにか悲しいことでもあったのでしょうか。
そうして馬車は進み続け、夕方を過ぎた頃。北の大聖石に近い街、スノーウィンドに辿り着いた私達は、まっすぐ領主の館へ向かっておりました。
「……?」
「どうした、スカーレット。なにか愉快なものでも見つけたのか?」
「……いえ、なんでもありませんわ。ジュリアス様」
街に入ってから、妙な違和感を覚えます。
それがなにか、はっきりとはわからないのですが……
「なんだ、この街は歓迎の挨拶もないのか」
「おい、滅多なことを言うな。我らは任務でここに来ているのだぞ」
守護騎士団の方々が口々にぼやく声が聞こえてきます。
確かに、ここまで来る途中に立ち寄ったどの街や村でも、その集落の長が出てきて巡礼の一行を歓迎してくださったものです。
この街に関してはそれがない……どころか、街の人々が一様に困惑した表情で私達を見ているのが気にかかります。
そうして領主の館の前に着いた私達を待っていたのは、殺気を漂わせる大勢の兵士のみなさま。
「……どうも私達は、あまり歓迎されていないようだな」
「そのようですわね」
ジュリアス様の言葉に同意しながら、周囲を見回します。
聖地巡礼を行うために必要となる、食料や馬、衣類等の様々な物資は、各地を治めている領主様にご提供いただいています。
そのため、こうして新たな地に到着するたび、挨拶がてら支援を要請しに行くこともしばしば。
聖地巡礼の儀は国防のための行事ですから、王家から直々に協力を促す通達がされています。ですから、歓迎されることはあれど、邪険にされることなどありえません。……なにか予期せぬ事態でも起こっていない限りは。
「これは一体どういうことだ、パドラック伯爵」
ジュリアス様が冷めた声で問いかけると、館の前に立っていたスノーウィンドの領主――パドラック伯爵が、目を吊り上げながら叫びました。
「どういうことだ、ではない! 聖女様の名を騙る不届き者どもめ! 王家に代わって、この私が成敗してくれるわ!」
その言葉に、私達はみな一斉に顔をしかめます。
なにを言っているのかしら、このお方は。私達が聖女様の名を騙る不届き者?
確か昨年も、いまと同じような面子で顔を合わせたはずですのに、記憶でも失ってしまったのでしょうか。
「貴様! 聖女ディアナ様に対してなんたる無礼な物言いか!」
パラガス様が私達の前に歩み出て、怒りも露わに叫びます。
「私の名前はパラガス! ディアナ聖教、聖女守護騎士団の団長だ! この盾に刻まれた紋様を見よ! これぞ聖女ディアナ様を守護する騎士団たる証!」
守護騎士団の方々が一斉に盾を掲げ、紋様を見せつけます。
そして、一糸乱れぬ動きで左右にわかれて道を作ると、そこを通って、お顔を布で隠されたディアナ様が、ゆっくりとパドラック様のほうへ進み出ていかれました。
「そしてこのお方こそ、パリスタン王国の守護天使、聖女ディアナ様だ! 見よ、この神々しくも清廉なお姿を! これでもまだ、我らが聖女様の名を騙る逆賊だと申すか!」
「しかり! しかり!」
守護騎士団の方々の声に、私達を取り囲んでいた兵士がうろたえはじめます。
数で勝ったつもりだったのでしょうが、兵の練度と士気は段違い。もし戦闘になったとしても、こちらが負ける可能性は万にひとつもないでしょう。
だというのに、パドラック様は依然として余裕の笑みを浮かべておられます。
「なにが聖女ディアナだ! 貴様らが聖地巡礼と称して、各地で金品を巻き上げているのは知っているぞ! 貴様らにやる金など、びた一文ありはせん! 私の金はすべて私のものだ!」
私達は巡礼の際、必要となる最低限度のものしかいただいていないはずですが。
というか、そもそもパドラック様が持っているお金は彼だけのものではないでしょう。
国民の方々が納めている大切な税金ですし、国家を維持するためのお金ですからね。
