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菊花の香り
第五話
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「香さま……」
「ええ」
春子が私の着物の裾を引っ張って、公達を指さした。
春子が言いたいことがわかった私は、小さく返事をする。
中務卿宮家のご子息であり、三の姫の兄、敦正(あつまさ)様。またの名を『変人の宮』だ。
家柄もよし、地位も兵部省のお偉方である。
容姿もいい。腕っぷしも強いし、詠む和歌もセンスがいい。
そんな三拍子も四拍子も揃っている公達である。
しかし、彼はとても変わっていると有名な人なのだ。
三の姫より一つ年上の敦正様は、二十二歳。
この歳なら、すでに通う姫がいてもおかしくない。いや、いないほうがおかしい。
それなのに、この宮さまはどの姫君の元にも通っていないという噂だ。
隠れてコソコソ通っているという可能性もあるにはあるが、名高い貴族の姫君と結婚をしたという話は聞いたことがない。
これだけの地位と容姿が整っていれば、どんな姫でも思いのままに手にいれることができるというのに。
全くもって勿体ない話だ。
(世間一般ではステキな公達の部類に入るのに、もったいないわねぇ)
私の趣味ではないけど、と心の中でそう呟く。
そして、こっそりと御簾越しから敦正様を見て、肩を竦めた。
コホンと小さく咳払いをした後、三の姫はシッシッと敦正様を煙たく扱う。
「今、私はお香の指南を仰いでいるところですのよ。さっさとご自分のお部屋にお戻りください」
「ああ、わかっている。お香の名手と誉れ高い薫の少納言のご息女が来ているのであろう?」
「わかっているのなら、早く退出なさってください。香さまに失礼ですわ」
なかなか退出しようとしない敦正様に業を煮やしている様子の三の姫の声は、怒りを含んでいる。
しかし、そんな妹姫の様子が楽しくてしかたないようで、敦正様は退出どころか、その場に座り込んでしまった。
それを見た女房たちも慌てふためいている。
三の姫の眉間の皺もより濃くなり、こめかみには青筋が浮かんでいる。
これは相当お怒りの様子だ。
「一度、香姫とお話したくて邪魔したのだが……」
「あのね、お兄様。今のご時世、裳着を済ませた女性が、男性の前に顔を出すことができると思っているの? 声だって聞かせない世の中なのよ!」
三の姫は、持っていた扇を脇息に叩きつけた。
バンという音が響き、その場がシンと静かになる。
しかし、敦正様はどこ吹く風といった様子である。三の姫の剣幕に恐れをなさず、あはは、と豪快に笑った。
「だからじゃないか。こうして我が邸においでになったのは運命であろう」
「お兄様!」
怒り狂う三の姫をよそに、敦盛様は香に声をかけてきた。
「香姫。初めてお目にかかります。三の姫の兄で、敦正と申します」
真剣な眼差しで御簾を見つめる敦正様に、私は正直困ってしまった。
春子に代返をお願いしたほうがいいだろうか。
チラリと春子に視線を送ろうとすると、三の姫さまが首を横に振った。
「いいえ、香さま。返事などしなくてもよいのです」
「で、でも……」
思わず声を出してしまった。慌てて口を押さえても、すでに遅い。
御簾越しにいる敦正様にも声が届いてしまったようで、にこやかにほほ笑んでいる。
「想像以上に可愛らしい声だ。さぁ、もう声を私に聞かせてしまったのですから代返などしなくてもよいでしょう」
「……」
「本当は、その御簾の中に忍び込んでいきたいところですが、我慢しているのですよ。お話ぐらいならよいでしょう」
「っ!」
爽やかに笑いながら口に出す言葉では断じてないはず。
