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第四話(1)
内気な青年
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「内村優也(うちむらゆうや)様、診察室にお入りください~。」
佐藤看護師が、彼女独特のリズムのある呼び声で、患者を診察室に招き入れる。
東京都の郊外にある「とちの実病院」の、金曜日の診察風景。ドクター·フライディこと鈴木医師が診察を担当している。
内村優也は、20才代の男性だった。少し水色がかった紺色のビジネススーツに身を包み、ビジネスバックを片手に、うつむきかげんで診察室に入って来た。
今日が初診で、緊張しているだろうと思った鈴木医師は、ソフトな声で、
「どうぞ、この椅子におかけください。」
と、小さな丸テーブルをはさんで、鈴木医師が座っている椅子と対面して置かれた椅子を、手で差し示しながら言った。
内村氏はおずおずと椅子に座り、バックを片側に置いた。両手を両ひざの上に置き、鈴木医師の顔をちらりと見て目をふせた。
「こういう病院には初めて来ましたし、こんなことを話すのはどうなのかなと思うのですが…どうも、ドッペルゲンガー現象が起こっているようなんです…」
内村氏は目をふせたまま、ボソボソと言った。
鈴木医師は、ほう、珍しいことを言う人だ、と思いながら、内村氏の言葉の続きを待った。
「先生は、ドッペルゲンガーに出会った患者さんを診察されたことはありますか?」
内村氏は質問してきた。
どうも、ドッペルゲンガーの話を、鈴木医師にしてもよいのかどうかというところで、まず迷っているらしい。
ドッペルゲンガーとは、自分にそっくりの人間を自分で見かける、あるいは、自分が、その場所その時間にいるはずのないところで、他人によって目撃されるという不思議な現象だが、これについて、研究したり、記録を残している精神科医はあまりいない。したがって、ドッペルゲンガー現象が医学的にどういうものなのか、という結論もでていない。
鈴木医師は答えた。
「私個人は、ドッペルゲンガーで困っているという患者さんに出会ったことはありません。しかし、日本だけでも、芥川龍之介や泉鏡花が作品に書いていますし、昔から知られていた現象のようですから、私はドッペルゲンガーを、否定してはいません。」
鈴木医師の言葉を聞いて、内村氏はほっとした表情をみせた。
鈴木医師は続けて言った。
「ドッペルゲンガー現象と思われる出来事で、困っておられるのですね。どうぞ、私に話してください。あなたのちからになれるよう、二人で考えてゆきましょう。」
この発言で内村氏は鈴木医師に信頼を寄せたようだ。それでは…と内村氏が話し始めた。
「それでは、まず、私が勤めている会社のことから話します…」
「ええ、どうぞ。」
鈴木医師は内村氏がリラックスできるように、ゆったりと構えた。
内村氏は、丸テーブルに視線を落として、話し始めた…
「私は建売住宅の設計、建築、販売を手掛けている会社に勤めています。大学で2級建築士の資格をとり、今の会社の新卒採用に応募し、設計部へ所属ということで、入社が決まりました。
私は内気な性格で、人と話すのが苦手なため、パソコンでコツコツ図面を描く仕事に向いていました。一年くらい設計部の仕事を経験すると、この会社での仕事のやりかたは、ほぼ理解できるようになっていました。
うちの会社が建てる住宅の特徴は、地震に強い丈夫な構造というものです。これは、阪神淡路大震災を経験した社長が「安全な住宅こそ最良である」という信念から生まれてきたものです。
ところで、会社では、月に一回、社長と各部の部長が集う、全体会議がありました。
私は後に知ることになりましたが、営業部はうちの住宅に長年不満を持っていたようです。
それは、うちの住宅が、頑丈さを追求したあまりに、箱を重ねたような、シンプルなデザインになりすぎている、お客様に受けが悪い、というものでした。
このことは、全体会議では議題にあがっていたのですが、私のような平社員が出席するところではないので、私は知りませんでした。ただ、いちど、営業部長が設計部にやって来て、設計部長に話しかけるふうをよそおいながら、フロア全体の設計部員に聞こえよがしに、大声で話していました。
「頑丈、頑丈と、ひとつ覚えみたいに言っても、お客さんが家に求めているのは頑丈さだけではない。生活のなかに夢や潤いを必要とするのが人間というものでしょうが。キャラメルみたいな四角い家で暮らしたいと思う人ばかりではないんですよ。家にはロマンというものも、必要でしょう。このままでは、わたしら営業部がどんなにがんばっても、他社にシェアを奪われてゆくのは目に見えている。」