そんなことはわざわざ言わずとも、領主であれば当然わかっているもの。けれどどうやらこのお方はそうではなかったようです。
まったくもって愚かしい……お兄様も私と同じことを思ったのか、怒りに顔を歪めて、額に手を当てながら言いました。
「パドラック伯爵……なにを勘違いしているかは知らないが、もしこれが原因で浄化の儀が滞れば、どんな事態を招くかわかっているのだろうな? この国の破滅だぞ」
「ご心配には及びませんよ、レオナルド殿。これからはディアナなどという詐欺師に頼らずとも、無償で我らを守護してくださる真の聖女様がいらっしゃいますからな!」
「真の聖女……?」
私達が一斉に疑問を口にした直後、領主の館の扉が勢いよく開きました。
「逆賊どもよ、刮目せよ! このお方こそ、パリスタン王国の新たなる守護天使! パルミア教の聖女であらせられる──テレネッツァ・ホプキンス様だ!」
パルミア教の僧衣を纏った殿方を左右にはべらせ、豪奢なドレスを着たピンクブロンドの女性がドヤ顔で現れました。そのうしろからは、パルミア教徒の方々が続々と出てきます。
「うふふ……この時をずっと待っていたわよ──悪役令嬢スカーレット!」
そこにいたのは紛れもなく、舞踏会血の海事件で私がボコボコにした男爵令嬢――テレネッツァさんでした。
メンフィスの街で見かけた時には、落ちぶれた彼女を哀れんで情けをかけて差し上げましたのに……性懲りもなくまた牙を剥いてくるなんて。どうしてもこの私に殴られたいみたいですわね。
「ごきげんよう、テレネッツァさん。その後、インチキ診療所の調子はいかがですか?」
「このっ、私から職を奪った張本人が、よくもまあ、ぬけぬけとそんなことを言えたわね!? アンタのせいで私は、せっかく手に入れたあの店を手放さなくちゃいけなくなったのよ! 王都から追放された私がどれほど苦労してあの店を手に入れたか! アンタみたいな苦労知らずにはわからないでしょうよ!」
……自業自得では? と言いたいところですが、そんなことを言っても無意味でしょうね。彼女は私が出会った数々の愚かな人々の中でも、トップクラスのお花畑指数を誇る方ですし。
あの店だってどうせ、悪どい手段で労せず手に入れたものでしょうに。
「ぼ、僕達の聖女様に無礼な口を利くのはやめてもらおうか! スカーレット!」
テレネッツァさんの横に立っていた、気弱そうな殿方が叫びました。
どなたでしょう、この影の薄い地味なお方は。どこかで見た覚えがあるような気もするのですが……
「私の顔をご存じのようですが、どこのどなた様でしょうか」
「なっ……わ、忘れたとは言わせないぞ! このラッセン・グリモワールの顔を! あの舞踏会で、散々僕の顔を殴っただろうが!」
ああ、このお方もあの会場にいらっしゃったのですね。
それに、グリモワール……ということは、この方、パルミア教のサルゴン教皇のご子息ですか。道理で見覚えがあるはずです。存在感が希薄すぎて、舞踏会では殴ったことに気がつきませんでしたが。
「お前! いま僕のことを影が薄いって思っただろう!」
「まさかまさか、そのようなことは」
「顔に出てるんだよぉぉぉ! 畜生!」
泣きそうな顔になって叫ぶラッセン様。
大丈夫ですか? ハンカチ代わりに、拳でよければ差し上げましょうか?
「──みなさん!」
不意に、テレネッツァさんがぶりっ子声で叫びました。
そして黄金の大きな扇子をバッと開き、館の入り口に集まっている方々へ視線を巡らせます。
「その女の言うことを聞いて、彼女のペースに呑まれてはいけません! ほら、私の神々しい姿をもっとご覧になって!」
その直後、テレネッツァさんの全身から桃色の鱗粉めいたものが放出されました。
それは急激な勢いで周囲に広がっていき、粉を浴びた方々はまるで泥酔したかのようにだらしない表情を浮かべています。
「うへへぇ……聖女さまぁ……」