しかし、敦正様のように見目麗しい公達が言うと不思議とおかしくないように思ってしまうから不思議だ。とはいえ、私の男性の趣味とはかけ離れているけど。
話をしないうちは部屋を出て行くつもりはないと言い切る敦正様を見て、私は肩を竦めた。
私が何かお話しない限り、敦正様が折れることはないだろう。
「初めてお目にかかります。香と申します」
敦正様に挨拶をしだした私を見て、三の姫は目を大きく見開いた。
「いいえ、香さま。こんな変人と話さなくともいいのですよ。すぐに退出させますから」
自ら追い出しをしようと腰を上げる三の姫の腕に、香は手を伸ばした。
「大丈夫ですわ、三の姫さま」
「でも……」
「だって、このままお返事しなければ、敦正様は御簾の中に忍んでいらっしゃるのでしょ?」
先ほどから冗談めいたことばかり言っているが、敦正様の目は真剣だ。
顔を見られるぐらいなら、声を晒したほうがまだましだ。
それは二の姫も同じことを思っていたらしく、短く息を吐き出した。
「ごめんなさいね、香さま。うちの兄は、世間の噂どおり変人の宮だから」
「いえ、大丈夫です」
扇を広げ、口元を隠しながらほほ笑むと、三の姫は心底安心した様子を見せた。
御簾越しにいる敦正様に視線を向けると、さきほど菊花の練り香をくべた炉に鼻をくっつけている。どうやら練り香がお気に召したらしい。
「いかがでしょうか? 私のお香は」
「素晴らしい。私は匂いには敏感でね、少しでも鼻につく香りが漂っていると気分が悪くなるのだが……こんなことは初めてだ!」
手で炉を仰ぎながら、菊花を堪能している様子の敦正様を見て、思わず誇らしげな気持ちになる。
自分が丹精込めて練ったお香を褒めてくれるのは正直嬉しい。
変人と名高い人とはいえ、今をときめく公達に褒められて悪い気などしない。
思わず笑みを浮かべる私だったが、すぐ近くにいる三の姫は驚愕な表情を浮かべている。
一体どうしたというのだろうか。
「お兄様……本当に大丈夫なようですわね」
「ああ。さすがはお香の名手。大丈夫なようだ」
「やっぱり香様のお香は素晴らしいわね……それが証明されたってことだわ」
「そういうことみたいだね。こんなことは初めてだ」
敦正様は、信じられないと小さく呟いた。
信じられないとはどういうことなのだろう。
さきほど炉にくべた練り香は、ごくごく普通の配合である。
確かに作る人や気候などによっても多少の香りの変化は伴うが、今回の練り香は基本を忠実に守った製法である。
こうまで驚き、感激されるとなんとも恥ずかしい。
(兄様に、褒められたときみたいだわ)
どこかソワソワして落ち着かないが、敦正を見てもドキドキはしない。
やっぱり自分の兄が一番だと再確認しただけだ。
世間では見目麗しいと言われる敦正様だが、私はなんとも思わない。
それは敦正様だって同じ想いだろう。
美形には美形。これが世の常だ。
お香の名手と名高い『薫の少納言』の娘と話してみたかっただけ。それだけだ。
しかし、目の前の敦正様の想いは違ったようだ。
御簾をジッと見つめたかと思うと、私に向かってとんでもないことを言いだした。
「香姫」
「はい?」
「結婚しましょうか」
サラリと、何事でもないように。自然体で言われた言葉に、一瞬誰もがそのまま流しそうになった。
しかし、もう一度噛み砕いて考えたあと、彼がとんでもないことを言ったということに誰しもが気がついた。
「はぁぁ!?」
誰の悲鳴かわからないぐらいに、御簾の中も、御簾越しも大騒ぎになってしまった。
涼しい顔して楽し気にほほ笑んでいるのは、爆弾発言をした本人である敦正様だけだ。
三の姫は怒り心頭で立ち上がって罵声を発しているし、それをお付き女房の清美がなんとか宥めている。
修羅場とはこのことを言うのだろう。
私はこの雰囲気に呑まれながら、あははと力なく笑う。
