マイグレーション ~現実世界に入れ替え現象を設定してみた~

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「失礼しました」

 自己紹介カードの再提出を終えて、俺は決まり文句のような挨拶をして職員室を出た。
 今は面白くもなく、将来のなんの役にも立たなそうな授業を二時間受けた後の放課後だった。
 そして、俺は姫石を教室で随分と待たせている状況だった。
 自己紹介カードを再提出する相手であった担任の奈良先生が不在だったせいで、奈良先生が戻るまでかなり待たされてしまった。
 そんなわけで、姫石の待つ教室へと俺は足早に向かった。

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 廊下も他の教室にも人はおらず、グラウンドでやっている部活動の声が遠くから聞こえる程度の静けさだった。
 放課後になってからだいぶと時間が経っているから、残っている人がいないのも当然か。

「悪い遅くなった」

 詫びを入れて教室に入ると、窓際に座る姫石以外には人はいなかった。
 蛍光灯の白い光は窓から入る太陽の光にかき消され、教室全体が暖かいオレンジ色の光に包まれていた。
 時折、心地良い風が窓に取り付けられているカーテンをふわりと靡かせていた。

 俺の声に反応して姫石は振り返った。
 姫石が振り返った時にちょうど良く風が吹き、肩に少しかかったセミロングの姫石の髪を優しく靡かせた。
 太陽の光に当てられていたせいか、靡いた姫石の髪は透けてしまいそうなほど透明感があった。

 儚いぐらいに美しくて綺麗だ。
 俺はただただそう思った。
 振り返った瞬間の姫石は、まるで写真で取られた一枚であるかのように俺の目には映った。

「大丈夫。良い感じに太陽が当たって暖かくて気持ち良かったから。だから、あたしを長く待たせたことは許してあげる」

 気持ちよさそうに大きく伸びをして姫石は言った。

「許してもらえたなら良かったよ。確かに気持ちよさそうだな」

 姫石の言う通り、教室はポカポカとしていて心が落ち着くような気持ちよさだった。

「でしょ! それにしてもやけに遅かったね。再提出するだけだったんでしょ? あ、もしかして再再提出になって書き直しをしていたから遅れたとか?」

「そんなわけないだろ! ちゃんと再提出でOKはもらえたよ。そうじゃなくて、単純に奈良先生が職員室に不在で戻ってくるのを待っていたら遅くなっただけだから」

 俺だって再再提出になるほど自己紹介カードをまともに書けないわけじゃない。

「そういうことね。奈良先生からOKが出て良かったね。まぁ、普通は自己紹介カードなんかで再提出になったりはしないんだけどね」

「おい、それは言うなよ」

 俺がばつが悪そうに言うと、姫石はさぞ可笑しそうに笑った。

「ごめんごめん。じゃあ、もう言わないでおいてあげる。ほら、そんなとこに立ってないで座ったら? 話があるんでしょ?」

 あぁ、そうだった。
 俺は姫石に話があるんだった。
 こんな呑気な会話をするために姫石を教室で待たせていたわけではない。

「そ、そうだな」

 俺は姫石が座っている席の前の席に近づいた。
 そして、その席の椅子の向きを90度横に回転させて姫石と向かい合うようにして座った。

 近い。
 一つの机の上で向き合う姫石との顔の距離が妙に近い。
 こんなに近くで姫石と顔を突き合わせることなんて今までにあっただろうかと思ってしまうほどに近く感じる。

 ……

 どうしても沈黙の時間が流れてしまう。
 だが、そろそろ頃合いだろう。
 話を切り出さなければ。

「なぁ、姫石。俺が話したいことって言うのはさ――」

「ちょっ、ちょっと待って! ごめんなんだけど、やっぱりあたしの方から先に話したいことがあるの!」

 俺が話を切り出そうとすると慌てたように姫石が話を遮ってきた。

「お、おう、わかった。姫石がそれで良いなら先に話してくれ」

 てっきり、俺から言った方が姫石は嬉しいのかと思った。

「う、うん。ありがとう。その……えっとね……」

 姫石は少しずつ言葉を続けようとしていた。

「あたしってさ、母子家庭でしょ? それであたしのお母さんがあたしを生む直前に離婚しているのは玉宮も知ってるよね?」

 あれ?
 どうも俺が想像していたのとは違う話みたいだ。

「え? あぁ、まぁ何となくは姫石から聞いていたからな」

 俺は拍子抜けしてしまい、イマイチ話の内容が頭に入ってこないでいた。

「そうだね。玉宮にだけは何度か話たことがあったね。けど、これからする話は玉宮にも他の誰にも話したことがないと思うの」

 姫石の真剣な口調から話の重要性を感じた俺は急いで頭を切り替えた。

「あたしのお母さんが離婚した理由って玉宮は知ってる?」

「いや、知らないな」

「そっか。これは話してなかったみたいだね。理由と言っても、よくある話であたしのお父さんの浮気が発覚したことが離婚の原因なの」

 離婚の原因でよく上位にあげられていそうな浮気が姫石の両親が離婚した原因だったらしい。

「そうだったのか。浮気か……よくある話かもしれないが、姫石がもうすぐ生まれるって時に浮気をするのは更にたちが悪いな」

「うん、それもそうなんでけど問題は他にもあるの」

「他にも?」

 離婚したことによる経済的問題だろうか。
 でも、姫石のお母さんはバリバリのキャリアウーマンだ。
 経済的には全くもって問題ないほどのお金を稼いでいる。

「そう、あたしの名前のこと」

「名前って……姫石華っていう名前のことか?」

「姫石華だと氏名じゃない。名前なんだから『華』の部分が問題なの」

 姫石に名前と氏名の違いを指摘されるとは思わなかった。
 名前と聞かれてフルネームを答えることも間違いではないような気もするが。

「『華』という名前が問題? この名前のどこが問題なんだ?」

「実はね、『華』っていうのはあたしの本当の名前じゃないんだ」

「は?」

 本当の名前じゃないって……姫石はずっと偽名を使って過ごしてきたってことか?