「おふぅ……なんと可愛らしいお姿ぁ……」
「ああ……もうなにも考えられない……せいじょさま、せいじょさま……」
――これは、まさか。
「あの粉を吸うな! いますぐ布で口と鼻を覆え!」
ジュリアス様の声に、守護騎士団の方々が慌てて従います。
「どう? これが魅了の加護の力よ! 王都を出てからレベルアップしたいまの私の力をもってすれば、一瞬で男どもを従わせることができるってわけ。恐れ入ったでしょう? あっははは!」
ひざまずいてテレネッツァさんの足を舐めようとするラッセン様。そんな彼を足蹴にしながら、テレネッツァさんが勝ち誇った高笑いをします。
魅了の加護――それがテレネッツァさんの力の正体ですか。
なるほど。これでいままで疑問だった様々なことに説明がつきます。
たとえば──
「……その力で、貴女はカイル様をたぶらかしたのですね」
私の婚約者だった、第二王子カイル様。貴族とはいえ男爵令嬢でしかないテレネッツァさんが、なぜ彼の心を掴むにいたったのか。
魅了の加護を使ったのだとしたら、それも簡単なことだったに違いありません。
「せーいかーい! 痛快だったわぁ。最初は男爵令嬢ごときがって私のことをバカにしていたくせに、段々私から目が離せなくなって、ついには毎日愛をささやいてくるようになるとはねえ? これだから乙女ゲームはやめられないわ」
確かにカイル様には、昔から愚かな一面がありました。ですがいま思えば、公衆の面前で婚約破棄を宣言するなど、流石に度を越えていると言っていいでしょう。
それもこれも、すべてこのお方──テレネッツァさんのお力だったのですか。
「なあに、怖い顔をして。まさかアンタ、あれだけボコボコにカイル様をブン殴ったくせに、本当は好きだったの? もしかして好きな男を私に取られた腹いせに、私を殴ったわけ? だとしたらごめんなさいねえ、寝取っちゃって。あれ、もしかしてこれってザマァってやつ? あはっ、ざまぁないわね、スカーレット! 私の勝ちよ! おーっほっほっほっほ!」
バカみたいに高笑いするテレネッツァさんを、私は冷めた目で見つめます。
一体、なにを勝ち誇っていらっしゃるのかしら。
私がカイル様を好きだった? そのようなこと、天地がひっくり返ったとしてもありえませんよ。
でも、そうですね。いくら長年私に嫌がらせをし続けていた相手とはいえ、仮にも王族である方がすべてを失ったということに、哀れみがないわけではありません。
ましてやそうなった原因が、テレネッツァさんのくだらない欲求にあったと知ってしまったからには、余計に。
「……ひとつ、お忘れになっていますわね、テレネッツァさん」
私はゆっくりと懐から取り出した手袋を手にはめます。
貴女は大切なことを忘れていますわね。
そうやって調子に乗った貴女が――以前私にどのような目に遭わされたかを。
「ス、スカーレット……?」
足を前に踏み出す私に、お兄様が恐る恐るといった風に話しかけてきました。
私はトントンと、感触を確かめるようにつま先で地面を叩きながら、静かにつぶやきます。
「お兄様、私──」
ここ最近、物足りないお肉ばかり叩いておりました。
もう二度と、ゴドウィン様を殴った時ほどの快感は得られないものと思っておりました。
ですが、テレネッツァさん、貴女ならば。
ここまで私に腹を立てさせることができた貴女ならば。
「いまとても、人を殴りたくて殴りたくて、仕方がない気分なんです」
微笑みながらそう言うと、ディオス様は一瞬目を丸くしたあと、ニッと人好きのする笑みを浮かべて言いました。
「あー、その笑顔。やっぱりいいっすね、スカーレットさん。あの時は冗談のつもりだったけど、どうっすか? 俺と付き合ってみないっすか? いまフリーなんすよね?」
またですか。まったく、人の気持ちも考えずに。あまりにしつこいと、温厚な私も流石に怒りますよ?