「ご、ご、ご冗談を」
私は、顔を引き攣らせるだけしかできなかった。
「ええ」
春子が私の着物の裾を引っ張って、公達を指さした。
春子が言いたいことがわかった私は、小さく返事をする。
中務卿宮家のご子息であり、三の姫の兄、敦正(あつまさ)様。またの名を『変人の宮』だ。
家柄もよし、地位も兵部省のお偉方である。
容姿もいい。腕っぷしも強いし、詠む和歌もセンスがいい。
そんな三拍子も四拍子も揃っている公達である。
しかし、彼はとても変わっていると有名な人なのだ。
三の姫より一つ年上の敦正様は、二十二歳。
この歳なら、すでに通う姫がいてもおかしくない。いや、いないほうがおかしい。
それなのに、この宮さまはどの姫君の元にも通っていないという噂だ。
隠れてコソコソ通っているという可能性もあるにはあるが、名高い貴族の姫君と結婚をしたという話は聞いたことがない。
これだけの地位と容姿が整っていれば、どんな姫でも思いのままに手にいれることができるというのに。
全くもって勿体ない話だ。
(世間一般ではステキな公達の部類に入るのに、もったいないわねぇ)
私の趣味ではないけど、と心の中でそう呟く。
そして、こっそりと御簾越しから敦正様を見て、肩を竦めた。
コホンと小さく咳払いをした後、三の姫はシッシッと敦正様を煙たく扱う。
「今、私はお香の指南を仰いでいるところですのよ。さっさとご自分のお部屋にお戻りください」
「ああ、わかっている。お香の名手と誉れ高い薫の少納言のご息女が来ているのであろう?」
「わかっているのなら、早く退出なさってください。香さまに失礼ですわ」
なかなか退出しようとしない敦正様に業を煮やしている様子の三の姫の声は、怒りを含んでいる。
しかし、そんな妹姫の様子が楽しくてしかたないようで、敦正様は退出どころか、その場に座り込んでしまった。
それを見た女房たちも慌てふためいている。
三の姫の眉間の皺もより濃くなり、こめかみには青筋が浮かんでいる。
これは相当お怒りの様子だ。
「一度、香姫とお話したくて邪魔したのだが……」
「あのね、お兄様。今のご時世、裳着を済ませた女性が、男性の前に顔を出すことができると思っているの? 声だって聞かせない世の中なのよ!」
三の姫は、持っていた扇を脇息に叩きつけた。
バンという音が響き、その場がシンと静かになる。
しかし、敦正様はどこ吹く風といった様子である。三の姫の剣幕に恐れをなさず、あはは、と豪快に笑った。
「だからじゃないか。こうして我が邸においでになったのは運命であろう」
「お兄様!」
怒り狂う三の姫をよそに、敦盛様は香に声をかけてきた。
「香姫。初めてお目にかかります。三の姫の兄で、敦正と申します」
真剣な眼差しで御簾を見つめる敦正様に、私は正直困ってしまった。
春子に代返をお願いしたほうがいいだろうか。
チラリと春子に視線を送ろうとすると、三の姫さまが首を横に振った。
「いいえ、香さま。返事などしなくてもよいのです」
「で、でも……」
思わず声を出してしまった。慌てて口を押さえても、すでに遅い。
御簾越しにいる敦正様にも声が届いてしまったようで、にこやかにほほ笑んでいる。
「想像以上に可愛らしい声だ。さぁ、もう声を私に聞かせてしまったのですから代返などしなくてもよいでしょう」
「……」
「本当は、その御簾の中に忍び込んでいきたいところですが、我慢しているのですよ。お話ぐらいならよいでしょう」
「っ!」
爽やかに笑いながら口に出す言葉では断じてないはず。
しかし、敦正様のように見目麗しい公達が言うと不思議とおかしくないように思ってしまうから不思議だ。とはいえ、私の男性の趣味とはかけ離れているけど。
話をしないうちは部屋を出て行くつもりはないと言い切る敦正様を見て、私は肩を竦めた。