「あ~ごめん。言い方が悪かったかも。『華』っていう名前は間違いなくあたしの名前だよ。でも、本当の名前じゃないっていうか、戸籍上だけの名前っていうか……」

 唖然とした俺を見て姫石は改めて言い直したが、どうにも歯切れが悪い。

「よくわからないが、姫石の言う本当の名前っていうのは何て言うんだ?」

「それは……」

 言葉を切って、真っ直ぐと俺の目を見つめて姫石は言った。

「あたしの本当の名前は『真央』って言うの」

「……『真央』か、良い名前じゃないか」

 俺は「姫石華」よりも「姫石真央」の方がなぜかしっくりとくるように感じた。
 それに「姫石真央」の方が姫石に似合っている気がした。

「えへへへ、ありがとう」

 姫石はよほど緊張していたのか安心したように笑った。

「それで、『真央』っていう名前が本当の名前というのはどういうことなんだ?」

 姫石の本当の名前と姫石の両親の離婚がどう関係しているのだろう。

「えっとそれはね、この『真央』っていう名前はあたしのお母さんとお父さんの二人が考えた、あたしの名前になるはずだった名前なの」

 なんだ?
 このややこしい説明は?

「……つまり、本来だったら姫石の名前は、姫石の両親が考えた『真央』という名前だったってことか?」

「そう、そういうこと!」

 それが言いたかったというばかりに姫石はうんうんと頷いていた。

「なら逆に、今の『華』っていう名前は何なんだよ?」

「……それはお父さんのの人の名前なの」

「……」

 姫石の口からその言葉を聞いて俺は絶句した。

「あたしが生まれる直前にお父さんの浮気が発覚してね。それであたしのお母さんは、たぶんお父さんに対する当てつけとして浮気相手の人の名前をあたしに付けたんだと思うの」

 そんな……そんなことがあって良いのかよ!
 親から子供に与える名前っていうのは、親が子供にこう育って欲しいとか、こんな人間になって欲しいとか、そういう願いを込めて付けるもんなんじゃないのか!
 それを……姫石のお母さんはこんな理由で姫石に名前を付けるなんて……

「ハハハ、マジか……」

 俺の激高する思いとは裏腹に、俺はひどく乾いた笑い声と苦笑いをすることしかできなかった。

「そう、マジなの。このことを知った日から、あたしは『華』っていう名前が大嫌いになった。正直、こんなこと知りたくなかった。どうせなら、隠し通しておいて欲しかった! そしたら、『華』っていう名前を大嫌いにならずにすんだのに!」

 姫石はだんだんと少し涙ぐんで上ずった声で言った。

「姫石……」

 自分の名前がこんなひどい理由で付けられたと知ったら、誰だって自分の名前が大嫌いになるだろう。

「だからね、せめて……せめて玉宮にだけは……あたしのことを……『真央』って呼んで欲しいの!」

 静かに涙を流しながら必死に訴える姫石を見て、俺は自然と姫石を優しく抱きしめていた。

「そんなの呼んでやるに決まってる! 姫石のことをそんな名前でなんかは絶対に呼ばない! 約束してやる! 俺はこの先ずっと何があっても姫石のことを……いや、『真央』のことを『真央』って呼んでやる!」

 そう俺が叫ぶと真央は小さくゆっくりと優しく、でも強く、俺を抱きしめ返してきた。

「……ありがとう」

 真央は俺の耳元で、名前という呪いから救われたような声で小さくささやいた。
 この真央の声を聞いて、俺は今しかないと思った。

 俺は抱きしめていた両手を真央の両肩に乗せ、お互いの顔がよく見えるようにした。
 いきなり俺にこんなことをされた真央は、涙で赤くなった目を少し驚いた目にしていた。

「だから!」

 心と体の準備に誤差があるせいで、どうしても俺はここで言葉を区切ってしまった。
 それでも……俺はこの先の言葉を続ける!

「だから俺は! 『真央』のことが好きだ!」

 真央のことが好き。
 こんな言葉はいくらでも簡単に言うことができる。
 それでも、この言葉を言うまでの段階を進めることはとても容易なことではない。
 だからこそ、俺はこの言葉をしっかりと言えたことに問題はないと思っている。

 俺の言葉を聞いて真央は一瞬フリーズしていた。
 けれど、すぐに表情をほころばせ静かに涙を流した。
 その涙は決して、さっき流した涙と同じ意味で流れたわけではないはずだ。
 俺はそう信じている。

「あたしも玉宮のことが……『香六』のことが好き!」

 そう言った真央の姿は狂おしいほどに愛しかった。
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