「お断りしますと、以前にもお伝えしたはずですが」
「えー、もうちょっとチャンスくださいよ。お試しで一週間だけでもどうっすか?」
「一週間程度で、貴方のマイナス評価がプラスに変わるとでもお思いですか?」
「一週間ありゃ十分! 俺のかっこいいところをバシーンとお嬢さんに見せてやりますよ! そうすりゃメロメロになること間違いなしっす! だから、ね? いいっしょ? ね? ね?」
本当にしつこいですわね。口で言ってわからないなら、拳で伝えるしかありませんか。
「っと、その手は食わないっすよ」
私が拳を突き出そうとした途端、また以前と同じようにディオス様が飛びすさりました。
しかし、残念でしたね。その反応は想定ずみです。
「──風よ、疾く出で吹き荒れよ」
「へ?」
突き出した拳──ではなく、私の手の平から突風が吹き出て、ディオス様を遥か彼方に吹き飛ばします。
「なああああああ!?」
「ご機嫌よう、ディオス様。生まれる前からやり直してくださいませ」
猛烈な勢いで山の麓のほうに飛んでいったディオス様は、どんどん小さくなって、やがて私の視界から綺麗さっぱり消え失せました。
はー、スッキリした。
「……なんというか、本当に容赦がないな、貴女は」
飛んでいったディオス様を憐れむような目で見ていたジュリアス様が、ぼそりとつぶやきます。
他人事のように言っていますけど、貴方もやりすぎたらこうなりますのよ。
きちんと覚えていてくださいな、ジュリアス様。
「さあみなさま、先を急ぎましょう。浄化の大聖石はすぐそこですわ」
それから二時間ほど歩いたでしょうか。
私達は浄化の大聖石がある、山頂付近に到着しました。
穢れが溜まり、効力が弱まっているとはいえ、結界の周囲には神聖な気配が満ちています。けれどその中に交じって感じられる、禍々しい気配。
穢れが溜まった浄化の大聖石は瘴気を発し、近づく者を瞬時に死にいたらしめます。
「これより聖女様の禊を行う。聖女守護騎士団の面々は、禊が終わるまで周辺の警戒を」
「承知いたしました」
お兄様の指示で、守護騎士団の方々が周辺に散っていきます。
禊とは、聖女様が浄化の儀の前に行う、身を清める儀式ですね。儀式用の聖衣に着替え、その上から聖水を被ります。
肌寒いこの時季だと、風邪を引いてしまわないか心配ですが。
「スカーレット、お前もこちらに来るのだ。禊の邪魔になる」
そう言って手を引いてくるお兄様に、私は頭を横に振ります。
ジュリアス様に目配せをすると、あの腹黒王子はにやにやしながらうなずきました。
私がディアナ聖教とどのような関わりを持っているのか、そのすべての真相を話していいということでしょう。
まったく、こんなギリギリのタイミングでお兄様にお話しすることになるなんて……すべての責任はジュリアス様にあります。私はずっと、前もって話しておいたほうがいいと言っていましたからね。
お兄様のお顔に視線を戻し、ゆっくりと口を開きます。
「その必要はありませんよ。だって──私が本当の聖女なのですから」
「…………は?」
呆然とするお兄様の前で、ディアナ様が私に向かってひざまずきます。
「聖女スカーレット様、禊のお手伝いをさせていただきます」
「よろしくお願いします」
話についていけないお兄様が、目をつむり、顔を両手で覆って天を仰ぎます。
「ああ……また妹を中心に、なにかおかしな事態が起こっております。父上、母上──!」
そのお兄様の反応を見たジュリアス様が、こらえきれないといった風に噴き出しました。
この瞬間のために、いままでお兄様に隠していたわけですよね……本当、性格が悪いにもほどがありますわ。
「……で、これは一体どういうことなのか説明してもらえるのだろうな、妹よ」
「……文字通りの意味ですわ。私こそが本当の聖女です」
うんざりとしながら答える私に、お兄様が眉間に思い切り皺を寄せて続けます。
「そんなわけあるか。私は去年、ディアナ様ご本人が浄化の儀を行っているところをこの目で見ているのだぞ」
「お兄様が見たのは、要人に公開される〝表向きの儀〟です。あれは基本的にすべてディアナ様が執り行っておりますからね。事情を知らない方が見たら、そう思って当然でしょう」
疑問符を頭に浮かべるお兄様に、ディアナ様が立ち上がって言いました。
「レオ様、私は聖女は聖女なのだけど、代わりのきく〝副聖女〟なの」
「副、聖女……?」
聖地巡礼にて執り行われる浄化の儀には、大まかに分けてふたつの儀式が存在します。
ひとつが、浄化の大聖石に溜まった穢れを清めること。
そしてもうひとつが、四つの大聖石をつないで結界を張ること。
表向きには、その両方を聖女ディアナが一人で行うことになっていますが、ディアナの名を継ぐ方ができるのは、実際のところ結界を張ることのみ。