設計部長はこう返していました。
「あんたの言うことは、わからんでもない。要は、切妻屋根やら、こちょこちょした出窓やらが好きなひともいるということでしょう。うちの基本設計に、そんなものを加えたら、坪単価がどれほど高くなるか。それに、そんな複雑なもの組み立てるのに、現場の作業日数も、どれだけ増えますやら。そこまで考えて、ものを言ってもらわないと。価格競争力で他社に負けるようになる。」
この話を聞いて、営業部と設計部がなにで対立しているのか、そして、どちらも引き下がる気はないということを、設計部員の全員が知るところとなりました。
ところがこのことが、私の身の上に、突然ふりかかってきたのは、次の月の全体会議が終わった直後のことでした。」
ーーここまで、トツトツとした語り口で、視線を丸テーブルに落としたまま、語った内村氏だったが、いったん話を止め、大きく息を吐いた。
鈴木医師は思った。
確かに、本人も言う通り、内向的な性格のようだ。私に話をするにも、かなりのエネルギーを使っている。いったん話を止めたのは、いよいよ、この先から問題が起こって来るからだろう…
鈴木医師は、内村氏を焦らせたり緊張させたりしないよう、内村氏が再び口を開くのを待った。
しばらくのち、声を絞り出すようにして、内村氏は話の続きをはじめた…
「会議が終わって、設計室に戻ってきた設計部長はデスクにつくと、腕組みをして、なにやら考え込んでいるようでした。やがて、意を決したように立ち上がり、私のデスクのところまで歩いて来ました。
「内村君、ちょっと話がある。ミーティングルームまで来てくれるか。」
そう声をかけられた私は、悪い予感を感じながら、設計部長の後について、ミーティングルームへむかいました。
机をはさんで対面して座った私に、設計部長は、ズバリと切り出しました…
「内村君。しばらく営業部へ行って、営業の仕事をしてきてくれ。」
私は、驚きのあまり、声がでませんでした。設計部長は話を続けました。
「今日の全体会議でな、きみらも気がついてはいるだろうが、また、営業部長と対立した。営業部の意見としては、うちの家のデザインが、このまま変わらないのなら、もうこれ以上、売ることは無理、と。お客さんは、他社が出している、こじゃれた家を選ぶ、と。もう営業部がどんなにがんばっても、他社にかなわないところまで来ている、と。」
そこで、わたしはこう言ってみた。
「営業部の言い分は、よくわかった。しかし、わたしら設計をする者にとっては、こじゃれた家、とか、抽象的な言葉で言われても、図面にどう落とし込めばいいのかが、わからない。簡単なスケッチでよいから、営業部が理想と考えている、うちの会社の家の姿を、この紙に描いてみてくれないか?」
そう言って、わたしは、白紙の紙を営業部長に差し出した。
「そうしたら、描くことができないんだよ。彼らは言葉で仕事をする人間だから、頭の中に、問題意識があるのはわかるが、それを図で描けと言われると、できないらしい。
白紙を目の前にして、黙り込んでしまった営業部長の姿を見て、社長が、こう提案された。」
「営業部員と設計部員では、思考回路が違うのだから、その間を取り持って、両方の立場を理解できる社員が必要ということだ。営業部員に図面を描け、というのはハードルが高いから、設計部員の中から、若くて柔軟な思考の持ち主に、営業の現場を体験してもらえば、うちが売っている家に足りていないところを、具現化できるのではないだろうか。設計部員の中から、適材と思われる者を営業部にしばらくゆかせてみてはどうか?」
「社長、それは素晴らしいお考えです!我が社が今後も、建売住宅市場で生き残ってゆくためには、それしかありません。設計部長、ぜひ優秀な人を営業部へよこしてくれ!」
勝ち誇った表情を顔にうかべて、営業部長は設計部長に、そう言ったそうです。
設計部長は私に向かって、再度言いました。
「そこでだ。設計部において、若くて柔軟な思考の持ち主となると、内村君、きみをおいて他にはいない。営業部へ行ってくれるな。社長の指示だ。」
私は設計部長の言葉を聞いて、体がこわばり、背すじに冷たいものが下ってゆくのを感じました。
私は仕事で何がいやかというと、営業だけはしたくなかったのです。お客様と対面して、お客様に応じて、臨機応変に話題や話し方を変えながら、物品を売る、そのような仕事は、私から見たら、芸当のように感じてきました。しかも、この会社の商品は普通の人にとっては、人生で一番値段の高い買物「家」ではないですか。そんなものを私が売るなんてありえない。