私が何かお話しない限り、敦正様が折れることはないだろう。
「初めてお目にかかります。香と申します」
敦正様に挨拶をしだした私を見て、三の姫は目を大きく見開いた。
「いいえ、香さま。こんな変人と話さなくともいいのですよ。すぐに退出させますから」
自ら追い出しをしようと腰を上げる三の姫の腕に、香は手を伸ばした。
「大丈夫ですわ、三の姫さま」
「でも……」
「だって、このままお返事しなければ、敦正様は御簾の中に忍んでいらっしゃるのでしょ?」
先ほどから冗談めいたことばかり言っているが、敦正様の目は真剣だ。
顔を見られるぐらいなら、声を晒したほうがまだましだ。
それは二の姫も同じことを思っていたらしく、短く息を吐き出した。
「ごめんなさいね、香さま。うちの兄は、世間の噂どおり変人の宮だから」
「いえ、大丈夫です」
扇を広げ、口元を隠しながらほほ笑むと、三の姫は心底安心した様子を見せた。
御簾越しにいる敦正様に視線を向けると、さきほど菊花の練り香をくべた炉に鼻をくっつけている。どうやら練り香がお気に召したらしい。
「いかがでしょうか? 私のお香は」
「素晴らしい。私は匂いには敏感でね、少しでも鼻につく香りが漂っていると気分が悪くなるのだが……こんなことは初めてだ!」
手で炉を仰ぎながら、菊花を堪能している様子の敦正様を見て、思わず誇らしげな気持ちになる。
自分が丹精込めて練ったお香を褒めてくれるのは正直嬉しい。
変人と名高い人とはいえ、今をときめく公達に褒められて悪い気などしない。
思わず笑みを浮かべる私だったが、すぐ近くにいる三の姫は驚愕な表情を浮かべている。
一体どうしたというのだろうか。
「お兄様……本当に大丈夫なようですわね」
「ああ。さすがはお香の名手。大丈夫なようだ」
「やっぱり香様のお香は素晴らしいわね……それが証明されたってことだわ」
「そういうことみたいだね。こんなことは初めてだ」
敦正様は、信じられないと小さく呟いた。
信じられないとはどういうことなのだろう。
さきほど炉にくべた練り香は、ごくごく普通の配合である。
確かに作る人や気候などによっても多少の香りの変化は伴うが、今回の練り香は基本を忠実に守った製法である。
こうまで驚き、感激されるとなんとも恥ずかしい。
(兄様に、褒められたときみたいだわ)
どこかソワソワして落ち着かないが、敦正を見てもドキドキはしない。
やっぱり自分の兄が一番だと再確認しただけだ。
世間では見目麗しいと言われる敦正様だが、私はなんとも思わない。
それは敦正様だって同じ想いだろう。
美形には美形。これが世の常だ。
お香の名手と名高い『薫の少納言』の娘と話してみたかっただけ。それだけだ。
しかし、目の前の敦正様の想いは違ったようだ。
御簾をジッと見つめたかと思うと、私に向かってとんでもないことを言いだした。
「香姫」
「はい?」
「結婚しましょうか」
サラリと、何事でもないように。自然体で言われた言葉に、一瞬誰もがそのまま流しそうになった。
しかし、もう一度噛み砕いて考えたあと、彼がとんでもないことを言ったということに誰しもが気がついた。
「はぁぁ!?」
誰の悲鳴かわからないぐらいに、御簾の中も、御簾越しも大騒ぎになってしまった。
涼しい顔して楽し気にほほ笑んでいるのは、爆弾発言をした本人である敦正様だけだ。
三の姫は怒り心頭で立ち上がって罵声を発しているし、それをお付き女房の清美がなんとか宥めている。
修羅場とはこのことを言うのだろう。
私はこの雰囲気に呑まれながら、あははと力なく笑う。
「ご、ご、ご冗談を」
私は、顔を引き攣らせるだけしかできなかった。
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