大聖石の穢れを清められるのは、私のような時を操る力を持った人間でした。大聖石の穢れを、時間を巻き戻してなかったことにするのです。
「聖女とはもともと二人一組だったのですよ。歴代の聖女ディアナに加護を与えた〝忘れ去られた古の神〟とは、実は時の神クロノワ様のことなのです」
腕を組み、険しい顔で静かに私の話を聞いているお兄様に、ディアナ様が続きを語ります。
「副聖女である歴代のディアナの力は、強力な結界を張ることだけ。だから、結界を張ることができる者をたくさん集めればなんとか替えがきくわ。けれど本当の聖女様が持っていた時を巻き戻す加護は、その時代に二人といない稀有な力だった。だから、周辺の国家に知られないように、ずっとパリスタン王家が隠してきたんだって」
現代に伝わっている聖女伝説は、歴代の国王が真実を隠して広めたもので、その事実を知っているのは王家とそれに関わる一握りの方だけです。
「……このことを父上と母上は」
「当然、ご存じですわ」
私が即答すると、お兄様はよりいっそう深く眉間に皺を寄せて左右に頭を振ります。
「なんという……そんなことがありえるのか? いや、しかし、そうだとするならばすべてに納得がいく……〝狂犬姫〟と呼ばれていたお前がカイル様の婚約者に選ばれたことも……ジュリアス様や国王陛下がお前とのつながりを持ち続けようとしていることも……」
そうでしょうね。だって、私がこの国を見捨てていなくなったりしたら、パリスタン王国は再び、魔物の恐怖に怯えることになるでしょうから。
「というわけで、お兄様もこのことはくれぐれも他言無用でお願いいたします」
「当然だ。こんな歴史がひっくり返るような事実、話せるわけがない。それに──」
疲れた顔をしてため息をつきながらも、お兄様が私を見つめて言いました。
「大切な妹であるお前の身が危険に晒されるようなことを、この私がするわけなかろう」
「お兄様……」
呆れながらも私を肯定してくれるお兄様を見ていると、胸に温かな感情が広がっていくのを感じました。
「よかったな、レオ。これで私が知る限り妹に秘密はなにもないぞ。これからは安心して家族の時間を過ごせるな。ククッ」
ジュリアス様が笑いをこらえながらお兄様の肩を叩きます。
なに笑ってるんですか。お兄様にここまで心配をかけたのは、すべて貴方のせいですからね。反省してください。
「さあ、禊の準備をしますのでお兄様もあちらへ」
「わかった。いまのところ周囲の安全は確保されているが、気をつけるんだぞ。またパルミア教の襲撃がないとも限らないからな」
そう言ってくれたお兄様にうなずいて、着替え用に設置された簡易テントに向かいます。
さて、それでは聖衣に着替えて禊の準備をするとしましょうか。
「禊の準備、整いました」
テントの中で青いラインが入った聖衣を着た私は、再び大聖石の前に戻ってきました。
私が纏っているシルクにも似た肌触りの聖衣は、古代級の魔道具です。
聖水を浴びて禊を終えた私は、こちらを見守るように控えている巡礼の一行のみなさまに深々と礼をしました。
「では、これより浄化の儀〝真伝〟を始めます」
浄化の儀〝真伝〟とは、穢れた大聖石の時間を私の加護で巻き戻して、もと通りの綺麗な状態にすることを指します。
振り返れば、五メートルほどの大聖石は、溜まった穢れにより真っ黒に変色していました。
この様子では、もってあと半年といったところでしょうか。
「聖衣よ、穢れをしりぞけたまえ」
魔道具〝聖衣〟を起動させます。服の布に編み込まれた魔法式が青い光を放ち、強力な浄化の力が溢れ出しました。この聖衣をまとえば、穢れた大聖石の悪影響を防ぐことができるのです。
効果が発揮されるのはわずかな間だけですが──私にとってはそれで十分。
「──〝遡れ〟」
大聖石に両手で触れて、遡行の加護を発動させました。
手の平から青い光が漏れ、触れた場所から大聖石の黒い瘴気が消えていきます。
「なんという神秘的な光景か……」
「お姉様……素敵……」
守護騎士団の方々とディアナ様の称賛をくすぐったく感じながらも、意識を乱さないように儀式に集中します。
そして、二分後。大聖石全体が澄んだ青白い色に戻ったのを確認した私は、そっと両手を離しました。これにて浄化の儀〝真伝〟、完了でございます。
「お疲れ様ね、お姉様っ。お着替え手伝うわ。ほら、男の人達は向こうに行って!」
再びテントの中に入り聖衣からドレスに着替えながら、ふとパルミア教の方々のことを考えます。
もし彼らの思惑通りにディアナ聖教が廃教になったとしたら、大聖石と結界の管理はどうするおつもりなのでしょうか。まさかなにも考えていないということはありませんよね?