就職活動をした時にも、「営業」だけは避けていました。今の会社も「設計部員」の募集だったから、応募したのです。それがいまさら、営業部に行ってくれとは…
私の心の内は、不平と不満で盛り上がってきましたが、私の性格には、それを言葉にして設計部長に伝える能力がありませんでした。
私が押し黙っているのを「承諾」という意味に受け取ったのか、設計部長は軽いノリで、
「じゃ、明日から、営業部に出社してくれたまえ。」
と、言い、話は終わったとばかりに立ち上がり、私の横を通る時に、私の肩をポンとたたくと、ミーティングルームからでてゆきました…
ひとりミ゙ーティングルームに残された私は、さまざまな考えが頭に浮かび、椅子から立ち上がることができませんでした。
いちばん最初に考えたのは、私にとっては死ぬほど怖い、営業の仕事をさせられるのなら、いっそのこと辞表を出して会社を辞めようかということでした。
しかし、この会社に入社して、まだ一年しか経験がありません。他の会社に中途採用してもらえるような実力があるとは思えません。
では怖くても営業部へ行くしかないのか。営業部長や営業部員は、私にどんな態度で接してくるだろうか。これまで頭が上がらなかった、にっくき設計部の人間に、いじめ、意地悪をしないだろうか。内気で話下手な私を、もの笑いにしたりしないだろうか。
私は机にひじをつき、両手で頭を抱え込んでしまいました。
その姿勢のまま、夕闇が迫ってくるまで考え続け、私は自分なりの結論をだしました。
それは「とりあえず、明日は営業部へ行く。そして営業部のやつらの態度や自分に求められる仕事が、自分の神経に触って、どうしても耐えられなかったら、どこかのメンタルクリニックを受診して、診断書を書いてもらい、提出して病欠する。」
と、いうものでした。」
鈴木医師が微笑みながら、口をはさんだ。
「しかし内村さんは、そうされなかった。今日も営業マンの服装をしていらっしゃるし、この病院は治療に重きをおくところで、簡単に診断書をだす病院ではありませんから。それを知った上で来られたのでしょう?」
鈴木医師の微笑みにつられたように、内村氏も硬い表情が少しゆるんで、視線を上げ、鈴木医師の顔を見た。
「営業部で、親切な先輩との出会いがあったのです。その人がいなかったら、私はとっくに病欠に入っていたでしょう。」
「なるほど。その人の話を聞かせていただきたいですね。」
鈴木医師がうながすと、内村氏は再び話しはじめた…
佐藤看護師が、彼女独特のリズムのある呼び声で、患者を診察室に招き入れる。
東京都の郊外にある「とちの実病院」の、金曜日の診察風景。ドクター·フライディこと鈴木医師が診察を担当している。
内村優也は、20才代の男性だった。少し水色がかった紺色のビジネススーツに身を包み、ビジネスバックを片手に、うつむきかげんで診察室に入って来た。
今日が初診で、緊張しているだろうと思った鈴木医師は、ソフトな声で、
「どうぞ、この椅子におかけください。」
と、小さな丸テーブルをはさんで、鈴木医師が座っている椅子と対面して置かれた椅子を、手で差し示しながら言った。
内村氏はおずおずと椅子に座り、バックを片側に置いた。両手を両ひざの上に置き、鈴木医師の顔をちらりと見て目をふせた。
「こういう病院には初めて来ましたし、こんなことを話すのはどうなのかなと思うのですが…どうも、ドッペルゲンガー現象が起こっているようなんです…」
内村氏は目をふせたまま、ボソボソと言った。
鈴木医師は、ほう、珍しいことを言う人だ、と思いながら、内村氏の言葉の続きを待った。
「先生は、ドッペルゲンガーに出会った患者さんを診察されたことはありますか?」
内村氏は質問してきた。
どうも、ドッペルゲンガーの話を、鈴木医師にしてもよいのかどうかというところで、まず迷っているらしい。
ドッペルゲンガーとは、自分にそっくりの人間を自分で見かける、あるいは、自分が、その場所その時間にいるはずのないところで、他人によって目撃されるという不思議な現象だが、これについて、研究したり、記録を残している精神科医はあまりいない。したがって、ドッペルゲンガー現象が医学的にどういうものなのか、という結論もでていない。
鈴木医師は答えた。
「私個人は、ドッペルゲンガーで困っているという患者さんに出会ったことはありません。しかし、日本だけでも、芥川龍之介や泉鏡花が作品に書いていますし、昔から知られていた現象のようですから、私はドッペルゲンガーを、否定してはいません。」
鈴木医師の言葉を聞いて、内村氏はほっとした表情をみせた。
鈴木医師は続けて言った。
