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第四章 消えた侍女

第六十五話

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 ラビアを打った手の平が、ヒリヒリと痛む。だが、打たれた彼女の方が、よっぽど痛いだろう。彼女の頬は、もみじの形に、赤く腫れていた。

 唖然と固まるラビアに、市は優雅に微笑んでみせる。

 「どうして打たれたのか、わからぬか?」

 市の言葉に、ラビアは唇を噛み締めた。わからないわけではない。市がラビアを恨むのも当然だと理解している。だが、まさかこうもいきなり、人の頬を引っ叩くとは思ってもいなかったのだ。しかし、市はなかなか気の強い姫君であったと、ラビアはようやく思い出す。あの小城での市が、あまりにも弱っていたため、すっかり忘れていた。

 「らびよ……私はそなたに心底失望したぞ」

 「イチ様……」

 「何度、裏切れば気が済むのだ?私の信頼を、そなたは汚した」

 晧月を殺し、市を攫う手引きをした。主人である市よりも、エイサフを優先した。極めつけには……正体を偽り、再び市に近付いてきたのだ。しかも、夜な夜な薬を盛っていたという。

 「そなたの目的は何じゃ!?申してみよ!」

 腹の底から出した覇気のある声に、ラビアの心臓がギュッと縮こまる。素早い動きで、自然と頭を垂れていた。何を思う間もなく、当たり前のように、最上級の敬礼をしていたのだ。そんな自分にハッとして、彼女は眉根を寄せる。ーー忌々しい。そもそも、全て市が悪いのではないか?ラビアは、市に対して、どろりとした感情が溢れ出るのを自覚した。

 「……邪魔しないで下さいませ」

 イライラする。どうして、こうも思い通りにいかないのだろう。市の反抗的な眼差しが、煩わしい。どうしてエイサフを愛さなかったのかと、問いただしたくなる。市のせいで、エイサフは死んだのだ。ラビアは、逆恨みのような想いを溢れさせ、市の顔を睨み上げた。

 それはまるで、般若のような顔であった。かつての、ラビアの凛とした美しさは消え、どす黒く汚れた感情に、顔を歪ませた女へと変わり果てていた。ラビアは、思った。どうして、市に対して引け目を感じていたのだろう……と。エイサフに傷付けられて弱った市の姿など忘れ、無惨に死んでしまったエイサフの死に姿で頭が一杯になった。そうだ。敬愛する主君が死んだのは、市が原因ではないか。市が、エイサフではなく、渼帝国の皇子なんかを選ぶから……。

いつも、いつも邪魔をされる。

 ーー我が敬愛なる主君……エイサフ王子よ。あなた様はなぜ、この姫に身を滅ぼすほど恋焦がれてしまったのでしょう……!

 どうして、ずっと傍にいたラビアのことを、一度も見てくれなかったのか。

 「私は、あなた様が心底憎らしい」

 ラビアは手に持ったままだった注射器を持ち上げて、市に近付いた。

 「ですが、憎いあなた様の血によって、あの御方と再びお会いすることができる……」

 「らび……?」

 市の怪訝そうな顔に、ラビアはうっそりと微笑んだ。

 「わかりませぬか、イチ様。私は、エイサフ王子を生き返らせたいのです……あなた様の、力ある生き血を、あの方の穴の空いた心臓に注ぎ……あの方が再び目覚めるのを、毎日夢見ていました」

 「お前……まさか」

 晧月の声に、ラビアは振り返って笑う。その菫色の瞳は、いつかの純な輝きを失い、どろりと濁っていた。ラビアは、暗い笑みを浮かべたまま、夢見心地に宙を眺める。彼女は本気で、エイサフに会えると思っているらしい。

 「馬鹿な事を……っ」

 晧月は、チッと舌打ちした。シュッタイト帝国の奴らは、本当にろくな事を考えない。そんなことをして、エイサフが生き返ると、本気で思っているのだろうか。

 「さぁ、イチ様!その血をエイサフ王子のために、下さいませ!」

 華奢な市の肩を、ラビアの手がグッと掴む。そのまま注射針を刺そうとするラビアに、晧月が剣を抜いた。市を害そうとする女を、容赦なく斬ろうと考えたのだ。だが、市が動く方が早かった。

 「い、イチさ……!?」

 ラビアの唇から、真っ赤な鮮血が溢れ出す。市は無表情で彼女の菫色の瞳を、見つめ返した。

 ラビアの腹には、市の懐刀が深々と刺さっていた。織田の家紋が入ったその刀は、信長から貰ったものだ。市は、その刀をぐりっと回転させると、勢い良く引き抜いた。視界が赤に染まり、ラビアの手から注射器が床に転がる。膝を付き、横に倒れたラビアを、市は上から見下ろした。

 「私は、織田の姫じゃ。尾張の虎と呼ばれた父と、いずれは天下人となるであろう兄の気高き血を受け継いでおる。たかが一介の侍女などに、侮られる女ではない」

 「な……イチ……さま……」

 はくはくと息を吐くラビアは、一瞬痛みを感じない程にゾッとした。愛らしい顔をしていて、なんて残酷な姫なのだろうか。姫君とは、こうも血に慣れているものなのか。人を殺そうとして、何故こうも冷静でいられるのか。

 思えば……市は、あの小城にいた時も異質だった。自害をすることに、躊躇がなかったのだ。

 戦国の世を生きた市は、敵の手に落ちれば自害しろと教えられてきた。いざとなれば、懐刀をもって戦うのも当然だ。主を裏切った家臣を殺すことに躊躇しないのは、兄である信長や、ほかの大名も皆そうしていたから……。そして、市は、普通の姫君よりも血や死体に慣れていた。城の女衆は、敵の生首に死化粧を施していたし、信長はすぐに家臣に怪我をさせては、血を流させる。ラビアは、油断していたのだ。まさか、市が刀を向けてくるなど、思いもしなかった。

 「私は、そなたのこと……嫌いではなかったぞ」

 息も絶え絶えなラビアに、市は静かに言葉を紡いだ。ラビアの菫色の瞳から、何故か涙が一筋零れ落ちる。ラビアにも、どうして涙が出るのかわからなかった。刺されたのは腹の筈なのに、胸にポッカリと穴が空いたようだ。

 やがてラビアは目を閉じた。まぶたが、重い。体がだるい。頭にエイサフの顔を思い浮かべれば、彼は無表情にラビアを見つめ返した。

 ーーああ……私は……。あの御方のことを……お慕いしていたのだ……。

 僅かに唇が歪む。エイサフのために、市を害そうとしたラビアを、彼は許さないだろう。だが、彼がいる場所も……自分が堕ちる場所もきっとーー地獄だ。

 自嘲気味に笑みを浮かべて、ラビアは息を引き取った。
 
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