ただ自分達の利権のためだけにディアナ聖教を潰そうとしているのなら、それはこの国を滅ぼそうとしていることと同義でしょう。
ゴドウィン様といい、パルミア教といい、愚かな悪人がお金や権力を持つと、本当にろくなことになりませんわね。まったく。
「はい、お着替え終わり……って、どうしたのお姉様。難しそうな顔をして。も、もしかしてなにか私の段取りに不手際でもあった!?」
慌て出すディアナ様に微笑みかけ、大丈夫ですよと落ち着かせます。
とりあえずパルミア教への対処に関しては保留としておきましょう。
いまのところは特になにか妨害をされることもなく、聖地巡礼は滞りなく進んでおりますし。
手出しをしてきたら、その時は真正面から叩き潰せばいいだけですしね。
「あーあ、私の浄化の儀もお姉様に見せたかったなぁ。今日のためにたくさん練習したのに」
唇をとがらせて不満そうにぼやくディアナ様を、よしよしと撫でてあげます。
ディアナ様の出番である、結界を張り直す浄化の儀〝本伝〟は、四ヶ所すべての大聖石を浄化したあとに行われるので、彼女がこの場ですべきことはなにもありません。
ですがいつもは部外者の方にも一般公開しているので、彼女が大聖石の穢れを払ったというポーズをしていただいています。
ただ、今回はパルミア教の一件があったので、大事を取って一般公開は中止になりました。
「また来年、ですね。楽しみにしていますよ――サーニャ様」
第四章 正直、昂ぶりを抑えられません。
最初の儀式を終えた私達は、東の街メンフィスを出て、次の大聖石がある北の街に向かいました。
東方とは違い、なだらかな平原が続く北方地帯。交通の便がよく、馬の足取りも軽いので、目的地の北の街には四日ほどで到着できるでしょう。
この地方は空気が乾燥していてとにかく気温が低いため、温かい上着を羽織らないと凍えてしまいます。馬車に乗っている間、みなさまも寒そうにしていらっしゃいましたね。
かくいう私も寒いのは苦手だったりします。だって寒さで手の感覚がなくなったら、殴っても楽しくないじゃないですか。
先ほどそう話したら、お兄様は天を仰ぎ、両手で顔を覆っていらっしゃいました。なにか悲しいことでもあったのでしょうか。
そうして馬車は進み続け、夕方を過ぎた頃。北の大聖石に近い街、スノーウィンドに辿り着いた私達は、まっすぐ領主の館へ向かっておりました。
「……?」
「どうした、スカーレット。なにか愉快なものでも見つけたのか?」
「……いえ、なんでもありませんわ。ジュリアス様」
街に入ってから、妙な違和感を覚えます。
それがなにか、はっきりとはわからないのですが……
「なんだ、この街は歓迎の挨拶もないのか」
「おい、滅多なことを言うな。我らは任務でここに来ているのだぞ」
守護騎士団の方々が口々にぼやく声が聞こえてきます。
確かに、ここまで来る途中に立ち寄ったどの街や村でも、その集落の長が出てきて巡礼の一行を歓迎してくださったものです。
この街に関してはそれがない……どころか、街の人々が一様に困惑した表情で私達を見ているのが気にかかります。
そうして領主の館の前に着いた私達を待っていたのは、殺気を漂わせる大勢の兵士のみなさま。
「……どうも私達は、あまり歓迎されていないようだな」
「そのようですわね」
ジュリアス様の言葉に同意しながら、周囲を見回します。
聖地巡礼を行うために必要となる、食料や馬、衣類等の様々な物資は、各地を治めている領主様にご提供いただいています。
そのため、こうして新たな地に到着するたび、挨拶がてら支援を要請しに行くこともしばしば。
聖地巡礼の儀は国防のための行事ですから、王家から直々に協力を促す通達がされています。ですから、歓迎されることはあれど、邪険にされることなどありえません。……なにか予期せぬ事態でも起こっていない限りは。
「これは一体どういうことだ、パドラック伯爵」
ジュリアス様が冷めた声で問いかけると、館の前に立っていたスノーウィンドの領主――パドラック伯爵が、目を吊り上げながら叫びました。
「どういうことだ、ではない! 聖女様の名を騙る不届き者どもめ! 王家に代わって、この私が成敗してくれるわ!」
その言葉に、私達はみな一斉に顔をしかめます。
なにを言っているのかしら、このお方は。私達が聖女様の名を騙る不届き者?