「ドッペルゲンガー現象と思われる出来事で、困っておられるのですね。どうぞ、私に話してください。あなたのちからになれるよう、二人で考えてゆきましょう。」
この発言で内村氏は鈴木医師に信頼を寄せたようだ。それでは…と内村氏が話し始めた。
「それでは、まず、私が勤めている会社のことから話します…」
「ええ、どうぞ。」
鈴木医師は内村氏がリラックスできるように、ゆったりと構えた。
内村氏は、丸テーブルに視線を落として、話し始めた…
「私は建売住宅の設計、建築、販売を手掛けている会社に勤めています。大学で2級建築士の資格をとり、今の会社の新卒採用に応募し、設計部へ所属ということで、入社が決まりました。
私は内気な性格で、人と話すのが苦手なため、パソコンでコツコツ図面を描く仕事に向いていました。一年くらい設計部の仕事を経験すると、この会社での仕事のやりかたは、ほぼ理解できるようになっていました。
うちの会社が建てる住宅の特徴は、地震に強い丈夫な構造というものです。これは、阪神淡路大震災を経験した社長が「安全な住宅こそ最良である」という信念から生まれてきたものです。
ところで、会社では、月に一回、社長と各部の部長が集う、全体会議がありました。
私は後に知ることになりましたが、営業部はうちの住宅に長年不満を持っていたようです。
それは、うちの住宅が、頑丈さを追求したあまりに、箱を重ねたような、シンプルなデザインになりすぎている、お客様に受けが悪い、というものでした。
このことは、全体会議では議題にあがっていたのですが、私のような平社員が出席するところではないので、私は知りませんでした。ただ、いちど、営業部長が設計部にやって来て、設計部長に話しかけるふうをよそおいながら、フロア全体の設計部員に聞こえよがしに、大声で話していました。
「頑丈、頑丈と、ひとつ覚えみたいに言っても、お客さんが家に求めているのは頑丈さだけではない。生活のなかに夢や潤いを必要とするのが人間というものでしょうが。キャラメルみたいな四角い家で暮らしたいと思う人ばかりではないんですよ。家にはロマンというものも、必要でしょう。このままでは、わたしら営業部がどんなにがんばっても、他社にシェアを奪われてゆくのは目に見えている。」
設計部長はこう返していました。
「あんたの言うことは、わからんでもない。要は、切妻屋根やら、こちょこちょした出窓やらが好きなひともいるということでしょう。うちの基本設計に、そんなものを加えたら、坪単価がどれほど高くなるか。それに、そんな複雑なもの組み立てるのに、現場の作業日数も、どれだけ増えますやら。そこまで考えて、ものを言ってもらわないと。価格競争力で他社に負けるようになる。」
この話を聞いて、営業部と設計部がなにで対立しているのか、そして、どちらも引き下がる気はないということを、設計部員の全員が知るところとなりました。
ところがこのことが、私の身の上に、突然ふりかかってきたのは、次の月の全体会議が終わった直後のことでした。」
ーーここまで、トツトツとした語り口で、視線を丸テーブルに落としたまま、語った内村氏だったが、いったん話を止め、大きく息を吐いた。
鈴木医師は思った。
確かに、本人も言う通り、内向的な性格のようだ。私に話をするにも、かなりのエネルギーを使っている。いったん話を止めたのは、いよいよ、この先から問題が起こって来るからだろう…
鈴木医師は、内村氏を焦らせたり緊張させたりしないよう、内村氏が再び口を開くのを待った。
しばらくのち、声を絞り出すようにして、内村氏は話の続きをはじめた…
「会議が終わって、設計室に戻ってきた設計部長はデスクにつくと、腕組みをして、なにやら考え込んでいるようでした。やがて、意を決したように立ち上がり、私のデスクのところまで歩いて来ました。
「内村君、ちょっと話がある。ミーティングルームまで来てくれるか。」
そう声をかけられた私は、悪い予感を感じながら、設計部長の後について、ミーティングルームへむかいました。
机をはさんで対面して座った私に、設計部長は、ズバリと切り出しました…
「内村君。しばらく営業部へ行って、営業の仕事をしてきてくれ。」
私は、驚きのあまり、声がでませんでした。設計部長は話を続けました。
「今日の全体会議でな、きみらも気がついてはいるだろうが、また、営業部長と対立した。営業部の意見としては、うちの家のデザインが、このまま変わらないのなら、もうこれ以上、売ることは無理、と。お客さんは、他社が出している、こじゃれた家を選ぶ、と。もう営業部がどんなにがんばっても、他社にかなわないところまで来ている、と。」
