極上御曹司は仮面の怪盗令嬢の素顔を暴きたい

ささゆき細雪

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chapter,2

02. 昼の顔、画廊のなかで

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 朝一番の開館準備は、誰にとっても少しの緊張を伴う。展示室の照度を確認し、湿度計を見て、硝子ケースの鍵をひとつずつ開けていく。
 いつもと同じ手順、同じ音。
 けれど更紗は、今日に限ってその静けさの中に微かな鼓動を感じていた。

 ここ――先週、九条さんが立っていた場所だ。

 夜桜の絵の前に立ち、無意識に視線を落とす。反射光を避けるために角度を変えたライトの下で、”夜桜”は深い藍を帯びて沈黙している。
 まるで、誰かの言葉を飲み込んだまま、息をひそめているかのようにも見える。

「おはようございます、霧島さん」

 背後から声をかけられ、更紗は軽く振り返った。
 受付担当の壷井が、朝の伝票を抱えて立っている。

「おはよう。今日の納品は午後ね?」
「はい、あと……九条さんの会社から、再調整の報告が届いてます」
「……そう」

 指先がかすかに止まる。彼がまたここに来る。更紗は能面のように表情を凍らせて黙り込む。
 壷井は気づかないで、「九条さんカッコいいですよねー」と呑気に伝票を並べている。
 業務上の連絡。それだけのはずだ。
 けれど、封筒に印字された〈株式会社KUJO〉のロゴを見た瞬間、心の奥がざわめいて、波紋がひろがっていく。
 彼が口にしていた言葉――「守るべきものほど、美しく脆い」、その低く通った声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。

「……まもなく開館ですね。じゃあ照度、あと二ルクスだけ下げましょうか」
「了解です」

 小さく息を吐き、更紗はスイッチを調整する。光がわずかに和らぎ、沈黙していた夜桜の絵がしっとりと艶を帯びた。
 その刹那、硝子の奥に自分の影と、もうひとつ――誰かの姿が重なって見えた気がした。
 錯覚だとわかっていても、その影は、静かに嗤っている。

 ――森鍵新蔵が流した”虹”のことを彼は知っているのだろうか。

 更紗はその思いを胸の奥に押し込み、画廊”キィ・フォレスト”の扉にかかっていた札をOPENに差し替える。
 雨上がりの光が差し込み、初夏の風が入り込む。先週と打って変わって天気は良い。
 風に呼応するかのように、絵のなかの桜がふわりと揺れた気がした。


   * * *


 九条が手にしている定期点検の報告書には「必要最低限の再訪」と記してある。
 それでも彼の足は、予定より十五分も早く“キィ・フォレスト”へ向かっていた。

 ――業務上の判断。それ以上でも、それ以下でもない。

 そう自分に言い聞かせながら扉をくぐった瞬間、淡い香りと静かな光に迎えられた。
 あの日と同じ画廊の展示室。けれど違うのは私設美術館四館で順次開催される”森金連城のこどもたち展”に向けて金魚がモチーフの日本画が搬出されていることか。
 金魚の絵が飾られていた廊下には森金連城の弟子と呼ばれた猫沢釣魚ねこざわちょうぎょが師匠の絵を模写したであろう風景画が並んでいる。鍵小野宮家に遺された連城の絵の多くは猫沢をはじめとした弟子たちが保管しており、彼らの没後、親族の手によって森鍵に委ねられた。
 森鍵側は連城に魅入られ、日本画や版画を遺した弟子たちの絵を”連城の子どもたち”と総称し、年に何度か販売を兼ねた展示会を行っている。連城の絵と比べて廉価なこともあり、彼らが描いた絵画は海外のコレクターからも注目を浴びており、会期中は画廊も慌ただしくなるのだという。
 光の流れも微かに変わっている気がした。けれど、連城が描いた”夜桜”だけは変わらずそこに飾られている。

「こんにちは」

 更紗が白手袋を外し、細い指で展示台の角度を調整していた。
 彼女の無駄のない動きは相変わらず美しく、九条の目を驚かせる。
 だが、その慎重さは、何かを“隠している”ようにも見えた。

「あ、ご無沙汰しております九条さん。再調整の件ですね」
「ええ。……あなたの方が、覚えていてくださったとは」

 短いやりとり。
 それだけで、報告書に書けない種類の沈黙が生まれる。
 彼女と言葉を交わしたのは、ほんの数秒。けれどその短い沈黙の裏で、展示室の空気がゆっくりと変わった気がする。

 ――展示環境、異常なし。

 だが――“異常”なのは、光でも温度でもないと、九条は焦りを覚えてしまった。
 監視対象である霧島更紗という名の、不可視の層。彼女のことが気になって仕方がない。
 展示室に並べられたガラスケースのひとつに、更紗が身をかがめて照明の角度を調整している。
 細い指先がスポットライトを動かすたび、鉱石の表面に青白い光が走る。室内の空気がわずかに震えた気がして、九条は息を止める。
 見間違いだ――そう思いながらも、光の中に一瞬だけ彼女の瞳が淡く光ったように見えた。

「……照度、強すぎましたか?」

 更紗が振り向く。
 その頬に当たる光が柔らかく、九条は反射的に視線を逸らす。

「いや。ちょうどいい。……きれいだ」
「ありがとうございます。岩絵の具も、光が入ると粒の色が変わるんですよ。まるで呼吸しているみたいに」

 そう言って微笑む更紗の横顔を、九条はしばらく見ていた。「きれいだ」と思ったのは絵画なのか、目の前の彼女なのか。脳内が錯覚しそうになっている。
 報告書に書かれた「要監視」の文字を頭の隅にちらつかせながら、九条は更紗を凝視する。
 今、彼の胸の奥にあるのは警戒よりも――どうしようもなく人間的な好奇心だった。

「照度は……これで問題なさそうですね」
「ええ」

 彼女の横顔が光を受けて淡く滲んだ。何か言いたそうな彼女の横顔に、九条は無意識に息を止める。
 だが、更紗がふとこちらを見上げた瞬間、その瞳の奥に一瞬だけ“夜桜”の光が宿っているのが見えた。
 目を逸らすことも、声を掛けることもできないまま、見つめ合う。
 展示室の空気が、ほんのわずかに熱を帯び、九条を高揚させた。

「展示会、楽しみですね」

 柔らかく微笑む更紗の前で、九条は瞳を瞬かせる。
 彼女は自分がセキュリティ会社から監視の対象になっていることを知っているのだろうか。
 この夏に東京を皮切りに開催される”連城のこどもたち展”にはふだんはなかなか公の場に出ることのないお宝も非売品として公開されることになっている。取り扱う側の彼女ならその価値は痛いほど理解しているはずだ。それなのに――なぜそんなに無防備なんだ。

 その距離を測りかねたまま九条は静かに視線を落とす。
 光が揺れたのか、心が揺れたのか……ただ確かなのは、彼が次にここを訪れる理由がもはや“業務”だけではなくなってきているということだった。
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