確か昨年も、いまと同じような面子で顔を合わせたはずですのに、記憶でも失ってしまったのでしょうか。
「貴様! 聖女ディアナ様に対してなんたる無礼な物言いか!」
パラガス様が私達の前に歩み出て、怒りも露わに叫びます。
「私の名前はパラガス! ディアナ聖教、聖女守護騎士団の団長だ! この盾に刻まれた紋様を見よ! これぞ聖女ディアナ様を守護する騎士団たる証!」
守護騎士団の方々が一斉に盾を掲げ、紋様を見せつけます。
そして、一糸乱れぬ動きで左右にわかれて道を作ると、そこを通って、お顔を布で隠されたディアナ様が、ゆっくりとパドラック様のほうへ進み出ていかれました。
「そしてこのお方こそ、パリスタン王国の守護天使、聖女ディアナ様だ! 見よ、この神々しくも清廉なお姿を! これでもまだ、我らが聖女様の名を騙る逆賊だと申すか!」
「しかり! しかり!」
守護騎士団の方々の声に、私達を取り囲んでいた兵士がうろたえはじめます。
数で勝ったつもりだったのでしょうが、兵の練度と士気は段違い。もし戦闘になったとしても、こちらが負ける可能性は万にひとつもないでしょう。
だというのに、パドラック様は依然として余裕の笑みを浮かべておられます。
「なにが聖女ディアナだ! 貴様らが聖地巡礼と称して、各地で金品を巻き上げているのは知っているぞ! 貴様らにやる金など、びた一文ありはせん! 私の金はすべて私のものだ!」
私達は巡礼の際、必要となる最低限度のものしかいただいていないはずですが。
というか、そもそもパドラック様が持っているお金は彼だけのものではないでしょう。
国民の方々が納めている大切な税金ですし、国家を維持するためのお金ですからね。
そんなことはわざわざ言わずとも、領主であれば当然わかっているもの。けれどどうやらこのお方はそうではなかったようです。
まったくもって愚かしい……お兄様も私と同じことを思ったのか、怒りに顔を歪めて、額に手を当てながら言いました。
「パドラック伯爵……なにを勘違いしているかは知らないが、もしこれが原因で浄化の儀が滞れば、どんな事態を招くかわかっているのだろうな? この国の破滅だぞ」
「ご心配には及びませんよ、レオナルド殿。これからはディアナなどという詐欺師に頼らずとも、無償で我らを守護してくださる真の聖女様がいらっしゃいますからな!」
「真の聖女……?」
私達が一斉に疑問を口にした直後、領主の館の扉が勢いよく開きました。
「逆賊どもよ、刮目せよ! このお方こそ、パリスタン王国の新たなる守護天使! パルミア教の聖女であらせられる──テレネッツァ・ホプキンス様だ!」
パルミア教の僧衣を纏った殿方を左右にはべらせ、豪奢なドレスを着たピンクブロンドの女性がドヤ顔で現れました。そのうしろからは、パルミア教徒の方々が続々と出てきます。
「うふふ……この時をずっと待っていたわよ──悪役令嬢スカーレット!」
そこにいたのは紛れもなく、舞踏会血の海事件で私がボコボコにした男爵令嬢――テレネッツァさんでした。
メンフィスの街で見かけた時には、落ちぶれた彼女を哀れんで情けをかけて差し上げましたのに……性懲りもなくまた牙を剥いてくるなんて。どうしてもこの私に殴られたいみたいですわね。
「ごきげんよう、テレネッツァさん。その後、インチキ診療所の調子はいかがですか?」
「このっ、私から職を奪った張本人が、よくもまあ、ぬけぬけとそんなことを言えたわね!? アンタのせいで私は、せっかく手に入れたあの店を手放さなくちゃいけなくなったのよ! 王都から追放された私がどれほど苦労してあの店を手に入れたか! アンタみたいな苦労知らずにはわからないでしょうよ!」
……自業自得では? と言いたいところですが、そんなことを言っても無意味でしょうね。彼女は私が出会った数々の愚かな人々の中でも、トップクラスのお花畑指数を誇る方ですし。
あの店だってどうせ、悪どい手段で労せず手に入れたものでしょうに。
「ぼ、僕達の聖女様に無礼な口を利くのはやめてもらおうか! スカーレット!」
テレネッツァさんの横に立っていた、気弱そうな殿方が叫びました。
どなたでしょう、この影の薄い地味なお方は。どこかで見た覚えがあるような気もするのですが……
「私の顔をご存じのようですが、どこのどなた様でしょうか」
「なっ……わ、忘れたとは言わせないぞ! このラッセン・グリモワールの顔を! あの舞踏会で、散々僕の顔を殴っただろうが!」
ああ、このお方もあの会場にいらっしゃったのですね。
それに、グリモワール……ということは、この方、パルミア教のサルゴン教皇のご子息ですか。道理で見覚えがあるはずです。存在感が希薄すぎて、舞踏会では殴ったことに気がつきませんでしたが。
「お前! いま僕のことを影が薄いって思っただろう!」
「まさかまさか、そのようなことは」
「顔に出てるんだよぉぉぉ! 畜生!」
泣きそうな顔になって叫ぶラッセン様。
大丈夫ですか? ハンカチ代わりに、拳でよければ差し上げましょうか?