そこで、わたしはこう言ってみた。
「営業部の言い分は、よくわかった。しかし、わたしら設計をする者にとっては、こじゃれた家、とか、抽象的な言葉で言われても、図面にどう落とし込めばいいのかが、わからない。簡単なスケッチでよいから、営業部が理想と考えている、うちの会社の家の姿を、この紙に描いてみてくれないか?」
そう言って、わたしは、白紙の紙を営業部長に差し出した。
「そうしたら、描くことができないんだよ。彼らは言葉で仕事をする人間だから、頭の中に、問題意識があるのはわかるが、それを図で描けと言われると、できないらしい。
白紙を目の前にして、黙り込んでしまった営業部長の姿を見て、社長が、こう提案された。」
「営業部員と設計部員では、思考回路が違うのだから、その間を取り持って、両方の立場を理解できる社員が必要ということだ。営業部員に図面を描け、というのはハードルが高いから、設計部員の中から、若くて柔軟な思考の持ち主に、営業の現場を体験してもらえば、うちが売っている家に足りていないところを、具現化できるのではないだろうか。設計部員の中から、適材と思われる者を営業部にしばらくゆかせてみてはどうか?」
「社長、それは素晴らしいお考えです!我が社が今後も、建売住宅市場で生き残ってゆくためには、それしかありません。設計部長、ぜひ優秀な人を営業部へよこしてくれ!」
勝ち誇った表情を顔にうかべて、営業部長は設計部長に、そう言ったそうです。
設計部長は私に向かって、再度言いました。
「そこでだ。設計部において、若くて柔軟な思考の持ち主となると、内村君、きみをおいて他にはいない。営業部へ行ってくれるな。社長の指示だ。」
私は設計部長の言葉を聞いて、体がこわばり、背すじに冷たいものが下ってゆくのを感じました。
私は仕事で何がいやかというと、営業だけはしたくなかったのです。お客様と対面して、お客様に応じて、臨機応変に話題や話し方を変えながら、物品を売る、そのような仕事は、私から見たら、芸当のように感じてきました。しかも、この会社の商品は普通の人にとっては、人生で一番値段の高い買物「家」ではないですか。そんなものを私が売るなんてありえない。
就職活動をした時にも、「営業」だけは避けていました。今の会社も「設計部員」の募集だったから、応募したのです。それがいまさら、営業部に行ってくれとは…
私の心の内は、不平と不満で盛り上がってきましたが、私の性格には、それを言葉にして設計部長に伝える能力がありませんでした。
私が押し黙っているのを「承諾」という意味に受け取ったのか、設計部長は軽いノリで、
「じゃ、明日から、営業部に出社してくれたまえ。」
と、言い、話は終わったとばかりに立ち上がり、私の横を通る時に、私の肩をポンとたたくと、ミーティングルームからでてゆきました…
ひとりミ゙ーティングルームに残された私は、さまざまな考えが頭に浮かび、椅子から立ち上がることができませんでした。
いちばん最初に考えたのは、私にとっては死ぬほど怖い、営業の仕事をさせられるのなら、いっそのこと辞表を出して会社を辞めようかということでした。
しかし、この会社に入社して、まだ一年しか経験がありません。他の会社に中途採用してもらえるような実力があるとは思えません。
では怖くても営業部へ行くしかないのか。営業部長や営業部員は、私にどんな態度で接してくるだろうか。これまで頭が上がらなかった、にっくき設計部の人間に、いじめ、意地悪をしないだろうか。内気で話下手な私を、もの笑いにしたりしないだろうか。
私は机にひじをつき、両手で頭を抱え込んでしまいました。
その姿勢のまま、夕闇が迫ってくるまで考え続け、私は自分なりの結論をだしました。
それは「とりあえず、明日は営業部へ行く。そして営業部のやつらの態度や自分に求められる仕事が、自分の神経に触って、どうしても耐えられなかったら、どこかのメンタルクリニックを受診して、診断書を書いてもらい、提出して病欠する。」
と、いうものでした。」
鈴木医師が微笑みながら、口をはさんだ。
「しかし内村さんは、そうされなかった。今日も営業マンの服装をしていらっしゃるし、この病院は治療に重きをおくところで、簡単に診断書をだす病院ではありませんから。それを知った上で来られたのでしょう?」
鈴木医師の微笑みにつられたように、内村氏も硬い表情が少しゆるんで、視線を上げ、鈴木医師の顔を見た。
「営業部で、親切な先輩との出会いがあったのです。その人がいなかったら、私はとっくに病欠に入っていたでしょう。」
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