「──みなさん!」
不意に、テレネッツァさんがぶりっ子声で叫びました。
そして黄金の大きな扇子をバッと開き、館の入り口に集まっている方々へ視線を巡らせます。
「その女の言うことを聞いて、彼女のペースに呑まれてはいけません! ほら、私の神々しい姿をもっとご覧になって!」
その直後、テレネッツァさんの全身から桃色の鱗粉めいたものが放出されました。
それは急激な勢いで周囲に広がっていき、粉を浴びた方々はまるで泥酔したかのようにだらしない表情を浮かべています。
「うへへぇ……聖女さまぁ……」
「おふぅ……なんと可愛らしいお姿ぁ……」
「ああ……もうなにも考えられない……せいじょさま、せいじょさま……」
――これは、まさか。
「あの粉を吸うな! いますぐ布で口と鼻を覆え!」
ジュリアス様の声に、守護騎士団の方々が慌てて従います。
「どう? これが魅了の加護の力よ! 王都を出てからレベルアップしたいまの私の力をもってすれば、一瞬で男どもを従わせることができるってわけ。恐れ入ったでしょう? あっははは!」
ひざまずいてテレネッツァさんの足を舐めようとするラッセン様。そんな彼を足蹴にしながら、テレネッツァさんが勝ち誇った高笑いをします。
魅了の加護――それがテレネッツァさんの力の正体ですか。
なるほど。これでいままで疑問だった様々なことに説明がつきます。
たとえば──
「……その力で、貴女はカイル様をたぶらかしたのですね」
私の婚約者だった、第二王子カイル様。貴族とはいえ男爵令嬢でしかないテレネッツァさんが、なぜ彼の心を掴むにいたったのか。
魅了の加護を使ったのだとしたら、それも簡単なことだったに違いありません。
「せーいかーい! 痛快だったわぁ。最初は男爵令嬢ごときがって私のことをバカにしていたくせに、段々私から目が離せなくなって、ついには毎日愛をささやいてくるようになるとはねえ? これだから乙女ゲームはやめられないわ」
確かにカイル様には、昔から愚かな一面がありました。ですがいま思えば、公衆の面前で婚約破棄を宣言するなど、流石に度を越えていると言っていいでしょう。
それもこれも、すべてこのお方──テレネッツァさんのお力だったのですか。
「なあに、怖い顔をして。まさかアンタ、あれだけボコボコにカイル様をブン殴ったくせに、本当は好きだったの? もしかして好きな男を私に取られた腹いせに、私を殴ったわけ? だとしたらごめんなさいねえ、寝取っちゃって。あれ、もしかしてこれってザマァってやつ? あはっ、ざまぁないわね、スカーレット! 私の勝ちよ! おーっほっほっほっほ!」
バカみたいに高笑いするテレネッツァさんを、私は冷めた目で見つめます。
一体、なにを勝ち誇っていらっしゃるのかしら。
私がカイル様を好きだった? そのようなこと、天地がひっくり返ったとしてもありえませんよ。
でも、そうですね。いくら長年私に嫌がらせをし続けていた相手とはいえ、仮にも王族である方がすべてを失ったということに、哀れみがないわけではありません。
ましてやそうなった原因が、テレネッツァさんのくだらない欲求にあったと知ってしまったからには、余計に。
「……ひとつ、お忘れになっていますわね、テレネッツァさん」
私はゆっくりと懐から取り出した手袋を手にはめます。
貴女は大切なことを忘れていますわね。
そうやって調子に乗った貴女が――以前私にどのような目に遭わされたかを。
「ス、スカーレット……?」
足を前に踏み出す私に、お兄様が恐る恐るといった風に話しかけてきました。
私はトントンと、感触を確かめるようにつま先で地面を叩きながら、静かにつぶやきます。
「お兄様、私──」
ここ最近、物足りないお肉ばかり叩いておりました。
もう二度と、ゴドウィン様を殴った時ほどの快感は得られないものと思っておりました。
ですが、テレネッツァさん、貴女ならば。
ここまで私に腹を立てさせることができた貴女ならば。
「いまとても、人を殴りたくて殴りたくて、仕方がない気分なんです」
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